Loading AI tools
アメリカの宣教師、医師 (1815-1911) ウィキペディアから
ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn、1815年3月13日 - 1911年9月21日)は、米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師。
幕末に訪日し、横浜で医療活動に従事。牧師として聖書の日本語訳に携わった。
初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し、それによりヘボン式ローマ字を広めた人物としても知られ、英学の進展に大きく寄与した。東京で明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学)を創設して初代総理に就任するなど、高等教育にも貢献した。
姓の「ヘボン」は原語の発音を重視した仮名表記とされており、本人が日本における名義として用いたことで彼固有の表記として定着したものだが、Hepburn 全般の音訳としては「ヘプバーン」「ヘップバーン」が普及したことから、彼の姓もそれに従って表記される場合がある。
1815年、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ミルトンに、サムエル・ヘップバーンの長男として生まれる。ヘボンの家系は、遠くはスコットランドのボスウェル伯に連なるといい、1773年に曽祖父のサムエル・ヘップバーン(ヘボンの父と同名)がイギリス国教による長老派迫害を逃れてアメリカへ渡った。サムエルの後は、子ジェームス、孫サムエルと続く[1]。
1832年、プリンストン大学を卒業し、ペンシルベニア大学医科に入学。1836年にペンシルベニア大学を卒業し、医学博士(M.D.)の学位を取得した。
1840年、クララ・メアリー・リート(Clara Mary Leete,1818-1906)と結婚。
1859年(安政6年)4月24日、北アメリカ長老教会の宣教医として、同じ志を持つ妻クララと共にニューヨークを出発。香港、上海、長崎を経由し、1859年10月17日(安政6年9月22日)に横浜に到着した[注釈 1]。神奈川宿(現・横浜市神奈川区)の成仏寺本堂に住まいを定め[2]、川向こうの宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始。ここから横浜近代医学の歴史が始まったといわれる。
1860年(万延元年)、フランシス・ホール、デュアン・シモンズ博士夫妻らと神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物。尾張徳川家の行列の先触れにひざまずくよう命じられたがヘボンとホールは従わず、立ったまま行列を凝視したため、尾張藩主(年代的には徳川茂徳)もヘボンらの前で駕籠を止めオペラグラスでヘボンらを観察するなど張り詰めた空気が流れたが、数分後尾張侯の行列は何事もなく出発し、事なきを得た[3]。
1862年9月14日(文久2年8月21日)に発生した生麦事件では、負傷者の治療にあたった。
1863年(文久3年)、横浜居留地に男女共学のヘボン塾を開設。また、この年には箕作秋坪の紹介で眼病を患った岸田吟香を治療した。この縁で、当時手がけていた『和英語林集成』[4]を岸田吟香が手伝うようになる。1866年、『和英語林集成』の印刷のため、岸田吟香と共に上海へ渡航した。
1867年(慶応3年)、三代目沢村田之助の左足切断手術を行う。この年に、日本初の和英辞典である『和英語林集成』を出版。
1872年(明治5年)、横浜の自宅で第一回在日宣教師会議を開催、同僚の宣教師らと福音書の翻訳を開始。
1874年(明治7年)9月、横浜に横浜第一長老公会(現在の横浜指路教会)をヘンリー・ルーミスを牧師として建てる。
1886年(明治19年)、『和英語林集成』第3版を出版。
1893年(明治26年)、ニュージャージー州イーストオレンジに居を構える。
1905年(明治38年)3月13日、日本文化の進歩への功績が認められ、勲三等旭日章が贈られた。
1911年(明治44年)、病没。
Hepburn という姓は、HebronまたはHebburnという町に由来する。この姓は「ヘプバーン」「ヘップバーン」とも転記される(女優のキャサリン・ヘプバーン[注釈 2]やオードリー・ヘプバーンも、同じ Hepburn 姓である)が、本項の James Curtis Hepburn は日本の信徒向けに自ら「ヘボン」と称した(他に「平文」の表記を使用していた)。望月洋子『ヘボンの生涯と日本語』[6]によれば、彼はテノールのよく響く声で、自ら「ヘボンでござります」と名乗っていた、という記述がある[注釈 3]。こうしたことから、James Curtis Hepburnが創設したり、創立に深く関わった学校や教会は現在でも「ヘボン」表記を大事に伝えている。
一方、"James Curtis" の発音・表記は、変遷し、混乱してきたと思われる[誰?]。Jamesについてはジェームズを、Curtisについてはカーチスを参照のこと。
1841年、シンガポール滞在中にカール・ギュツラフ訳の日本語訳聖書『約翰福音之伝(ヨハネふくいんのでん)』を手に入れた。日本への宣教に向かう1859年の航海中に、『日本語文法書』とともに『約翰福音之伝』を利用し日本語を学習した[13]。マカオではサミュエル・ウィリアムズ宅に滞在して簡単な日本語を習った。来日後、「コレハナンデスカ?」と聞いてまわり、メモを取ったという[14]。長崎では数度上陸し、かなり多く英語と日本語を対照してことばをあつめ、ちょっとした会話は出来るがまだ貧弱だ、としている[15]。
1867年(慶応3年)、日本最初の和英辞典である『和英語林集成』を編纂・出版。初版の出版名義は「美国 平文」(3版から国名表記は「米國(米国)」に変わった[17])。1886年(明治19年)に『和英語林集成』第3版を出版。当時、版権の所有は外国人に認められていなかったために丸善に譲渡。利益は後に明治学院へ寄付された。
『和英語林集成』では、日本語を転写する方法として英語式の転写法を採用した。第3版まで改正に努め、辞典の普及に伴い、ヘボン式ローマ字の名で知られるようになった。
宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。
日本に来て、医療を武器に信用を獲得していった。専門は脳外科であったが、当時眼病が多かった日本で名声を博したという。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれる。日本人の弟子を取って教育していたが、奉行所の嫌がらせもあり、診療所は閉鎖になった。博士のラウリー博士宛ての手紙によると、計3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反の手術30回、翼状片の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回を行った。白内障の手術も1回を除いて皆うまくいったという(1861年9月8日の手紙)。また、名優澤村田之助の脱疽を起こした足を切断する手術もしている。その時は麻酔剤を使っている。一度目の手術は慶応3年(1867年)であるが、その後も脱疽の進展にともない切断を行っている(横浜毎日新聞1874,6,11日付)。専門が脳外科であることを考慮すると足の切断術は見事であると荒井保男は述べている[18]。ヘボンの弟子からは、後年に初の近代的な眼科病院を創設した丸尾興堂など[19][20]、日本の医学進展に貢献した多くの人材が巣立っていった。
1863年(文久3年)、横浜に男女共学のヘボン塾を開設。後年に他のプロテスタント・ミッション各派学校と連携した。ヘボン塾の出身者には、高橋是清、林董、益田孝など明治期日本で活躍した多くの人材がいる。ヘボン塾の女子部は、1871年(明治4年)に同僚の宣教師メアリー・キダーによって洋学塾として独立、後にフェリス女学院の母体となる。
1887年(明治20年)、ヘボン塾をはじめとする学校を統合し、私財を投じて東京都港区白金の地に明治学院(現・明治学院高等学校・同大学)を設立。明治学院初代総理[5]に就任した。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.