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スウェーデン君主一覧(スウェーデンくんしゅいちらん)では、過去にスウェーデンを統治した君主を列記する。
スウェーデン王国 国王 | |
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Sveriges Konung | |
在位中の国王 | |
ベルナドッテ王朝第7代国王 カール16世グスタフ Carl XVI Gustaf 1973年9月15日より | |
詳細 | |
敬称 | 陛下 |
法定推定相続人 | ヴィクトリア王太子 |
成立 | 不明 |
宮殿 |
ストックホルム宮殿 ドロットニングホルム宮殿 |
ウェブサイト | https://www.kungahuset.se/ |
ヴァイキングの部族を起源とするスウェーデンの王は、初期はデンマークの君主やノルウェーの君主を兼ねる場合が往々にして見られた。カルマル同盟によるデンマークとの同君連合およびウップランド貴族のヴァーサ王朝を経て、近世以降はドイツ系の王朝が続いてきた。
現在はナポレオン旗下のフランス元帥であったジャン=バティスト・ベルナドットを祖とするベルナドッテ王朝であり、王位継承は1980年施行の憲法改正により最長子相続制をとっている。
なおカール王およびエリク王の即位番号は、16世紀ごろに生まれたゴート起源説により信じられている架空の王の存在を含めた番号である。
名前 | 画像 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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ステンキル (Stenkil Ragnvaldsson) 1060年 - 1066年 | 1028年頃 ヴェステルイェートランドと推定 ラグンヴァルド・ウルフソン(『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』による)の息子 | エームンドの娘 (ムンソ家) | 1066年 病死 | |
エリク7世とエリク8世異教徒王 (Erik och Erik) 1066年 - 1067年 | 1067年 王位継承争いにより戦死 | |||
ハルステン (Halsten) 1067年 - 1070年 | 1050年頃 ステンキルの息子 | 1084年 34歳位 | ||
アーヌンド・ゴードスケ (Anund Gårdske) 1070年 - 1075年 | ガルダリキ(キエフ・ルーシ)出身、恐らくスカンディナヴィアに起源をもつ。 | |||
ホーコン赤王 (Håkan Röde) 1070年 - 1079年 | 1040年頃 ヴェステルイェートランド、レーヴェネ ステンキルの息子? | 1079年 レーヴェネに埋葬 | ||
ハルステン(Halsten) 1079年 - 1081年以降(復位、インゲ1世と共同統治) | ||||
インゲ1世 (Inge den äldre) 1079年 - 1084年 (ハルステンと共同統治) | ステンキルとエームンドの娘との息子 | ヘレナ (ブロット=スヴェンの妹) | 1105年 病死 最初ホンゲル(Hånger)に埋葬、のちヴァーンヘム修道院(Varnhems kloster)に改葬 | |
ブロット=スヴェン (Blot-Sven) 1084年 - 1087年 | 1087年 インゲ1世の軍に待ち伏せ攻撃され死去 | |||
インゲ1世(Inge den äldre) 1087年 - 1105年(復位) | ||||
フィリップ (Filip Halstensson) 1105年 - 1118年 | ハルステンの息子 | インゲゲルド・ハーラルスダッテル (ハーラル3世の娘) (ユングリング家) | 1118年 ヴレタ修道院に弟インゲ2世とともに埋葬されたとみられる | |
インゲ2世 (Inge den yngre) 1110年 - 1125年 | ハルステンの息子 | 1125年 ウルヴヒル・ホーコンスダッタ (チョッタ家) | エステルイェートランド 王妃による毒殺といわれる ヴレタ修道院に兄フィリップとともに埋葬されたとみられる | |
ラグンヴァルド (Ragnvald Knaphövde) 1125年 - 1126年 | ステンキル家の親族? | 1126年 マグヌス1世の支持者に殺害される | ||
1126年 - 1130年 エストリズセン家のマグヌス1世がヴェステルイェートランドを支配し、後に王となるスヴェルケル1世(下表)がエステルイェートランドを支配。 |
エストリズセン家
エリク家
スヴェルケル家
ビェルボ(フォルクング)家(下表)
名前 | 画像 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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マグヌス1世 (Magnus Nilsson) 1126年 - 1132年 | 1106年頃 デンマーク王ニルスとマルガレータ・フレドクッラ(インゲ1世の娘)の息子 | リクサ・ボレスワヴヴナ (ポーランド大公ボレスワフ3世クシヴォウスティの娘) (ピャスト家) | 1134年7月4日 フォテビクの戦いでスヴェルケル1世と闘い戦死 | |
スヴェルケル1世 (Sverker den äldre、内反足王(Klumpfot)とも) (1125年よりエステルイェートランド王) 1130年 - 1156年12月25日 | 1028年 コルヌーベまたはコルの息子 東イェーアト族出身 | (1)ウルヴヒル・ホーコンスダッタ (チョッタ家) (2)リクサ・ボレスワヴヴナ (ピャスト家) | 1156年12月25日 教会に行く途中に自らの御者に殺害される。マグヌス2世が黒幕ともみられる。 埋葬:アルヴァストラ修道院 | |
エリク9世聖王 (Erik den helige) 1156年 - 1160年5月18日 | 1120年頃 西イェーアト族出身ともいわれる | クリスティナ・ア・ダンマーク | 1160年5月18日 ウプサラで教会から出てきたときにマグヌス2世に殺害される 40歳位 埋葬:ウプサラ大聖堂 | |
マグヌス2世 (Magnus Henriksson) 1160年 - 1161年 | 1130年 ヘンリクとイングリッド(インゲ1世の孫娘)の息子 | ブリギダ・ハーラルスダッテル (ハーラル4世の娘) ギーレ家 | 1161年 エーレブルーの戦いでカール7世と闘い戦死 | |
カール7世 (Karl Sverkersson) 1161年 - 1167年4月12日 | 1130年 スヴェルケル1世とウルヴヒル・ホーコンスダッタの息子 | 1163年 クリスティーナ (ヴィーゼ家) | 1167年4月12日 ビシングショ島でクヌート1世に殺害される 37歳位 埋葬:アルヴァストラ修道院 | |
クヌート1世 (Knut Eriksson) (1167年 - 1173年:エステルイェートランドを除く、1173年以降:エステルイェートランドを含む) 1167年 - 1195/6年 | 1150年以前 エリク9世とクリスティナ・ア・ダンマークの息子 | セシリア・ヨハンスドッテル | 1195/6年 埋葬:ヴァーンヘム修道院 | |
スヴェルケル2世 (Sverker den yngre) 1196年 - 1208年1月31日 | 1167年以前 カール7世とクリスティーナの息子 | (1)ベネディクタ・ヴィーゼ (ヴィーゼ家) | 1210年7月17日 イェスティールレンの戦いで戦死 45歳位 埋葬:アルヴァストラ修道院 | |
(2)インゲヤード・ビルイェルスドッテル (ビェルボ(フォルクング)家) | ||||
エリク10世 (Erik Knutsson) 1208年1月31日 - 1216年4月10日 | 1180年 クヌート1世の息子 | リキサ・ア・ダンマーク (デンマーク王ヴァルデマー1世の娘) | 1216年4月10日 ビシングショ島のネス城(Näs Castle)で急死 36歳位 埋葬:ヴァーンヘム修道院 | |
ヨハン1世 (Johan Sverkersson unge) 1216年春 - 1222年3月10日 | 1201年 スヴェルケル2世の息子 | 未婚 | 1222年3月10日 ビシングショ島 21歳位 埋葬:アルヴァストラ修道院 | |
エリク11世 (Erik läspe och halte) 1222年夏 - 1229年11月28/29日 | 1216年 エリク10世とリキサ・ア・ダンマークの息子 | カタリーナ・スーネスドッテル | 1250年2月2日 34歳位 埋葬:ヴァーンヘム修道院 | |
クヌート2世 (Knut Långe) 1229年11月28/29日 - 1234年 | ホルムイェル(クヌート1世の甥?)の息子 | ヘレナ (ストランゲ家) | 1234年 埋葬:スコー修道院(Sko kloster) | |
エリク11世(Erik läspe och halte) 1234年 - 1250年2月2日(復位) |
ビェルボ(フォルクング)家
エストリズセン家
ヴィッテルスバッハ家(下表)
エストリズセン家
ヴィッテルスバッハ家
オルデンブルク家
ビェルボ(フォルクング)家
名前 | 画像 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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カール10世 (Karl X Gustav) 1654年7月6日 - 1660年2月13日 | 1622年11月8日 ニュヒェーピング城 プファルツ=クレーブルク公ヨハン・カジミールとカタリーナ・アヴ・スヴェーリエ(カール9世の娘)の息子 | ヘートヴィヒ・エレオノーラ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ | 1660年2月13日 ヨーテボリ 37歳 埋葬:リッダーホルム教会 | |
カール11世 (Karl XI) 1660年2月13日 - 1697年4月5日 | 1655年11月24日 トレー・クローノル城 カール10世とヘートヴィヒ・エレオノーラ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプの息子 | ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク | 1697年4月5日 トレー・クローノル城 41歳 埋葬:リッダーホルム教会 | |
カール12世 (Karl XII) 1697年4月5日 – 1718年11月30日 | 1682年6月17日 トレー・クローノル城 カール11世とウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルクの息子 | 未婚 | 1718年11月30日 ノルウェー、フレデリクシャールド 36歳 埋葬:リッダーホルム教会 | |
ウルリカ・エレオノーラ (Ulrika Eleonora) 1718年12月5日 - 1720年2月29日 | 1688年2月23日 トレー・クローノル城 カール11世とウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルクの娘 | ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ1世 (ヘッセン家) (下表) | 1741年11月24日 ストックホルム 53歳 埋葬:リッダーホルム教会 |
名前 | 画像 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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フレドリク1世 (Fredrik I) 1720年3月24日 - 1751年3月25日 | 1676年4月23日 カッセル(現ドイツ) ヘッセン=カッセル方伯カールとマリア・アマーリア・フォン・クールラントの息子 | (1.即位前) ルイーゼ・フォン・プロイセン (ホーエンツォレルン家) | 1751年3月25日 ストックホルム 74歳 埋葬:リッダーホルム教会 | |
(2)ウルリカ・エレオノーラ (ヴィッテルスバッハ家) |
名前 | 画像 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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アドルフ・フレドリク (Adolf Fredrik) 1751年3月25日 - 1771年2月12日 | 1710年5月14日 シュレースヴィヒ、ゴットルフ城(現ドイツ) クリスティアン・アウグスト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプとアルベルティーネ・フリーデリケ・フォン・バーデン=ドゥルラハの息子 | ルイーゼ・ウルリーケ・フォン・プロイセン (ホーエンツォレルン家) | 1771年2月12日 ストックホルム宮殿 60歳 埋葬:リッダーホルム教会 | |
グスタフ3世 (Gustav III) 1771年2月12日 - 1792年3月29日 | 1746年1月13日 ストックホルム アドルフ・フレドリクとルイーゼ・ウルリーケ・フォン・プロイセンの息子 | ソフィア・マグダレーナ・アヴ・ダンマルク | 1792年3月29日 ストックホルム宮殿 暗殺(1792年3月16日にオペラ座の仮面舞踏会で銃撃される) 46歳 埋葬:リッダーホルム教会 | |
グスタフ4世アドルフ (Gustav IV Adolf) 1792年3月29日 - 1809年5月10日 セーデルマンランド公カール(摂政:1792年 - 1796年) | 1778年11月1日 ストックホルム宮殿 グスタフ3世とソフィア・マグダレーナ・アヴ・ダンマルクの息子 | フリーデリケ・フォン・バーデン (バーデン家) | 1837年2月7日 スイス、ザンクト・ガレン 58歳 埋葬:リッダーホルム教会 | |
カール13世 (Karl XIII) 1809年6月6日 - 1818年2月5日 | 1748年10月7日 ストックホルム アドルフ・フレドリクとルイーゼ・ウルリーケ・フォン・プロイセンの息子 | ヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ | 1818年2月5日 ストックホルム 69歳 埋葬:リッダーホルム教会 |
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