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日本のサッカー選手 ウィキペディアから
堀江 忠男(ほりえ ただお、1913年9月13日 - 2003年3月29日)は、静岡県浜名郡舞阪町(現:浜松市)出身[2]のサッカー選手、サッカー指導者、経済学者。現役時代のポジションはポジションはフルバック(現在のディフェンダー)。
静岡県立浜松第一中学校(現:静岡県立浜松北高等学校)時代にサッカーを始め、早稲田高等学院を経て早稲田大学政治経済学部に進学。在学中はア式蹴球部に所属した。
在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した[3]。また、1936年にはベルリンオリンピックの日本代表に選出された[1]。
ベルリン五輪では1回戦のスウェーデン代表戦に右FB(フルバック)で出場。前半15分、堀江は右腕を骨折するアクシデントに見舞われた。当時公式戦では選手交代が認められていなかった為[脚注 1]、堀江はプレーを続けたが、再三堀江がいる日本の右サイドを破られた。前半24分と前半37分にスウェーデンのエリク・ペーションが決め、スウェーデンが2点をリードし、ハーフタイムに入った[5]。後半、日本は3点を挙げ、逆転勝利をおさめた(ベルリンの奇跡)。右腕を骨折した堀江は続く準々決勝のイタリア代表戦には出場できなかった[6]。試合は0-8で日本が敗北した。
帰国後は、在学中から内定の決まっていた朝日新聞社に入社して、記者を15年務めた。1951年からは早稲田大学政治経済学部の教授として教壇に立つ傍ら、ア式蹴球部の監督も務め、釜本邦茂、森孝慈らを擁した1966年度の第46回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝した[6]。時代はすでに実業団へと移行しており、大学勢としては最後の天皇杯優勝チームになった。また西野朗、岡田武史らも育てた[6]。
経済学者としてはマルクス経済学に関する論文、著作を多く残した。
他
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