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ブローニングM1917機関銃(M1917 Browning machine gun)は、アメリカ合衆国で開発された重機関銃である。
三脚に架装されたブローニングM1917重機関銃 | |
概要 | |
---|---|
種類 | 重機関銃 |
製造国 | アメリカ合衆国 |
設計・製造 |
ブローニング・アームズ コルト社 |
性能 | |
口径 | 7.62mm |
銃身長 | 610mm |
使用弾薬 | .30-06スプリングフィールド弾(7.62x63mm) |
装弾数 | 250発布製給弾ベルト |
作動方式 | ショートリコイル・クローズドボルト |
全長 | 965mm |
重量 | 47kg |
発射速度 | 600発/分 |
銃口初速 | 850m/s |
有効射程 |
5,500m(M1 Ball) 3,500m(M2 Ball) 4,500m(M2 AP) |
M1917はジョン・ブローニングが1901年に特許を取得した水冷・反動利用式機関銃の設計に基づいている。1917年、第一次世界大戦の勃発を受け、大量生産が容易で膨大な需要を十分満たしうる重機関銃としてアメリカ軍に採用された。
特徴としては、銃身の冷却機構にコルト・ブローニングM1895の失敗から、マキシム機関銃と同じ水冷式を採用している。水冷機構部分は外見上マキシム機関銃の物と似ているが、機関部の内部構造は全く違ったものを採用しており、マキシム系の機関銃に比べはるかに軽量であったとされる。機関部の作動方式にはショートリコイル式(反動利用式)を採用している。
弾薬は.30-06スプリングフィールド弾(7.62x63mm)を採用、弾薬の給弾方式にはそれまでブローニングが開発してきた機関銃と同じくベルト給弾式を用いている。
多くの機関銃設計者と同様、ジョン・ブローニングは高発射速度の自動火器を設計するにあたって、最も効率的・実用的な機構としてショートリコイルを採用するべきだと考えていた。1900年にはブローニングが以前に手掛けたコルト・ブローニング機関銃と同等の機能を有する水冷・反動利用式機関銃の特許を初めて申請し、1901年に認められた(アメリカ合衆国特許第 678,937号)。ただし、当時機関銃開発への関心が薄かったアメリカ政府からの支援は得られず、ブローニングは民生市場向け銃器の開発に注力するため、この設計案を1910年まで休眠させていた。1910年には1901年設計案に基づく試作銃を用いた試験が行われ、ブローニングはさらなる改良と発射速度の向上を求めた[2]。
当時、アメリカ軍の機関銃への関心は比較的低く、1904年にマキシム機関銃(M1904)を、1909年にベネット=メルシェ自動小銃(M1909)を採用していたものの、いずれも数は少なく、運用戦術も確立されていなかった。その後、1914年の第一次世界大戦勃発を受けて多少関心が高まり、1915年にはヴィッカース重機関銃が採用されている[3]。
1917年4月6日、アメリカ合衆国がドイツ帝国に宣戦布告を行い、第一次世界大戦に参戦した。しかし、同日秘密裏に行われた報告によれば、この時点で陸軍が有する機関銃は大小新旧の各種あわせて1,110丁のみであった。一方、ドイツでは開戦以来大量の機関銃の配備が進められており、アメリカ陸軍には控えめに見積もっても100,000丁の機関銃を配備する必要があるとされた。軍部はフランス製各種機関銃(Mle 1914、Mle 1915)の調達を進めたものの、これらは8x50mmR ルベル弾仕様のままだったので、.30-06スプリングフィールド弾とは別に供給を行う必要があり、兵站上の懸念を招いた[2]。
参戦に先立ち、ブローニングは2種類の.30-06仕様自動火器、すなわち1910年の設計を改良した水冷式重機関銃、および突撃射撃(marching fire)を想定した軽量な機関小銃(Machine Rifle, 後のM1918)の設計案を政府に提出している。1917年2月27日、ワシントンD.C.のコングレス・ハイツにて、軍高官、議員、諸外国軍人、報道関係者など300人を招き、これら2種類の自動火器のデモンストレーションが行われた。展示は共に好評で、当局は機関小銃の採用を直ちに決断したほか、水冷式機関銃は極めて過酷な環境で運用されることが想定されたため、徹底的なテストとさらなる改良が行われることとなった。参戦後の1917年5月、スプリングフィールド造兵廠の試験場にて水冷式機関銃の最初の公式テストが行われ、信頼性と構造の単純さ、製造の容易さなどが高く評価され、制式採用に向けた推薦が行われた[2]。
元々、コルト社はブローニングの特許に基づく火器を独占的に製造する権利を有していたが、一社で軍部の需要を満たすだけの機関銃を生産することは不可能であった。そのため、コルト社は製造権を政府に売却し、1917年7月までに他の銃器メーカーでの生産体制が整えられることとなった。7月から8月にかけて、全米各地の企業・工場に製造の打診が行われた。コルト社のほか、ウェスティングハウス社、レミントン社が製造を行った[2]。調達は1919年春までに前線の機関銃をM1917に置き換えるという想定で進められていた。実際には1918年11月に休戦を迎えたものの、戦後もしばらく製造は続き、12月末までに合計56,608丁が製造された[4]。
1919年頃から1930年代半ばにかけて、M1917の全面的な改良が進められた。改良を加えたモデルの名称はM1917A1とされ、既存のM1917も順次M1917A1へと改修していくこととされた。また、第二次世界大戦中にもM1917A1に各種改良が加えられ、再生産も行われている[3]。
M1917は第一次世界大戦勃発を受けて大量調達が図られたものの、前線での本格的な配備が進められるよりも前に休戦を迎えた。フランスには30,582丁が持ち込まれたが、このうち実戦で使用されたのは1,168丁のみである[4]。最初の実戦投入は、第79師団所属の分遣隊による1918年9月26日の戦闘であった[2]。
第一次大戦後もアメリカ陸軍の制式機関銃としての普及が進められた。1930年代後半、改良型のM1917A1が設計され、配備済みのM1917も順次M1917A1へと改修された。M1917A1は第二次世界大戦勃発時の主力重機関銃であった。その後の朝鮮戦争などでも使用され、最終的には1950年代後半にM60機関銃などで更新された[4]。
M1919は、M1917を空冷化/軽量化した機関銃である。元々は戦車搭載用の機関銃として開発されたが、後に歩兵用の軽機関銃と位置づけられた派生型のM1919A4やM1919A6が採用され、アメリカ軍で広く使用された。重量のあるM1917A1は移動・運搬に難があったため、徐々にM1919A4/A5へと置き換えられていったが、一方で水冷式のため持続射撃能力に優れており、太平洋戦争における日本軍、あるいは朝鮮戦争における中国人民志願軍が実施した歩兵による大規模な突撃にも十分対処することができるとして、M1917A1が重宝される場面もあった[4]。
中華民国では1921年(民国10年)からライセンス生産が行われたが、24式重機関銃に比べると生産数は少なかった。
第二次世界大戦後には、韓国陸軍や警察予備隊(のちの陸上自衛隊)、ベトナム共和国陸軍など親米諸国の軍隊へ供与され、ベトナム戦争では、南ベトナムに供与されたM1917A1が多数用いられている。
スウェーデンではM1917を大規模に導入し、ライセンスを所得して国産した他、独自の発展型を製造した。
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