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1996年の日本の映画 ウィキペディアから
『Shall we ダンス?』(シャル ウィ ダンス?)は、1996年の日本のロマンティックコメディドラマ映画。周防正行が監督・脚本を務め、役所広司、草刈民代、原日出子、竹中直人、田口浩正らが出演する。
社交ダンス教室を舞台としたハートフルコメディ。日本アカデミー賞独占をはじめ数々の映画賞に輝いた。配給収入は16億円で1996年の日本映画第2位を記録した[3]。本作の人気を受け、日本では「時代遅れ」と思われがちであった社交ダンスが見直され新たなブームとなった。
世界19か国で公開され高い評価を得ており、アメリカ合衆国においては200万人を動員、興行収入は約950万ドルを記録し[2]、当時のアニメ映画を除く米国での日本映画の興行収入記録を作った。アカデミー外国語映画賞のノミネートを有力視する声もあったが、日本映画代表の一本に選ばれなかった[注 1]ため叶わなかった。また日本国内でのテレビ放送がアメリカ合衆国での映画公開前だったため、当時のアカデミー賞のノミネート規定に抵触し、他の部門にエントリーする資格も得られなかった[4]。
なおアメリカ公開版では、アメリカ合衆国における本作の配給を担当したミラマックスが「上映時間が2時間を超える作品はアメリカではヒットしない」と主張し、一時は独自編集版を公開しようと動くほどだった。最終的にミラマックスと周防の話し合いの結果、周防自らの編集により一部シーンがカットされ、上映時間が2時間以内(正確には1時間58分34秒[1])に収められた(またこの際、英語の字幕も差し替えられている)。周防はアメリカ映画版について、自著において「あくまでもアメリカであることを配慮した編集バージョンであるから、オリジナルを知る日本の方には観て欲しくない、というのが僕の本音である」と記している[1]。
2004年にアメリカにて『Shall We Dance?』のタイトルで、リチャード・ギア、ジェニファー・ロペス、スーザン・サランドンらが出演するアメリカ版のリメイク作品が製作・公開された。
東京のボタン会社の経理課長である杉山正平(役所広司)は妻の昌子(原日出子)、娘の千景(仲村綾乃)との三人暮らし。真面目な性格で遅くまで飲み歩くこともない。郊外に庭付きの家を買い、仕事にも家庭にも何の不満もないはずだが、心の奥には満ち足りない何かがあった。ある夜正平は、小さなダンス教室の窓辺に佇む女性(草刈民代)を電車の窓から見てその美しさに心を惹かれる。数日後、思い切ってそのダンス教室を訪れ、彼女がここのダンス講師であることを知ると、家族には内緒で社交ダンスを習い始める。
グループレッスンの指導はあこがれていた岸川舞ではなく、ベテランのたま子先生(草村礼子)の担当だったので当てが外れるが、同時に入会した服部(徳井優)や田中(田口浩正)と親しくなり、長年通っている高橋豊子(渡辺えり、当時は渡辺えり子)の押しの強さに圧倒されながらも、優しいたま子先生の指導を受けながら社交ダンスにのめり込んでいく。しかしある夜、舞を食事に誘うと、安易な気持ちでここに来てほしくないと厳しくたしなめられてしまう。
舞は世界大会にも出場した一流のダンサーだったが、今はこの小さなダンス教室の経営者である父(森山周一郎)に言われていやいや講師をしているのだった。
ある日、正平はダンス教室で会社の同僚の青木(竹中直人)と顔をあわせ、お互いに驚く。青木は会社では仕事のできない変わり者として部下にも馬鹿にされているが、誰にも内緒で続けているダンスには人一倍熱心。ただ人づきあいが下手でパートナーに恵まれない。
急に夫の帰宅が遅くなったことを心配した正平の妻は、三輪(柄本明)の探偵事務所を訪れて調査を依頼する。やがて夫がダンス教室に通っていることを知ると、浮気などではなかったことにほっとしながらも驚く。真面目な夫と社交ダンスが妻の心の中では結びつかない。
たま子先生の勧めで正平は豊子とペアを組み、東関東アマチュアスポーツ大会に出場することになり、その指導は舞が行うことになった。豊子に文句を言われながらも熱心に練習を続ける正平の姿に、舞の心の中にもダンスに対する情熱が蘇ってくる。
大会当日、正平は緊張しながらも見事なダンスを披露する。ところが観客席には、探偵の三輪に勧められ、正平には内緒で彼のダンスを見に来ていた妻と娘がいた。娘が思わずかけた声援によって家族が来ていることを知った正平はひどくうろたえる。しかもその直後、他のダンサーとぶつかるアクシデントでよろけた豊子を咄嗟に支えようとして衣装のスカートを踏み、それが破けてしまい、豊子に恥をかかせてしまい、ダンスも中断せざるを得なくなってしまう。
大会後、正平はダンスをやめようと決め、教室にも行かなくなっていた。ある日、正平の家を青木と豊子が訪問し、ダンスを続けてほしいこと、舞が教室を辞めて海外で再び社交ダンスをする決意をしたことを告げ、舞のお別れパーティーに出席してほしいと伝えて、舞からの手紙を正平に渡す。手紙には舞の過去のつらい経験と、正平と出会ってからの心境の変化が優しい言葉でつづられていた。
それでもダンスを再開する気持ちにならず、どこか機嫌の悪い正平はパーティー前夜、ダンスを続けて生き生きと過ごしてほしいと言う妻につい当たってしまうが、娘にかけられた言葉で我に返り、妻に謝罪する。
舞のお別れパーティーが始まった頃、会場に向かう決心がつかない正平はパチンコ店で時間を潰していた。しかし、帰宅するつもりで乗った電車からダンス教室を見上げると、窓には「Shall we ダンス? 杉山さん」というメッセージが貼られている。
パーティーが終わりに近づき、舞のラストダンスの相手を舞自身が選ぶことになったその瞬間、会場にスーツ姿の正平が現れる。舞は笑顔で正平に近づくと、「Shall we dance?」と声をかけるのだった。
周防はある日、とある駅そばの雑居ビルのダンス教室を目にしたことがきっかけで、社交ダンスを題材にした映画を作ることを決めた[7]。周防は後日、映画を観る人に「勇気を持って一歩を踏み出すことで新しい世界と出会える」という気持ちを持ってもらうつもりで本作の制作を始めた[7]。その思いを込めたシーンが、冒頭の正平が水たまりを踏む場面である[注 3]。
制作の前に周防が社交ダンス教室で取材し、ダンスを習っている人たちに始めた理由を尋ねた。すると、ほとんどの人は“社交ダンスをやってみたい”とは言わず、「健康のため」などと恥ずかしそうに答えたという[注 4]。またこの取材時に、周防は「誰かとダンスすること、パートナーに身を任せることは素敵で、普遍的な魅力がある」との考えが生まれた[注 5]。
制作初期の時点で、周防はエンディングの映像を決めており「ジャンルは違えど、世界中のダンスには同じ喜びがある」という想いを込めている。ただし、「当時の技術では自然な感じでブラックプールに切り替えられなかった」としている[注 6]。
周防が以前から小津安二郎監督を敬愛していたことから、本作は小津にちなんだものがいくつか起用されている[7]。本作は、小津が中年サラリーマンの不倫から始まる物語を描いた映画『早春』(1956年)を下敷きにしている。このため、役所演じる杉山正平の名は、同作で池部良演じる中年サラリーマン・杉山正ニ役にちなんで付けられた[7]。また、竹中演じる青木富夫の名は、小津作品『突貫小僧』などで知られる名子役の青木富夫からそのまま拝借した[7]。さらに「小津作品に関わりのある役者に出てほしい」との思いから、小津作品(1953年の映画『東京物語』)に出演した香川京子に、本作の舞の母親役として出演を依頼した[7]。
本作の配役を決める前に周防がダンスホールを見学に行った際、「ちょっとユニークなおじさん・おばさんたちが集まっている」という印象を受けたことから、周防の中でまず竹中直人と渡辺えり子が浮かびそのままオファーされた[8]。この時、周防の中では主役以外の周りの役はある程度イメージできたが、肝心の主役候補(杉山正平と岸川舞)は全く思い浮かばなかった[8]。
後日正平役についてプロデューサーから「役所広司さんでどうですか?」と案を出されたが、周防は「この役にはカッコ良すぎる」と否定的だった[8]。プロデューサーからとりあえず役所と会うことを勧められ、役所の事務所に会う約束をして周防が事務所のエレベーターに乗ると後からダサい感じのおじさんが乗ってきた。それが偶然乗り合わせた役所で、周防は“休日のサラリーマンオヤジ”みたいな彼の姿を気に入りオファーを決めた[8]。
主演の女役について周防が必要な要素と考えたのが、「ダンスを踊れること」と最も大事なのが「中年サラリーマンがその女性を見て『素敵だな』と思う反面『とてもじゃないが近寄れない』という雰囲気を持った女性であること」だった[8]。このイメージに合いそうな人をプロデューサーに何人かリストアップしてもらい、周防がその中の1人だった草刈民代に会うと「この近寄りがたさは役にピッタリ!」と思い、起用を即決した[8]。
当時バレリーナとして活躍していた草刈は、本作の出演を依頼された際出演を断ろうとした。しかしダンスを題材にした作品なため周りの多くの人に勧められ、シノプシス(あらすじ)を読んで周防の描きたいことや岸川舞の設定などを気に入り出演を決めた[注 7]。
主人公とヒロインのキャスティング決定直後、周防は周りから「役所と草刈という弱いキャストで社交ダンスの映画なんて大丈夫か?」と言われることもあった[7]。しかし公開後、彼らの予想に反して先述の通り本作は大ヒットし、周防を始めとする出演者・スタッフは高い評価を得ることとなった。
草刈は、撮影開始時に周防から「とりあえず台詞は棒読みで」と指示され、本番に臨んだ。中盤で舞が父に怒りをぶつけるシーンでは、草刈の考えで20代のダンサーが内に秘めるエネルギーを表現した。作中で舞は、それまで感情を表に出さなかったため、インパクトあるシーンとなった[注 8]。
表情に関しては、舞が初めて正平に挨拶をするシーンで自然と笑顔になった所、周防からNGを出された。その際、周防から「舞の冷たい感じを出すため、無表情に徹してほしい」と告げられた[7]。その後舞は正平たちとの交流を通じて信頼することの大切さや舞踏の本質を知り内面も変わっていく。草刈は後年、「舞のこの様子にリアリティを感じて役に没入することができました。ダンサーとしてとても共感しました」と語っている[7]。
女優として素人だったため、撮影中は役者同士の芝居の流れに身を委ねるということに苦労した[注 9]。また、舞がブラックプールでの苦い思い出を回想するシーンでは、涙を流す演出は台本になかった。これは、撮影時に草刈自身の過去の苦い体験(内容は不明)を思い出してしまい、思わず涙したのがOKテイクとして採用された[7]。
社交ダンス未経験だった役所は、本作の撮影前に3ヶ月ほどダンスの特訓を受けてから本番に臨んだ。このため、撮影開始時点で後半の競技ダンスを演じられる実力は既に身に付いており、前半のたどたどしいダンスは全て演技である[注 10]。ちなみに周防が後日聞いた話では、役所は当初横分けの髪型で演じることに抵抗があったとのこと[7]。
周防によると、「一緒に仕事をするまで竹中直人という俳優が好きじゃなかった」としている。それまで竹中について、“監督の意図を無視する自分勝手な芝居をする俳優”と思っていた[7]。しかし周防が初めて竹中と仕事をした所、彼が役の意味を完全に理解し、ハチャメチャに見えて実は計算して演技をするタイプの役者だと気づいた[注 11]。
本作の撮影中、多忙だった竹中はダンスの練習時間が中々取れず、練習嫌いだったこともあり俳優陣の中で一番踊れていなかった[7]。そこで周防は、作中で青木が心酔するドニー・バーンズのダンスビデオを竹中に見せた所、本番ではドニー青木になりきって見事に踊ることができたという[注 12]。
ダンスシーンの撮影には、直径80cmほどの筒の下に全方向に動く車輪をつけた台車「難局2号」を用いられた[7]。これにカメラを乗せ、曲に合わせてカメラマンが台車を動かした。「難局2号」の活躍により出演者たちの複雑なダンスをダイナミックに撮影することができ、重宝した[7]。
本作の公開後周防がアメリカに行った際、とある現地人から本作について「主人公は妻がいるのに、ダンスパーティーに一人で行くなんてありえない」との意見を聞き、文化の違いを痛感したという[7]。
本作で振付を担当したわたりとしおは、映画の二次媒体での利用は振付の著作権を侵害しているとして、2008年4月に角川映画(現・KADOKAWA)を相手取り、損害賠償を求める訴えを東京地方裁判所に起こした[10][11]。2012年2月、東京地裁は振付の著作権を認めず、原告の請求を退ける判決を下した[11]。
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