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大貫妙子のスタジオアルバム (1980) ウィキペディアから
『ROMANTIQUE』(ロマンティーク)は、大貫妙子の4作目となるスタジオ・アルバム。1980年7月21日にRVC(現:アリオラジャパン)から発売された[1]。
前作『MIGNONNE』[注釈 1]リリース後、大貫は約2年間の沈黙期に入る。その理由を大貫は「『ミニヨン』がまわりの期待に反し売り上げがやや不調であったことや、プロデューサーと折り合いをつけることができなかった疲れから、もう音楽を仕事にしていくことはやめようと考えていました。シュガー・ベイブというサブカルチャーからの出発はヒットを生む音楽業界のパワーには馴染めないものだったし、ソロになってからの私も、シンガー・ソング・ライターとして時代の趨勢に身を委ねることができなかったのです。そしてその頃、私は国内を旅したり、湘南に住んでいた友人宅に集まっては、みんなで夜明けまで語り合ったりする日々を過ごしていました」[3]という。その間、山下達郎のコンサート・ツアーにバック・コーラスとして参加していたほか[注釈 2][注釈 3]、CMソングの制作やコーラスでのスタジオ仕事を行っていた。またその間に、他アーティストへの楽曲提供も行っていたが、それについては「その間に人に曲を書いたことが実は勉強になっているんですが、歌謡曲畑の人達とかに書いたりして。といっても採用されたのは一曲か二曲くらいですが、本当は何十曲と書いているんです。毎日毎日書き直しの連続で、何でこんなことやってるんだろうと思いながらも、聴く人のことを考えて分かりやすいものを書くというのはどういうことだろうということをすごく考えまして、今まで全く人のことを考えてなかった自分に気がついたわけですよね。別に拒絶していたわけじゃないんですけれど。やっぱり所詮、人にお金を払っていただいてレコードを買ってくれる人がいなかったら仕事はできない。それでもう一回、ちゃんとやってみたいというかね、音楽を仕事としてちゃんとやろう。改めて決心したのであります」[4]という。
その沈黙の後、80年初頭にレコーディングの話が持ち上がる。そのきっかけを大貫は「以前からの知人だった牧村憲一さんという人物が、プロデューサーとして登場するんです。“ヨーロッパっぽい音楽をやってみない? 合ってると思うんだけど”って。すごい資料魔なんですよ、彼。私もヌーヴェルヴァーグが好きだったし、ちょうど“休みを取った後”だったから。やってもいいかなという気になって」[5]と振り返っている。
サウンドのイメージは「フランソワーズ・アルディですね。それと『ラジオのように』のブリジット・フォンテーヌ。その後凝っていろいろと聴きましたけど、映画音楽を通じて聴いていたフランシス・レイとミシェル・ルグラン以外だと、前もって知ってたのはその二人くらいだった」「プロデューサーがアイデアを出してくれた一方で、それを音にしていく上では坂本さんの力が大きかったですね」[5]としている。ただ、アルバム全編フランスというわけでもなくて、イタリア的な雰囲気の曲があったり「ロシアのほうにも行っているんじゃないですか。<果てなき旅情>や<ふたり>は“モスクワッ”って感じがするし。広がりのある“ヨーロッパ”ですよね。それと、こういう曲をアレンジしてほしいという時、音以外にもヴィデオとか本とか、イメージを生み出せる材料をごっそり渡しておくんです。実際坂本さんとは一緒に曲作りをしていたようなものでしたね。“その音はいやだ”とか“もっとこうしてくれ”とか、それこそ千個くらい注文をつけながらやってるんで」「やっぱり映像的な表現は、どんな曲であれいつも意識してます。歌詞がつくのは一番最後なんですよ。まずメロディがあってサウンドがあって、その段階で大体世界が見えていないといやなんです。そこに乗せるべき言葉を探していく。歌詞なんて別に重要じゃないというと語弊があるけど、歌詞によってメッセージを伝えるというのはあまり好きじゃない。音楽全体を通して何かが見える。むしろ言葉がない部分にこそ重要なものがある、そういう状態が自分としては好きだし目指したいですよね」[5]とも答えていた。また、歌い方もこのアルバムを境にはっきりと変化したが、「それまでは“アーッ”とか結構乱暴に歌っていたのが、『ロマンティーク』には全然合わなかった。それこそフランソワーズ・アルディじゃないけど、フランス語独特の息の抜き方を意識したんです。当時は語るようなヴォーカルに、自分の歌い方のひとつを見つけた感じがしました」[5]という。
プロデューサーとして参加した牧村は、このときの状況を「初めてのソロ・アルバム『グレイ・スカイズ』[注釈 4]の時に、すでに彼女の中にある“アメリカン・フレーヴァーではないもの”を僕は感じていた。あのアルバムの中の<When I Met The Gray Sky>は、後のヨーロピアン指向の隠れた作品だと思う。その頃から、全体の何割かの部分で、ヨーロッパ的なものがあったと思っている。『ミニヨン』[注釈 1]では、友達でもある小倉エージ氏にプロデュースをお願いしたが、その時に出て来たのは、やはりアメリカ的な世界だった。でも、そのアルバムに“ミニヨン”というタイトルが付いた事が非常に暗示的だと思う。その後一年以上、彼女がレコードを出してなかった時、僕が“ター坊の中で今まで表現していないものを凝縮して出してみたら”と言った。で、スタッフ等を考えている内に“今回は僕がプロデュースしてみよう”と思った。それが『ロマンティーク』なんだ。『ミニヨン』[注釈 1]の時にエージが良い事を言っていたので、それを下敷きにして、ドラマツルギーみたいなものを要求した事が、ああいうサウンドになったんじゃないかな。ヨーロピアン云々ではなくて、彼女の詞やメロディーや声やキャラクターを生かすのが、あのサウンドだったわけ。ある意味では危険な賭けだったけど、その結果、彼女の潜在的な幅広い音楽性が目覚めたし、彼女のファンも『ロマンティーク』によって彼女のイメージを具体的に捉える事が出来たんじゃないかな。『ロマンティーク』は本当に苦労した。準備期間に半年から一年かかったし、あれだけで僕の中のノン・アメリカン志向を使いきったと言えるわけ。でも、『ロマンティーク』で彼女の新境地が開けて、彼女の存在価値がわかって貰えたのなら、駄目押しをしておきたいと思った。で、『ロマンティーク』で出来なかった部分を『アヴァンチュール』[注釈 5]でやることになったんだ。『アヴァンチュール』[注釈 5]で路線が確定したことによって、僕のプロデューサーとしての役目は終わったわけ。だけど、レコードをプロデュースするだけではなく、良いプロデューサーにバトン・タッチするのも、プロデューサーの役割のひとつなんだ。その良いプロデューサーというのが大貫妙子だったというわけ。今までやってきたことを良くわかっていて、具現化できる人だったから、僕は大貫妙子にバトン・タッチした」[4]と振り返って後にコメントしている。
アルバムには坂本龍一の他に加藤和彦もアレンジャーとして参加しているが、その理由を大貫は「加藤さんは東芝の“木かげ”という加藤さんのCMで初めて会ったんです。やっぱりいろんな人と交流を持ちたいし、自分が好きだなと思う人と仕事したいんで、一曲二曲でもやっていただけるなら、なるべく数多くの人と知り合いたいし。そういう人にお願いしてるんです」[4]とし、後に加藤は「最初に会ったのは、CMの仕事の時だったんじゃないかな。シュガー・ベイブのレコードやター坊の最初のソロ・アルバムを持っていて知ってたんだけど、あの声質が必要だったの。その時、アルディみたいなのをやれば似合うんじゃないかって言って、テープをあげたのかな。ヨーロッパの感じがしたの、声の質とか、歌い方とか。実際、やってみたら、やっぱりピッタリだった。合っているといっても、やらしたということではなく、本人自身も興味を持って。女のシンガー・ソング・ライターというのはいっぱいいるけど、歌い方や声質だけで何かを表現できちゃうというのは持って生まれたところがあるから、やっぱり、非常に特異な存在だと思う」[4]と、後にコメントしている。
アルバム全体振り返って大貫は「やはり25を過ぎると、何か変わるんですよね、心理的にも。女が女になっていくという境目があるとしたら、『ロマンティーク』からだと思います。たぶん。それから今までは割りと言いたい事は言ってしまっていた方なんですが、詞ひとつにしても“あ、これは言わないほうが傷つけないから言わないほうがいい”とか、そういった思いやりっていうのかしら、そういうのがこの頃になってやっとわかりかけてきたんです」[4]とし、さらにその後「今、聴いてみると、ややプロデュース過剰な曲もあり、坂本さんと加藤さんの色合いがくっきり別れてしまいましたが、映画のようにロマンティックに、あるいは壮大に音楽で表現しようと試みた結果、そうなってしまったのだと思います。このアルバムをつくることによって、私は自分の声や曲調に対しての手がかりをいくつも発見することが出来たのです。そして、当時このアルバムの評価が予想を超えて支持されたことによって、私は自分の居場所を見つけることができたのです」[3]と振り返っている。
- もう一人の
主役 - 大貫妙子の時代が来た。
- 坂本龍一、細野晴臣、大村憲司、高橋幸宏、そして加藤和彦らの全面的バックアップを得て二年ぶりのアルバム完成。
- シュガーベイブ時代の「蜃気楼の街」を含む全10曲のネオロマンティック・サウンド。
ジャケットと歌詞カード表面の写真撮影は鋤田正義が手がけたが、後に鋤田はそのときのエピソードを「撮影では“奇麗に”、“可愛く”撮ろうと努めています。ただ、ジャケットの場合は“かっこよく”というのが加わるんですね。『ロマンティーク』も可愛く奇麗にですが、ちょっと力を抜いているんですね。以前から大貫さんを知っていましたが初対面ですから、お互いに照れるところがあって、なかなか撮影にならないんです。スタジオで撮ることは決めていましたから、代々木公園あたりをぶらぶらと空シャッターに近いスナップを切りながら数時間歩きまわって、慣れてきた頃にスタジオに戻りました。それは、その人の音楽のイメージを大切にしたかったからかもしれないですね」[6]と語っていた。
2006年 、大貫監修・書下ろしセルフライナー収載による紙ジャケット仕様限定盤にて再発。シングル盤の未収録だった「愛にすくわれたい」をボーナス・トラックとして収録。2006年 リマスタリング音源を使用。
∴ translated by Frank Noël
曲名 | アーティスト | 収録作品(初出のみ) | 発売日 | 規格 | 生産番号 |
---|---|---|---|---|---|
新しいシャツ | 高橋洋子 | 新しいシャツ | 1996年10月2日 | SCD | KTDR-2169 |
Living with joy | 1996年10月25日 | CD | KTCR-1401 | ||
SMOOTH ACE | Smooth Le Gout Avec Piano | 2002年5月22日 | CD | TOCT-24782 | |
CARNAVAL | Studio Mule feat. 甲田益也子 (dip in the pool) | Carnaval feat. Miyako Kouda aka Dip in the Pool[注釈 11] | 2018年3月23日 | 12" Single | STUDIOMULE3 |
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