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P-2は、アメリカ合衆国のロッキード社が製作した対潜哨戒機である。アメリカ軍における愛称はネプチューン(Neptune:ローマ神話に登場する海神ネプトゥヌス)アメリカ軍では1947年から1978年まで哨戒爆撃機と対潜哨戒機(ASW)として使用された他、各国軍隊に採用されたベストセラー機でもあった。
第二次世界大戦中に開発が開始された。1943年2月にアメリカ海軍がベガ社にPVベンチュラ/ハープーンを置き換えるための陸上対潜哨戒機の開発要求を出した。この要求に応えて、ベガ社は1941年頃から研究を行っていたV146案を提出した。なお、1943年11月30日にベガ社はロッキード社に吸収されている。
V146案は1944年4月4日にXP2V-1として試作機・2機の発注が行われた。対潜哨戒機の重要な要求点は製造と維持の容易さであった。試作機は1945年に初飛行、1946年から量産され、1947年に海軍での運用が開始された。なお、1962年からは名称整理に伴い、P-2に改称された。
1946年9月9日、「タートル」と名付けられたP2V-1初号機がパース - コロンバス間18,227kmの無着陸飛行に出発し、55時間17分かけて達成した。この無着陸飛行記録は、1962年1月10日 - 11日にB-52が嘉手納 - トレホン間20,177kmを達成するまで破られなかった。
ベトナム戦争以降は潜水艦の進化に対応した機材の搭載が難しく、アメリカ海軍はじめオーストラリア、カナダ、オランダではP-3「オライオン」が導入されるようになった。アメリカ軍では1970年代まで第一線で運用していたが、1978年に引退した。他の国でも1980年代には後継機を導入するようになって順次引退した。払い下げられた機体は空中消火機や貨物機などに転用され、2000年代でも一部で運用が続いている。
P2Vは大型陸上機であり、基本的には空母からの離着艦は行わないが、少数機が暫定的な艦上機として運用されていたことがある。
アメリカ海軍は空軍の戦略爆撃機に頼らない独自の核兵器運搬手段として核爆弾を搭載できる艦上攻撃機を求めていたが、1940年代後半の核爆弾は技術的限界から小型化が難しく、当時存在した艦載機に搭載でなかったため、A-3やAJサヴェージなどを開発していたが、それまでのつなぎとして12機のP2V-3が暫定的な艦上核爆撃機P2V-3Cに改造されることになった。
P2V-3CはJATOにより離艦するが着艦は不可能なため、陸上基地に着陸するか海上に不時着水することになっていた。1949年から任務についたが、同年からAJサヴェージが配備されたため短期間で運用を終了した。一方で同年には大型航空母艦のユナイテッド・ステーツの建造が中止されたことを受け、空母に頼らない核兵器運搬手段として核爆撃機として運用できる飛行艇P6Mの開発を進めていたが、潜水艦発射弾道ミサイルの実用化にめどが立ち計画は中止された。
1954年(昭和29年)7月1日に保安庁警備隊が改編し発足した海上自衛隊は、MSA協定に基づきアメリカ海軍から航空機の供与を受けたが、そのほとんどが第二次世界大戦中に使用され、アメリカで第一線を退いた中古機であり、哨戒機も例外ではなかった。
同年12月にTBMが10機、1955年(昭和30年)に4機、1956年(昭和31年)に6機の計20機が供与され、PV-2も1955年(昭和30年)1月に17機が供与されたが、何れも性能は陳腐化しているうえ、米軍機を知らない隊員には扱いにくく、整備にも大変な労力を費やし、飛行させるのが手一杯という状況であった。もっとも、米軍側も日本が哨戒能力を高めることを望んでおり、いわば教材として与えられたに近かった。
1955年(昭和30年)9月、MSA協定により当時最新鋭のP2V-7が16機供与されることになり、これを7回に分けて米本国で受領し、訓練を受けた後、日本に空輸することになった。同年10月にP2V-7要員の第一陣が渡米し訓練を受けたのち、翌1956年(昭和31年)3月にP2V-7を受領、アラメダ~バーバースポイント~クェゼリン~グアム~日本のコースでフェリーを行い、3月7日に羽田空港に到着した。この機体が海上自衛隊にとって事実上初の実用対潜哨戒機となった。当時岩国基地に所在していた駐日米海軍哨戒航空隊の使用機でさえP2V-5を使用しており、そのため米海軍のVP搭乗員が見学に来たというエピソードが残されている。海自はP2V-7の愛称として、『おおわし』と名づけた。P2V-7の16機のフェリーは6次にわたって行われ、最終号機は1958年(昭和33年)8月に日本に到着している。1957年(昭和32年)には米軍の供与(現地調達)と言う形式で、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙システムカンパニー)でのライセンス生産が決定し、1965年(昭和40年)まで48機がノックダウン生産及びライセンス生産され[1]、供与機と合わせ計64機を取得した。
以後、固定翼対潜部隊(VP)の主力として、同時期に米軍からMAP(軍事無償援助)により供与されたグラマンS2F-1等と共に哨戒の任務についた。本機の登場によって海自はようやく近代的ASW作戦を展開しうる能力を獲得できたが、対潜機材の陳腐化とともに逐次第一線を離れ、1980年(昭和55年)2月に引退した。海上自衛隊はP2V-7の後継として、1966年(昭和41年)にP2V-7 4637号機を改造してP-2Jの開発を行い、P-2J試作第1号機(4701号機)として各種試験を行い量産型P-2Jの母体となった。P-2Jは、主エンジンをGEのT64ターボプロップエンジンに、補助エンジンをIHIのJ3エンジンに換装して1969年(昭和44年)から量産が開始され、1979年(昭和54年)までに83機[注 1]が製造され[2]、1994年(平成6年)まで運用された。
年月日 | 所 属 | 機番号 | 事故内容 |
---|---|---|---|
1962.2.6 | 第2航空隊 | 4621 | 青森県八戸沖で対潜訓練中に墜落。10名殉職[3]。 |
1962.9.3 | 第1航空隊 | 4628 | 鹿児島県名瀬市(奄美大島)の急患への輸血用血液を空輸中、奄美実業高校のマツに左翼が接触。付近の住宅地に墜落した。12名殉職。民間人死亡1名、重軽傷12名、全焼31棟[4]。 |
1965.6.1 | 第3航空隊 | 4657 | 下総基地で離着陸訓練中に着陸装置を出さずに着陸し炎上。 |
1965.7.17 | 第51航空隊 | 4614 | 銚子沖で新型照明弾を横壁の窓もしくはソナー用の穴から投下する試験中、同弾が発火して出火して墜落。11名殉職。機体はアメリカから供与を受けたもの[5][6]。 |
1971.7.16 | 第3航空隊 | 4651 | 下総基地に着陸のため進入中、立木と接触。着陸復行後、浜松に向けて飛行中に銚子沖で消息不明。11名殉職。 |
1972.7.26 | 第203教育航空隊 | 4650 | 台風退避の下総から鹿屋基地に帰投中、鹿屋から東約6マイルの高隈山に激突。7名殉職。 |
1973.4.27 | 第3航空隊 | 4662 | 硫黄島に着陸のため進入中に同島の東方約4海里で消息不明。8名殉職。 |
1975.6.20 | 第4航空隊 | 4664 | 八戸基地に帰投のため、鹿屋を離陸後右エンジンが故障し、鹿屋飛行場に緊急着陸すべく進入中に不時着、炎上。 |
中型クラスのレシプロエンジン双発プロペラ機であったが、補助推進機関としてターボジェットエンジン2基を搭載している。機内には対潜機器が並べられ、ノーズからコックピットの足元までガラス張りで、優良な視界が確保されている。
機首側に重量が偏っているためパイロットが降下率の変化に対応しきれず、滑走路手前の草地に接触する事故が度々発生しているが、強度の高い降着装置と高圧タイヤにより故障は少なかった[7]。
(P-2H)
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