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明治時代の英学者、農政官僚 ウィキペディアから
鳴門 義民(なると よしたみ)は明治時代の英学者、農政官僚。阿波国美馬郡出身。江戸で大木忠益に蘭学、横浜で外国人に英語を学び、神奈川奉行所に勤務した。東京に英学塾を開いた後、農業行政に転じ、全国でメイガの駆除法を指導した。晩年芝区会議員。
晩年の鳴門義民 | |
人物情報 | |
---|---|
別名 | 阿波屋次郎吉 |
生誕 |
佐々次郎 天保6年7月15日(1835年8月9日) 阿波国美馬郡重清村東原(徳島県美馬市美馬町中東原) |
死没 |
1913年(大正2年)11月8日 東京府豊多摩郡渋谷町(東京都渋谷区) |
国籍 | 大日本帝国 |
出身校 | 神奈川表英学社 |
両親 | 佐々治藤太 |
子供 | 鳴門義次 |
学問 | |
研究分野 | 英学、応用昆虫学 |
研究機関 | 大蔵省勧農寮、内務省勧農局、農商務省農務局 |
指導教員 | 大木忠益、サミュエル・ロビンス・ブラウン、ジェームス・カーティス・ヘボン、ジェームズ・バラ、デイヴィッド・トンプソン |
主な指導学生 | 磯辺弥一郎 |
主な業績 | メイガの駆除 |
主要な作品 | 『独逸農事図解』 |
影響を与えた人物 | 益田素平 |
天保4年(1833年)または天保6年(1835年)7月15日[1]阿波国美馬郡重清村東原(現徳島県美馬市美馬町中東原)に佐々治藤太の次男として生まれた[2]。幼名は次郎、後に次郎吉[2]。
佐々家口伝によれば[2]、厳格な継父の教育に耐えかねて家出を決意し、草鞋製作により800文を蓄え、12歳の時吉野川岸に着物と下駄を置いて投身自殺を偽装し、家出を決行した。徳島からは金刀比羅宮参詣者に変装して無賃で大坂に渡り、呉服屋・大工・武家に奉公して旅費を貯めた後、横浜に上り、中浜万次郎出入りの米屋に住み込みで働き、毎日単語カードを譲り受けて英語を学んだという[3]。
安政元年(1854年)頃芝浜松町大木忠益に入門し、大鳥圭介・加藤弘之・子安峻・橋本綱三郎・宮内広・中村正直等と蘭学を学んだ[2]。
万延元年(1860年)横浜に出て、サミュエル・ロビンス・ブラウンに英文法、ジェームス・カーティス・ヘボンに世界地理、ジェームズ・バラに初級英語、デイヴィッド・トンプソンに数学を学んだ[4]。文久2年(1862年)3月神奈川奉行所に召し抱えられ、神奈川表英学社で英学を学んだ[4]。慶応2年(1866年)12月通弁・翻訳御用となり、徳島藩石川権五郎等に英学を教え、イギリス士官との航海術の問答を通訳した[4]。
明治維新後、東京府尾張町二丁目(現中央区銀座六丁目)に阿波屋を開業し[5]、外国雑貨を商った[6]。苗字制定の際に「鳴門」を姓とした。
明治2年(1869年)8月1日芝露月町(現港区東新橋二丁目)に英学・通弁教諭所を開業し、明治3年(1870年)8月17日『易経』繋辞上伝「其利断金」「其臭如蘭」に依り金蘭社と号した[7]。家塾は成功して100名以上の生徒を抱え[8]、明治4年(1871年)10月には薬研堀町(現中央区東日本橋二丁目)島村元琳宅に分塾鳴門社(鳴門塾)を開き、1876年(明治9年)頃鳴門義民英学所と改称[9]、1880年(明治13年)1月17日簿記学科を開講した[10]。
明治4年(1871年)頃大蔵省勧農寮に出仕し、明治5年(1872年)頃塾を校主代理・塾長に任せて大阪に移り、農書の翻訳・編纂に当たった[11]。
1875年(明治8年)5月島邨泰の開農義会社員となり、『開農雑報』に活発に寄稿したほか[12]、波東農社合併社員として茨城県鹿島郡の開墾事業に出資した[13]。1881年(明治14年)大日本農会創立時に常置議員・農芸委員(虫学科)となった[14]。
1877年(明治10年)5月から10月まで勧農局の命で青森県津軽郡に出張し、藁の焼却、誘蛾灯による駆除、虫の付いた稲茎の焼却、肥料への塩分添加を指導し、岩館村の試験田で薬剤試験を行った[15]。これが政府による虫害調査の初めとされる[16]。
同年福岡県益田素平等からも螟害の問い合わせがあり、1878年(明治11年)赴任し、青森県のものが二化性であるのに対し、福岡県のものは三化性で別種と判明[17](後にニカメイチュウ・サンカメイチュウと命名)[18]、5月長崎県[19]、11月熊本県で青森県と同様の駆除法を通達した[20]。
1880年(明治13年)駒場農学校植医科教師となり[6]、農書の出版や全国農談会での講演を行い、短冊苗代を奨励した[21]。1881年(明治14年)6月栃木県、1882年(明治15年)5月東京府下板橋宿、1883年(明治16年)9月下総、10月神奈川県でも虫害調査・駆除法指導を行い、『農事月報』で逐次報告した[22]。
明治20年代初めには非職となり[21]、1889年(明治22年)11月から1892年(明治25年)11月まで第1期芝区会議員を務めた[23]。1889年(明治22年)本芝四丁目海岸に鉱泉が発見され、土地借用を出願したが、他の出願者と係争になり、後に木村荘平の個人事業として開発された[24]。
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