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1936年ベルリンオリンピックの日本選手団(1936ねんベルリンオリンピックのにほんせんしゅだん)は、1936年にドイツ・ベルリンで行われた1936年ベルリンオリンピックの日本選手団。なお、ここでは台湾・朝鮮出身者も掲載される。選手名及び所属は1936年当時のもの。
オリンピックの日本選手団 | ||||
日章旗 | ||||
IOCコード: | JPN | |||
NOC: | 日本オリンピック委員会 公式サイト | |||
1936年ベルリンオリンピック | ||||
人員: | 選手 179名、役員 70名 | |||
旗手: | 大島鎌吉[1] 清川正二[1] | |||
メダル 国別順位: 8 位 |
金 6 |
銀 4 |
銅 10 |
計 20 |
夏季オリンピック日本選手団 | ||||
冬季オリンピック日本選手団 | ||||
中村コウ(北海高女)4位(38.24)峰島秀(国府台女教)5位(37.35)児島フミ(中京高女)15位(33.66)
山本定子(中京女教)女子やり投:5位(41.45)
総監督:末弘厳太郎、監督秘書:奥野良、監督秘書:安部輝太郎
役員:根来幸成、会計:渡辺寛二郎
ヘッドコーチ:松沢一鶴、競泳コーチ:斎藤巍洋
水泳コーチ:松本隆重、女子競泳シャペロン:白山広子、女子競泳コーチ:松澤初穂
トレーナー:柳田亨、医師:岡本勁一、飛込コーチ:原秀夫
役員:森悌次郎、本間茂雄
浅野延秋、三橋誠、高橋太郎、竹崎道雄
役員:加藤真一、石川周策、宇佐美敏夫
役員:山本千春、八田一朗
役員:鹿毛善光、坂口信夫
役員:吉本祐一、小沢吉太郎
役員:東俊郎、中原乾二、高木公三郎、久保勘三郎、瀬田修平、千葉五郎、高島勇
役員:遊佐幸平、浅本俊一
岩橋学(騎兵中尉、馬名:ファレーズ)障害飛越:14位
稲波弘次(騎兵馬名:朝富士)障害飛越:35位
稲波弘次(騎兵中尉、馬名:ギャロッピングゴースト)総合馬術:失権
松井麻之助(騎兵大尉、馬名:紫星)総合馬術:失権
大瀧清太郎(騎兵大尉)障害飛越:出場せず
選手団の移動は、主に陸路が選択された[5]。東京から下関まで丸1日、そこから船で6時間かけて釜山に入り、満州里まで50時間、シベリア鉄道に乗り換えてモスクワまで7日、ワルシャワ経由でベルリン=フリードリヒ通り駅まで3日を要した[6]。ベルリンに着くと、軍服姿の選手村の村長が日本陸軍式の敬礼で出迎え、選手団を驚かせたという[7]。選手らは移動中、途中停車駅でトレーニングを行った[7]。
選手村は空軍将校宿舎であったが、当初日本に割り当てられたのは一段設備の落ちる下士官用の宿舎であった[8]。他国を優先し、ドイツの友好国である日本に遠慮してもらうという意図であったが、選手団役員の田畑政治の直談判により将校宿舎に入舎することができた[8]。
ベルリンの街では「ハイル・ヒトラー」が挨拶代わりに交わされていた[9]。これを見ていた若い選手の間では「ハイル・ヒトラー」が流行語となった[9]。オリンピックが終了すると、開催国ドイツの外国人選手への態度が急に冷たくなり、日本選手団への対応も同様であった[9]。日本の水泳チームはオリンピックの後ロンドンへ行く予定でエールフランス機を予約していたが、ドイツの軍人が割り込んできて搭乗できなかった[10]。ところがそのエールフランス機は墜落事故を起こし、乗客乗員は全員死亡してしまった[11]。日本の水泳チームは、軍人の割り込みに命を救われることとなった[12]。
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