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イタリアの自動車メーカー・ブランド ウィキペディアから
マセラティ(伊: Maserati S.p.A.)は、ヨーロッパならびにアメリカの自動車メーカーであるステランティス N.V. 傘下の高級スポーツカーブランド、およびその会社である。モデナに本社を置き、1914年創業。社名は「マセラーティ」、「マセラッティ」や「マゼラーティ(イタリア語発音: [mazeˈraːti])」と記載されることもある。
イタリア北部ピアチェンツァ出身の鉄道機関士ロドルフォ・マセラティには、長男カルロ(Carlo, 1881年生)、次男ビンド(Bindo, 1883年生)、四男アルフィエーリ(Alfieri, 1887年生)、五男マリオ(Mario, 1890年生)、六男エットーレ(Ettore, 1894年生)、七男エルネスト(Ernesto, 1898年生)という6人の息子がいた(三男は生後間もなく死亡)[2]。カルロはイソッタ・フラスキーニ (Isotta Fraschini) やビアンキでエンジニア兼レーサーとして活躍し、ビンドとアルフィエーリとエットーレもイソッタ・フラスキーニで働いた。
カルロが病死した後、兄譲りの才能を持つアルフィエーリを中心にして、エットーレとエルネストの3人で独立し、1914年12月1日[3]に故郷ピアチェンツァに近いボローニャで自動車工房ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティを開業する[4]。初期は市販車のレーシングチューンを主業とし、第一次世界大戦中は雲母を絶縁体とするスパークプラグを開発し、軍需産業向けに業績を伸ばした。
終戦後はディアット (Diatto) と提携し、グランプリマシンの製作を依頼される。ディアットが資金難に陥ると計画を譲り受け、マセラティの名を冠したオリジナルレーシングカー「ティーポ26」を完成させ、1926年のタルガ・フローリオでアルフィエーリがドライブし、デビュー戦でクラス優勝を果たす。このマシンのグリルには、芸術家になったマリオがデザインした三叉の銛(トライデント)のバッジが付けられた[5]。
以後、レーシングカーを製造販売するコンストラクターとして名を広め、ライバルメーカーのアルファロメオと国内外のレースで競い合う[5]。世界恐慌の荒波の中、1932年に大黒柱のアルフィエーリが44歳で他界すると、エルネストが会社を引き継ぎ、ビンドも経営に加わった。ナショナリズム発揚の場となったグランプリレースにおいて、国有化されたアルファロメオや、ナチスドイツの威信を背負うメルセデスやアウトウニオンを相手にして、家族経営のマセラティは限られた戦力で健闘した。
資金難が続いた結果、1937年にマセラティ兄弟はモデナの実業家アドルフォ・オルシ (Adolfo Orsi) に経営を譲渡し、息子のオメール・オルシが社長に就任した。マセラティ兄弟はコンサルタントとして10年間会社に在籍するという契約を交わす。1940年にはモデナのチーロ・メノッティ通りに本社工場を移転。奇しくも、モデナはエンツォ・フェラーリの生地でもあり、1943年にフェラーリがモデナ近郊のマラネッロへ移転するまで、同じ町にふたつのレースチームが同居していた。
第二次世界大戦後の1947年、契約の10年間を終えたマセラティ兄弟は会社を離れ、ボローニャでO.S.C.Aを創立する。同年、ジュネーヴ・モーターショーでマセラティ初のロードカー「A6 1500」を発表。関連会社として"Fabbrica Candele Accumulatori Maserati S.p.A."を設立し、スパークプラグやアキュムレーターなどの自動車部品を生産し、後にモペッドやオートバイも生産した。
1950年代はF1やスポーツカーレースの世界選手権で成功するが、1957年を最後にワークス活動を停止し、プライベーター向けの車両供給にシフトする。そして、6気筒/8気筒のレーシングエンジンをデチューンして搭載したロードカーの「3500GT」や「5000GT」を発表し、高級スポーツカーメーカーへの転身を進める。1963年に発表した初の4ドアセダン「クアトロポルテ」はラグジュアリーなブランドイメージを確立し、以後マセラティの主力モデルとなる。
1966年、フランスのシトロエンと業務提携し、シトロエン・SMに搭載するDOHCV6エンジンの開発を受託する[6]。経営難に苦しんでいたオルシ家は株式の60%を売却し、1968年にマセラティはシトロエンの傘下に入る。この伊仏提携時代にはミッドシップスーパーカー「ボーラ」を発表したり、シトロエンの看板技術であるハイドロニューマティック(油圧作動システム)を搭載したりしている。
しかし、オイルショックの影響などによりシトロエンの業績が悪化し、二代目「クアトロポルテ」の量産は中止となる。1976年にシトロエンはプジョーの主導でPSAグループに編入されるが、プジョーはマセラティとの契約を破棄。マセラティは破産寸前に追い込まれたが、モデナの後発スポーツカーメーカー、デ・トマソが政府の産業再生機構の資金を得て、マセラティの経営再建に乗り出す。
デ・トマソ体制下で当初発表された「キャラミ」や三代目「クアトロポルテ」は、デ・トマソのロンシャンやドーヴィルの車台を共用していた。そして、マセラティの優雅でスポーティーなイメージを活かした乗用車「ビトゥルボ」がヒットモデルとなり、北米やバブル期の日本など海外市場で売り出し、バリエーション展開を続けることになる。また、デ・トマソはクライスラーにマセラティ株の一部を売却し、「クライスラー・TC バイ・マセラティ」を共同企画した。
1993年、デ・トマソはフィアットにマセラティ株を売却し、フェラーリやアルファロメオと同様に、マセラティもイタリア最大のフィアットグループ(現ステランティス、元フィアット・クライスラー・オートモービルズ)傘下に加わる。
1997年にはフェラーリの子会社となり、ルカ・ディ・モンテゼーモロ会長の下で再び高級スポーツカーブランドとして再構築が進められ、デ・トマソ時代の品質問題は改善された。生産体制の合理化により、ピニンファリーナがボディをデザインし、フェラーリの工場でエンジンを組み立て、フェラーリ製F1マティック譲りのパドルシフト式セミAT「カンビオコルサ」を採用するなど、フェラーリカラーが色濃くなった。
2005年にはフェラーリ傘下から離れ、かつてライバルだったアルファロメオと統合。世界市場で戦う量産ラグジュアリーブランドへの変化を目指し、これまでの少量生産から一転した拡大戦略を図っている。2013年よりトリノ市グルリアスコの新工場「アッヴォカート・ジョヴァンニ・アニェッリ(AGAP)」で、主力車種の三代目「ギブリ」と六代目「クアトロポルテ」を量産[7]。人気の高級SUV市場に向けて「レヴァンテ」を投入するなどラインナップを広げた結果、全世界の新車販売台数は2017年に5万台を突破した[8]。
2020年代に向けてはEVやPHVの導入を含めたブランド改革の計画を発表しており[9]、2020年9月9日にブランドリローンチイベント「MMXX:Time to be audacious」を開催。16年ぶりとなる自社製スーパーカー「MC20」などを発表した。
2022年3月、ステランティスはグループ長期戦略「Dare Forward 2030」を発表した。同戦略において、2030年までにランチア・DS・アルファロメオ・マセラティの全モデルをBEV化する目標が設定された。これに伴いマセラティ側でも新事業計画「フォルゴーレ戦略」が発表され、2025年までに全モデルに100%電動化モデルを設定するとともに、2030年までに全モデルをBEV化するとしている。
エクステリア | シリーズ名 | ボディ形状 | セグメント | 概要 |
---|---|---|---|---|
クアトロポルテ(Quattroporte) | 4ドアセダン | Fセグメント | 4ドアのスポーツセダン。現行モデルは2013年1月に発表された6代目。 | |
ギブリ(Ghibli) | 4ドアセダン | Eセグメント | 4ドアのスポーツセダン。現行モデルは2013年4月に発表された3代目。 | |
レヴァンテ(Levante) | 5ドアSUV | Eセグメント | マセラティ初のSUV。2016年に発売。 | |
MC20(MC20) | 2ドア クーペ | Sセグメント | MC12以来のスーパースポーツ。2020年9月発表。 | |
グレカーレ(Grecale) | 5ドアSUV | Dセグメント | マセラティ2車種目のSUV。2022年3月発表。 | |
グラントゥーリズモ(Granturismo) | 2ドアクーペ | Sセグメント | 2ドアのグランドツアラー。現行モデルは2022年10月に発表された2代目。 |
1953〜1961年のスポーツカー世界選手権に、A6や300Sなどで参戦した。チャンピオンにはなれなかったが、ランキング2位・3位を複数回獲得した。
2004年からエンツォフェラーリのコンポーネントを流用したMC12で、FIA GT選手権のGT1クラスに参戦。2005年にチームタイトルを獲得し、2006年から2009年までドライバー、チーム両タイトルを4連覇した。
2010年から新たに開催された、FIA GT1世界選手権にも参戦。初年度でドライバーズタイトルと、サポートするビータフォン・レーシングがチームタイトルを獲得した。
2022年7月、SRO GT2規定に沿って開発されたレース専用モデル、MC20 GT2を発表。2023年から、GT2ヨーロピアン・シリーズに参戦する[11]。
2022年1月、2022年-23年シーズンから、フォーミュラEに参戦すると発表した[12]。同年10月、チーム代表にジェームズ・ロシターが就任した[13]。
エントリー名 | オフィシーネ・アルフィエリ・マセラティ |
---|---|
チーム国籍 | イタリア |
チーム本拠地 | イタリア モデナ |
主なチーム関係者 |
ジョアッキーノ・コロンボ ヴァレリオ・コロッティ |
主なドライバー |
ファン・マヌエル・ファンジオ スターリング・モス |
F1世界選手権におけるチーム履歴 | |
参戦年度 | 1950 - 1960 |
出走回数 | 70 |
コンストラクターズ タイトル | 0 |
ドライバーズ タイトル | 2 (1954, 1957) |
優勝回数 | 9 |
通算獲得ポイント | 6 |
表彰台(3位以内)回数 | 37 |
ポールポジション | 10 |
ファステストラップ | 13 |
F1デビュー戦 | 1950年イギリスGP |
初勝利 | 1953年イタリアGP |
最後のレース | 1960年アメリカGP |
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年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | ポイント | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | オフィシーネ・アルフィエリ・マセラティ スクーデリア・アンブロジアーナ(4CLT/48) ジョー・フライ(4CL) ブライアン・ショウ・テイラー(4CL) エンリコ・プラーテ(4CLT/48) スクーデリア・ミラノ(4CLT/50ミラノ) スクーデリア・アキッレ・バルツィ(4CLT/48) トニ・ブランカ(4CL) パウル・ピーチ(4CLT/48) |
4CLT/48 | P | マセラティ4CLT(1.5L L4s) | - | ルイ・シロン フランコ・ロル |
-* | -* | 0 |
1951年 | エンリコ・プラーテ(4CLT/48) エキュリー・シャム(4CLT/48) スクーデリア・ミラノ(4CLT/50ミラノ,4CLT/48) スクーデリア・アンブロジアーナ(4CLT/48) ジョン・ジェームズ(4CLT/48) フィリップ・フォゼリンガム=パーカー(4CL) トニ・ブランカ(4CLT/48) エスクデリア・バンデランテス(4CLT/48) ホアキン・パラシオ(4CLT/48) |
- | - | - | - | - | -* | -* | 0 |
1952年 | オフィシーネ・アルフィエリ・マセラティ エンリコ・プラーテ(4CLT/48) エスクデリア・バンデランテス(A6GCM) |
A6GCM | P | マセラティA6(2.0L L6) | - | ファン・マヌエル・ファンジオ フロイラン・ゴンザレス フェリーチェ・ボネット フランコ・ロル |
-* | -* | 0 |
1953年 | オフィシーネ・アルフィエリ・マセラティ エンリコ・プラーテ(A6GCM) バロン・デ・グラッフェンリート(A6GCM) エスクデリア・バンデランテス(A6GCM) スクーデリア・ミラノ(A6GCM) |
A6GCM | P | マセラティA6 | - | ファン・マヌエル・ファンジオ フロイラン・ゴンザレス フェリーチェ・ボネット オノフレ・マリモン オスカル・ガルベス ジョニー・クレエ ヘルマン・ラング セルジオ・マントヴァーニ ルイジ・ムッソ |
-* | -* | 1 |
1954年 | オフィシーネ・アルフィエリ・マセラティ エキュリー・ロジェ(250F) ハリー・シェル(A6GCM,250F) バロン・デ・グラッフェンリート(A6GCM) ロベルト・ミエレス(A6GCM,250F) ホルヘ・ダポンテ(A6GCM) カルロス・メンディテギー(A6GCM) プリンス・ビラ(250F) スターリング・モス(250F) オーウェン・レーシング・オーガニゼーション(250F) ギルビー・エンジニアリング(250F) ジョヴァンニ・デ・リウ(A6GCM) |
A6GCM 250F |
P | マセラティA6 マセラティ250F1(2.5L L6) |
- | ファン・マヌエル・ファンジオ オノフレ・マリモン ルイジ・ムッソ セルジオ・マントヴァーニ アルベルト・アスカリ ルイジ・ヴィッロレージ ロベルト・ミエレス プリンス・ビラ ハリー・シェル ルイ・ロジェ パコ・ゴディア |
-* | -* | 2 |
1955年 | オフィシーネ・アルフィエリ・マセラティ アルベルト・ウリア(A6GCM) エキュリー・ロジェ(250F) スターリング・モス・リミテッド(250F) プリンス・ビラ(250F) グールズ・ガレージ(250F) オーウェン・レーシング・オーガニゼーション(250F) ギルビー・エンジニアリング(250F) |
250F | P | マセラティ250F1 | - | ジャン・ベーラ ロベルト・ミエレス ルイジ・ムッソ カルロス・メンディテギー チェーザレ・ペルディーサ セルジオ・マントヴァーニ クレマール・ブッチ ハリー・シェル アンドレ・シモン ピーター・コリンズ ホレース・グールド |
-* | -* | 0 |
1956年 | オフィシーネ・アルフィエリ・マセラティ ルイジ・ピオッティ(250F) オーウェン・レーシング・オーガニゼーション(250F) アルベルト・ウリア(A6GCM) エキュリー・ロジェ(250F) グールズ・ガレージ(250F) スクーデリア・セントロ・スッド(250F) アンドレ・シモン(250F) スクーデリア・ガステラ(250F) ギルビー・エンジニアリング(250F) ブルース・ハルフォード(250F) ジャック・ブラバム(250F) オットリーノ・フォロンテリオ(A6GCM) |
250F | P | マセラティ250F1 | - | スターリング・モス ジャン・ベーラ チェーザレ・ペルディーサ パコ・ゴディア ウンベルト・マグリオーリ カルロス・メンディテギー チコ・ランディ ジェリーノ・ジェリーニ フロイラン・ゴンザレス ピエロ・タルッフィ ルイジ・ヴィッロレージ ヨアキム・ボニエ |
-* | -* | 2 |
1957年 | オフィシーネ・アルフィエリ・マセラティ スクーデリア・セントロ・スッド(250F) ルイジ・ピオッティ(250F) ホレース・グールド(250F) ヨアキム・ボニエ(250F) ジェリーノ・ジェリーニ(250F) ギルビー・エンジニアリング(250F) ブルース・ハルフォード(250F) オットリーノ・フォロンテリオ(250F) |
250F | P | マセラティ250F1(2.5L L6) マセラティ250F1(2.5L V12) |
- | ファン・マヌエル・ファンジオ ジャン・ベーラ カルロス・メンディテギー ハリー・シェル ジョルジオ・スカルラッティ パコ・ゴディア スターリング・モス ハンス・ヘルマン |
-* | -* | 4 |
1958年 | スクーデリア・スッド・アメリカーナ(250F) ケン・カバナ(250F) ヨアキム・ボニエ(250F) パコ・ゴディア(250F) ホレース・グールド(250F) スクーデリア・セントロ・スッド(250F) フロイラン・ゴンザレス(250F) ロベルト・ミエレス(250F) ルイジ・ピオッティ(250F) キース・キャンベル(250F) マリア・テレーザ・デ・フィリッピス(250F) ジョルジオ・スカルラッティ(250F) ルイ・シロン(250F) アンドレ・テステュ(250F) ファン・マヌエル・ファンジオ(250F) テンプル・ビューエル(250F) カジミロ・デ・オリヴェイラ(250F) |
- | - | - | - | - | 5位 | 6 | 0 |
1959年 | スクーデリア・セントロ・スッド(250F) スクーデリア・ウゴリーニ(250F) モンテカルロ・オートスポーツ(250F) ケン・カバナ(250F) エットーレ・チメリ(250F) フィル・ケード(250F) |
- | - | - | - | - | NC | 0 | 0 |
1960年 | ジョルジオ・スカルラッティ(250F) ナシフ・エステファーノ(250F) アントニオ・クレウス(250F) ジーノ・ムナロン(250F) エットーレ・チメリ(250F) ホレース・グールド(250F) ジョー・ルービン(250F) |
- | - | - | - | - | NC | 0 | 0 |
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
新東洋企業、シーサイドモーターを経て、長きに渡ってガレーヂ伊太利屋が日本総輸入代理店を務めていた。1997年、コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドに輸入権が移管されてからは、本国CIに基づくデザインのショールームが建てられたりした。
2011年に日本法人「マセラティジャパン」が始動してからは、世界的な拡販戦略に基づき、ガレーヂ伊太利屋→コーンズと続いてきた販売網の再編成を進めてきた。2014年からは新車購入者を対象としたコンシェルジュサービスをスタートさせ(2019年9月30日にて終了)、2019年には千葉県富里市にPDIセンターを開設した[14]。
なお、ステランティス傘下の他ブランドはStellantisジャパンが扱うが、マセラティのみマセラティジャパンが引き続き取り扱う体制がとられている。
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