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豊臣秀吉が発令したキリスト宣教及び南蛮貿易に関する規制文書 ウィキペディアから
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreにし、英語のfatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。
原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」(「覚書(かくしょ)」とも呼ばれる)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の「覚」が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。
織田信長は、鉄砲伝来から鉄砲(火縄銃)に強い関心を持って国内大量生産して導入することで戦を有利にし、天下布武(五畿を中心とする畿内・近国の天下統一)を目前にした。鉄砲をもたらしたポルトガル人が命を懸けてキリスト教の布教をするのに感心し、南蛮貿易、一部仏教勢力への牽制として、キリスト教を保護していた。豊臣秀吉は元来信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。イエズス会の宣教師は1583年に大坂に初めて到着、大坂城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた[1] 。1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった[2]。天正14年(1586年)3月[3]『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った[4][5]。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され[要出典][注 1]、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事[要出典]などを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らから知らされたとされる[要出典][注 3][注 6][注 7]。このときに『天正十五年六月十八日付覚』も施薬院全宗と見られる人物によって起草された。この翌日の6月19日(西暦7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
バテレン追放令は外交政策だけでなく以降の禁教令、鎖国、キリシタン迫害までの反キリスト教的宗教政策の原動力となった[19]。バテレン追放令以降の秀吉の書簡は[19]キリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[20]、神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した[21][22][23]。追放令以降も秀吉は三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの正統性を示すことによってキリスト教の特殊な教義を断罪したが[24]、家康の発令した「伴天連追放之文」(起草者は以心崇伝)でも、キリスト教を三教一致(神道、儒教、仏教)の敵として名指しで批判している[25][26][27]。
欧米ではバテレン追放令を秀吉の独裁者としての側面、領土拡張政策の文脈の中で検討することがある。ジョージ・サンソムはキリスト教の教えが社会的な序列、既存の政治構造に挑戦したことに注目しており、バテレン追放令を秀吉が独裁者、専制君主の観点から宣教師を単なる異教徒の枠を越えて、社会秩序の土台を弱体化させるものとして恐れた結果として起きた動物的な防衛反応だったと分析している[28]。スペイン領フィリピンではバテレン追放令を敵対的な外交政策として警戒を強め、秀吉によるフィリピン侵略計画の発端と見なしている[29][30][注 8]。ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックは1587年のバテレン追放令から1592年のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している[31]。
バテレン追放令以前、秀吉は明侵略のためにポルトガルから2隻の軍艦を購入できるよう、宣教師に取引斡旋の依頼をしていた[注 9]。追放令後もスペイン人に軍艦の購入を打診したが、秀吉によるフィリピン侵略に使われる可能性を危惧したスペインは拒絶した[32]。
バテレン追放令の原文(11か条の「覚」)には宣教師が中国、朝鮮、南蛮に日本人奴隷を売っていた[注 3][注 6][注 10]と糾弾する箇所があり、その具体的な状況として『天正遣欧使節記』[注 11]と、11か条の「覚」と部分的に内容が重なる箇所がありバテレン追放令と同時期に書かれた『九州御動座記』が参考文献とされることがある。11か条の「覚」が宣教師とポルトガル商人を同一視していたかは不明だが、より広義なポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷しか存在は確認されておらず[34]、日本人奴隷の具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。
バテレン追放令に先立ち豊臣政権は九州を制圧した。遠征時の九州の様子は豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己[要出典]によって『九州御動座記』として1587年7月頃に記録された。ポルトガル人が生きたままの状態で牛や馬の皮を剥いで、素手で食べていたとの記録や、ポルトガル商人と日本の商人との奴隷貿易に関する記述がある[35]。
歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは『九州御動座記』には文書の正確性に疑念をもたせる箇所があるとして、ポルトガル人が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの衝撃的な記載に言及し、ヨーロッパ人を化物と考えることは東アジアでは一般的であるために空想的と評しており[36][35]、執筆者が実際に目撃したものを著述したとは考えていない。九州御動座記にはこうした[注 12]偏見を含んだ記述の問題があるためポルトガル人に対する「黒い伝説」[注 13]として読めるとしつつも、実際に起きた事実として定量的な理解はすべきではないが、ポルトガル商人と日本の商人との奴隷貿易によって奴隷がおかれた状況については定性的な理解をすることも可能だとした。史実かは不明だが、この文書が秀吉がバテレン追放令を発布するに至った認識を理解するものとして軽んじることはできないと述べている[35][注 15]。
「九州御動座記」については他にも高麗王が「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」という秀吉の誤認に基づく表現がそのまま記述されているとの史料批判が行われている[37]。
鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』によると、南九州の薩摩[38]では200-300人の中国人奴隷[注 16]が家畜のように扱われていたと記録されているが[39][注 17]、日本の奴隷市場は倭寇による中国人奴隷や朝鮮人奴隷の供給だけでなく、日本国内からの供給にも依存していたという[33]。歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは、ポルトガル船来航以前から人身売買は行われており[42]、その状況も列島全体で広く知られていたことや、秀吉の質問状の分析から[43][42]、秀吉は倫理的な側面よりも宣教師の影響や、九州での労働力枯渇等の経済的な側面[注 18]を優先しており、秀吉が奴隷貿易に怒ってバテレン追放令を発布したとの岡本良知の説は覆えることになると結論を述べている[42]。
『デ・サンデ天正遣欧使節記』は1582年に旅立った少年達の記録として追放令前後の九州の社会的状況を記したものとして引用されることがある。出版年は1590年のものであるため、バテレン追放令の影響と見られる記述も収録されている。日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[46][47][注 19]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている[48]。
戦国時代の日本人の奴隷に焦点をあてた最初期の史学研究は岡本良知「十六世紀日欧交通史の研究」(1936年、改訂版1942-1944年)とされている[注 20][注 21][49]。バテレン追放令と奴隷貿易との関わりについては、いまだに岡本良知の説が言及されている[42]。日本の労働形態の歴史と、ポルトガル人の奴隷貿易との関連性についてはC・R・ボクサー「Fidalgos in the Far East (1550-1771)」(1948年)[50]が指摘しており、奴隷という用語に隠蔽されていた多様な労働形態(例えば傭兵や商人)の存在を明らかにした。
その後、この問題に新たな視点から取り組む動きはなく、牧英正「人身売買」 (1971年) [51]、藤木久志「雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」(1995年)[52]などによって日本側の資料から解明しようとする試みが行われた[49]。牧によると、秀吉は奴隷貿易のもつ倫理的な側面よりも、労働力の確保などの経済政策を重視していた[49][53][注 22]。藤木は甲陽軍鑑、北条五代記や島津の大友領侵攻に関するポルトガル人の報告から奴隷狩りが日本において一般的に行われていた事を明らかにした[54][55]。
日本人奴隷と追放令に関する最新の研究成果として、ルシオ・デ・ソウザの著作「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」(2019年)[49][56]があるが、ソウザの著作の信頼性や文脈化には複数の問題点が指摘されている[注 26][注 28][注 30]。野心的な研究として高く評価される一方で、歴史学者ハリエット・ズーンドーファー[注 31]はポルトガル人の逸話、発言や報告にある信頼性の低い記述を貧弱な説明と共にそのまま引用していること、どこで得られた情報なのかを示す正確な参考文献を提示しないために検証不可能であり、書籍中での主張に疑念を抱かさせるといった批判をしている[64][注 32]。
バテレン追放令の原文では日本を神国と宣言する一方で、キリスト教を邪法として定義しており、異文化、異教を広めていた宣教師への風当たりは強かった。
日本における宣教師への社会的評価を示すものとして、誹謗中傷を目的として流布された風説がある。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[65]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。
司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[66]
さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[67]。仏教説話集『沙石集』には生き肝を薬とする説話があり[68]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。
人肉を食うということも、草木を枯らすということも、また戦乱をおこし、町を焼き、国々を滅ぼすということも、つまるところは一つである。異邦人としての天竺人、とくに宣教師の存在そのものが、死と破滅を伴うという神秘的な考え方である。 — 岡田章雄『キリシタン・バテレン』至文堂、1955
こうした外国人が破滅をもたらすという考え方には、排外主義的な外国人や異教徒への恐怖があると岡田章雄は分析している[65]。
宣教師は「にせものの誑し狐」と呼ばれることがあった[69]。こうした狐との呼称には宣教師が人を騙すべきとの固定観念があったという。豊後で宣教師達と論争をした仏僧達は次のように述べたという。
天竺から来た伴天連たちが言うことはすべて嘘である。彼らペてん師たちはお前たちを欺くから、まるで子供のように素直であってはならぬ[70]
狐と宣教師を同一視して排斥することは、当時の日本人の宗教観とも合致する。前田利家の実子で秀吉と正妻おねの養女の豪姫が病にかかったときに、狐が憑いたとされ、秀吉は伏見稲荷へ宛て朱印状を発布した。「日本の内、年々狐狩り仰せつけられるべく候」などの脅し文句が著述されているが、この朱印状が偽物でない事が明かされている[71]。
1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師による奴隷貿易を批判している[注 3]。
大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。 — 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」
宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[72]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[73]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年であり信憑性は低い。
11か条の「覚」にある宣教師による奴隷貿易糾弾については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[10]。
16世紀から17世紀への転換期、イベリア同君連合の第2代支配者であるポルトガル国王フィリペ2世(スペイン国王フェリペ3世)は、イエズス会の要請により、1571年の勅許を再制定して日本人の奴隷貿易の交易を中止しようとしたが、彼の政策はポルトガル帝国の地方エリートの強い反対に会い、長い交渉の末、イエズス会のロビー活動は失敗に終わった[74][注 3]。
日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、日本で広く行われていた永代人身売買[75]を改めて年季奉公人[注 34](英: indentured servitude)[注 35]とするように働きかけが行われた[81][82][注 36]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた短期所有者証明書(schedulae)[87]に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改めるよう介入したとされている[81][88]。マテウス・デ・クウロス等の宣教師らによって、人道的介入であっても関与自体が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、宣教師の人道的な関与についても禁じられた[89]。1598年の人道関与の禁止決定についてはバテレン追放令によって、日本の国内法が奴隷貿易を違法としたことも影響していたとされる[90][注 37]。宣教師の人道的介入が終わる1598年以降、新たに着任した司教ルイス・デ・セルケイラはスペイン・ポルトガル王に日本人と朝鮮人の期間的隷属を廃止するよう圧力をかけていくことになるが[96][注 38]、ポルトガル商人による日本人奴隷の貿易は止まるどころか増加したという[98][62]。
日本のイエズス会には奴隷貿易の中止に不可欠な権威と権力が欠如していることを巡察使ヴァリニャーノは繰り返し主張していた[注 39][104]。宣教師達は叱責や勧告では効果は望めないために、教会法が許す現地の社会力学に追従する道を探るようになっていった[注 40]。奴隷制と同等の日本的隷属、奴隷制とは異なるが許容できる状態[注 35]、許容不可能な状態の3つの労働形態を区別する[106][注 41]ことで、宣教師達は現地の慣習に従うことを黙認するようになっていったと考えられている[110][注 42][注 43]。
宣教師らは年季奉公人[注 35](または期間奴隷[注 34])の洗礼も行うことがあった。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた[114][115]。
秀吉が奴隷貿易に怒って追放令を発したとの説もある(後述の追放令の原因を参照)が、最新の研究はこの説を否定している[90]。
バテレン追放令以前からスペインは日本人によるフィリピン侵略を警戒していた。フィリピンでは倭寇の大規模な襲撃が1574年、1582年と続いていたが、日本によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルであり、マニラでは日本人がフィリピンを植民地にするつもりであるとして備えが行われていた[116][注 9]。
1587年のバテレン追放令後、秀吉はポルトガル人を介さない通商路の開拓に関心を抱くようになった[注 8]。明国との貿易は閉ざされており、フィリピンは数少ない選択肢の一つとなっていた[117]。1587年、フィリピンには2隻の日本船が来航したが、バテレン追放令の敵対的外交政策と整合しないためスペイン人の疑惑は深まり、フアン・ガヨというキリスト教徒で冒険家の日本人に対してフィリピン人の反乱計画に加担した容疑がかけられた[29][118]。
1589年、30〜40人の巡礼者と称する日本人の集団がマニラを訪問した。彼らはマニラ周辺の河口を15リーグ (単位)歩いて偵察し去っていったが、スペイン人はこれを日本側の諜報活動と見ており、秀吉の領土拡張政策の始まりと考えた[30]。フィリピンとの交易が認可された1591年[117]には原田孫七郎がフィリピン征服の実地調査を行ったとスペイン側は分析しており、バテレン追放令を契機とし秀吉によるフィリピン侵略を警戒するスペインと日本の相互不信が強まることになった[32]。
スペインの日本への領土的野心については、スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に追放令以前に舵を切っていた[119]。
むしろスペイン人は秀吉の統一政権がフィリピンに侵略する可能性に注意を払っており[32]、バテレン追放令をフィリピン侵略計画の発端と見なしていた[29][30]。
日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している[120]。1563年十一月七日頃[121]には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという[122]。1573年には深堀純賢によってトードス・オス・サントス教会が焼き払われた[123]。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが[15]、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは神社仏閣の破壊を禁じていた[124]。
と述べている[6]。大村純忠は新町長崎と茂木の寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[7]。大村純忠のポルトガル船の誘致、新町長崎と茂木の寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[8]。
長崎の特殊な状況、キリスト教徒と仏教徒間の対立がバテレン追放令の原因とする説もある(後述の追放令の原因を参照)。
- 伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
- 国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
- 其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
- 弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
- 右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
- 伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
- 本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
- 国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
- 伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
- 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事[注 3]。
- 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。
右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、
(大意)
ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。
以上 天正15年(1587年)6月18日
追放令には前日の「覚」から意思の変化を示す文言があり、日付、伝来も同一でないことから一夜で秀吉に心境の変化があったとする説が提案されている。「覚」では重臣達が出席した御前会議での施薬院全宗の讒言とみられる糾弾を列挙しているが、6月18日時点では宣教師の追放を命じたりキリスト教を邪教と断じてはいなかった。「覚」にあった奴隷、人身売買の文言が消えたのは、ガスパール・コエリョの反論によって修正した可能性もあるが、いずれにせよ家臣団の中でも強い影響力のあった高山右近の棄教・服従の拒否によって追放令が発布された説が検討されている[127]。
追放令では「神国」である「日本之地」でのキリスト教の布教はいかなる条件であっても「曲事(不正)」であり、その神国で神社仏閣を打ち破り信徒を持つことは、前代未聞の「天下」の「御法度」に背く(仏法に反する)「邪法」であると断じている[注 45]。バテレン追放令は『神風』、『神皇正統記』とならぶ神国思想、皇国史観の宗教的な象徴、源流と見なされているが、天皇・神社の権威を借用しておらず、主に仏教側の視座から施薬院全宗が起草したことがうかがえる[128]。
定
- 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
- 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
- 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
- 黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
- 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上
天正十五年六月十九日 朱印 — 吉利支丹伴天連追放令[129]
(大意)
以上 天正15年(1587年)6月19日
ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡している。キリスト教への強制の改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とした。事実上は信仰の自由を保障するものであった[130]。
『吉利支丹伴天連追放令』のおよそ1ヶ月後の天正15年(1587年)7月13日、豊臣秀吉は注進状を皇大神宮(内宮)に奉納している。
伴天連御成敗之事、関白秀吉朱印六月十八日之御紙面、神慮大感応たるへき旨也、就其捧御礼連署、天照皇太神宮
天正十五年七月十三日 — 黒住真『天皇を中心とする日本の「神の国」形成と歴史的体験』[128]
注進 抑 御朱印之趣伴天連御成敗等之事
右御朱印致頂戴、誠以一天太平四海快楽大慶此時奉仰尊
天照皇太神宮と関連付けて「伴天連御成敗」が宣言され「神慮大感応」と感謝されており、天台宗の元僧侶が主導してはいるが神仏共同による宗教弾圧であったとする見解もある[128]。
追放令本文の起草は秀吉本人ではなく、秀吉の側近で主侍医でもあった施薬院全宗とされている。なお、ルイス・フロイス『日本史』によれば、全宗の師である曲直瀬道三は、この追放令発布以前くにキリスト教に入信し(天正12年、1592年)、「ベルショール」の洗礼名を受けている[131]。
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。
1.については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスによると秀吉の言い分は「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」というものである。秀吉がこのような考えを持つに至った直接的なきっかけは、九州征伐に向かった秀吉の目の前で、当時の日本イエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョが、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示したことだとも見られている。同時期にイエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノはコエリョの軽率な行動を厳しく非難しており、コエリョの行動に問題があったことは確かなようである[132]。キリスト教の拡大については、6月18日の11か条の「覚」(『御朱印師職古格』)ではキリシタンも「八宗九宗」(第九条)と規定して体制下の宗教と見なしていたが、翌19日の「追放令」ではこれを覆すかのように「邪法を授け」るものとしてキリスト教を厳しく規定しなおしている。
2.のキリシタンによる神道・仏教への迫害については、九州において領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊する[注 45]などといったことが有馬氏や大村氏などで行われていた。[信頼性要検証]
3.の人身売買説に関しては、11か条の「覚」に、日本人を南蛮に売り渡すことを禁止する一文がある一方[注 3][注 48][注 49]、翌日の「追放令」にはそのような文言は見当たらない。秀吉は1587年の九州征伐の際、九州を中心として奴隷貿易が行われていたことについて当時のイエズス会の布教責任者であったコエリョを呼び詰問するとほぼ同時期にバテレン追放令を発布している。ただし、1537年に発令された教皇勅書スブリミス・デウスは異教徒を奴隷とする事を禁じ、イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世は大規模になった奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[134][135]ことについて秀吉が知っていたかどうかについては不明である点には留意が必要である。
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[48]。
日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235[注 19]
デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[48]。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235[注 19]
デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[48]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[注 19][136]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注 11]。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[16][注 4]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 5]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[17][18]。
4.の女性問題で秀吉が激怒したと言うのは(フロイス日本史)、正確には「女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを讒言した」というものであり、「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」というのは誤りである。よってこれが理由ということは考えられないとの説があるが、女漁りが施薬院全宗個人の嗜好である場合、宣教師から秀吉に告げ口される前に施薬院全宗が先を制して噂、憶測等をもとにした讒訴をしたとも考えられる。「(秀吉のために)キリシタンの女を連れていこうとした施薬院全宗が命令への不服従に怒り、秀吉にキリシタンの女が命に逆らったと讒訴をして秀吉が激怒した」のであれば矛盾は無くなる。
5.は自身も仏教徒である秀吉が元僧侶である施薬院全宗や大村由己の讒言を受け入れたことを前提とし、秀吉側近だった施薬院全宗等が九州で一定の信者数を持ち、前年に布教許可まで受けたキリスト教に対する危機感を主要な動機とした宗教戦争との見解である。必ずしも神国、皇国史観に沿った魔女狩り、宗教弾圧であったとする俗説と対立するわけではない。豊臣政権から徳川幕府に移行してからも、仏僧である以心崇伝がキリスト教弾圧において主導的役割を果たしている。一方で、キリスト教の禁止を働きかけたのを神道側とする見解もあり、その直接的なきっかけが、伊勢神宮がある伊勢国南部を与えられていた蒲生氏郷がキリスト教の洗礼を受けたことに伊勢神宮や神宮と密接な朝廷が危機感を覚えたとするものである[141][142]。
6.のポルトガルやスペインによる植民地化[注 1]を懸念した陰謀論については、大航海時代のポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した港湾都市、小規模の貿易拠点、居留地を手に入れる一方で、すでに文明が発達していたインド、中国等のアジア諸国の植民地化には成功していない。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争を伴う内陸部の植民地化ではなかった。イエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するかのように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地を増やしていった。
フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない[143][144]。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた[143]。イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである[145][146][147]。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている。1591年から1593年に秀吉はフィリピン総督に服従を迫っており、豊臣政権はアジアにおけるポルトガル、スペインの脆弱な戦力を把握していたとみられる。追放令でもポルトガル、スペインを軍事的脅威とはみなしてはいない。
7.の出来事の直後に発令している。これより前にも大坂で同様な頼みを、やはり「大坂湾の水深が浅い」という理由で断られており、機嫌を損ねていたと思われる。
1587年の禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。
南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収し、1592年(文禄元年)には長崎をイエズス会から奪還し直轄地にしたが[要出典]、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。1591年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[24]。秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[148]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[149]、豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[150]。
追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[151]。1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[152]。
秀吉が明と朝鮮の征服を試みるのと並行して、1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、1592年5月31日に入貢と服従を勧告する秀吉からの国書をフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉もフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしていたが、フィリピン占領計画が実施されることは無かった[153][154][155]。
1593年(文禄2年)、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが平戸に来着し、肥前名護屋城で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた[154][155]。
秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことであるが、事件を発端とした弾圧からはイエズス会が除外されており追放令は空文化していた。
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年(慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになる。慶長18年(1614年)12月19日、家康は新たなバテレン追放令の作成に着手した。幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝を江戸に呼び、文案を作成させ、翌日、これを承認、秀忠に送り捺印させた[156]。その結果、「伴天連追放之文」ができあがった。伴天連追放之文は排吉利丹文ともいう[156]。「伴天連追放之文」の大半は神道、儒教、仏教に関するもので、キリスト教を統一された日本の宗教(神道、儒教、仏教の三教一致)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした[25][26][27]。言い回しなどは基本的な部分において施薬院全宗が起草したバテレン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都にあった教会等の全国の宗教施設を破壊、キリスト教徒は日本各地に散らばることになるが弾圧は徹底されなかった。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教を介して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[157]。
徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、キリスト教の本格的な宗教弾圧とキリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に好意的で弾圧に乗り気で無かった京都所司代の板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において処刑(元和の大殉教)、中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた[158]。
島原の乱後に出版された『吉利支丹御退治物語』には火炙りによる処刑を成仏のためと処刑法に抗議するような記述はない。
火あぶりに、なるも。うしざき。車ざき、さかはりつけ。かやうのなんに、あふか。のそみの、かなふ成仏と心へて、いのちを、いとひ。かなしむもの、なきと、みえたり。あはれなる事共かな、ちゑのなきものハ。をのれが、みヽに聞入、心に、おもひ。さだめたる事をハ。かつて、ひるかへす事なし。たとへは、二三さいの、わらんべか。かヾみのうちの、かちを見てハ、まことの、かたちと思ひ。水の中の月を、みてハ。ゑんこうが。てにとらんと、おもふ、おろかなる心と、ひとしきもの也。ぐ人はみな、かくのごとし。げたうの法、まほうなるべし[159]
「火あぶり」「牛裂き」「車裂き」「逆さ磔」にあうのは外道、邪教のせいであると批判の矛先をキリスト教に向けており、現代の基準では野蛮な行為を異教徒に対する攻撃として正当化している。
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であり、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。
欧米の歴史学者の中には豊臣秀吉の反キリスト教的な外交政策は、伝統的な社会序列に従わない反体制思想として危険視されていたキリスト教から秀吉の独裁政権を守るために行われたと主張する者がいる[28]。スペイン人歴史学者ホセ・エウゲニオ・ボラオ・マテオはスペイン領フィリピン在住のスペイン人がバテレン追放令を秀吉のフィリピン侵略作戦の前触れとして理解し、スペイン人が日本からの侵略に備えていたことをスペイン側の資料から提示しており[29][30]、ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックも1587年のバテレン追放令から1592年の原田喜右衛門のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している[31]。
1587年、日本からの2隻の船がフィリピンに来航したが、バテレン追放令の敵対的外交政策と整合性のとれない和船の来航に警戒したスペインは日本の侵略に備えるようになった[29]。1589年には巡礼者と称する日本人の集団が、マニラ周辺を歩き周り偵察しており、バテレン追放令を契機とした膨張政策の始まりであるとスペイン側は記録している[30]。1591年には原田孫七郎がフィリピン征服の実地調査を行ったとされ、侵略を警戒するスペインと日本の相互不信が強まっていった[160][注 50]。
日本人によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルである[注 9]。マニラでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年来航しルソンを植民地にするつもりだと言われている」[116]と警鐘を鳴らしていた。
天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書によると、秀吉はフィリピンのみならず「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」とし[3][161]、明、インド、南蛮(東南アジア、ポルトガル、スペイン、ヨーロッパ等)への侵略計画を明らかにした。秀吉は先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした[162][注 50]。
1592年、原田喜右衛門がマニラに来航して秀吉の親書を総督に渡した[注 51]。豊臣秀吉はフィリピンに対して降伏と朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した[163]。
1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本がフィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた[164]。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。
ロペスはまた日本人にフィリピンの軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという[166]。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた[167]。
その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船で輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた[168]。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった[169]。
1596年、空文化していたバテレン追放令がサン=フェリペ号事件を契機にして更新された[31][注 50]。1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオンはフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[170][171]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球と台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[170][171]。バテレン追放令の更新によってスペリン領フィリピンでは、秀吉によるフィリピン侵略への懸念が再燃した[172][注 52]。
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