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国民英学会の創立者 ウィキペディアから
磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延2年2月7日) - 1931年(昭和6年)4月23日)は、国民英学会の創立者[1]。磯部彌一郎とも。
熊本藩士磯辺謙叟の二男として豊後国大分郡鶴崎村(現・大分市鶴崎)に生まれる。漢学塾を経て1875年(明治8年)上京し鳴門塾へ入学したのち慶應義塾に学ぶ。一度ほかの私立学校に転じたのち、1877年(明治10年)慶應義塾に復学し、翌年応募した懸賞作文『酒と博打いずれがその害大なるや』で賞を受ける[2][3]。
福沢諭吉の民権主義に感化され[4]、1880年(明治13年)に退学して北海道の開拓会社「函館開拓社」へ入社、岩内社に移ったのち、同社の閉鎖に伴い岩内小学校の教員となる。1881年(明治14年)帰京し、外国人と交流して英語を研究する。
1888年(明治21年)にフレデリック・イーストレイク(イーストレーキ)と英語学校「国民英学会」をおこし[5]、月刊で『国民英学新誌』を刊行[6][7]、論説を掲載している[注釈 1]。
イーストレイクが同校を去ったため1890年(明治23年)に『国民英学新誌』が廃刊すると、1894年(明治27年)より月刊誌『中外英字新聞研究録』[9]を発行(のちに『中外英字』と改称[10])[11]。
1899年(明治32年)、子供の頃からの夢だった洋行を果たし、イギリスなど欧米各国を視察すると翌年帰国[12]。明治末年に向け、専門分野の英語力習得を目指し外国語と判検事、弁護士に志願[13]、あるいは外国語研究について投稿[13]している。
磯辺は日本の英語教育の黎明期を見つめる。母校慶応義塾と大学南校は正則教育課程を重んじ、本来なら英語を母語とする教師が正しい発音で英語を教えるのが理想だが、正しい発音を教科書に示して訳語を普及させようと、原書版の教科書(ピネヲ著、クワッケンボス著)を翻刻し翻訳する[14]。慶應義塾版の初版は1870年(明治3年)に上梓した永嶋貞次郎訳『ピ子ヲ(ピネヲ)氏原版英文典直訳』[注釈 2]である。構造が異なる日本語と英語の問題が横たわり、英語原文の横に日本語の翻訳を並べようとするあまり(逐語訳)、英文の語順を重視しても適切な訳語を思いつかないまま、文字と意味とがばらばらに並ぶ箇所が目立った[14]。
やがて版を重ねるうちに工夫が凝らされ、大きな問題だった時制の違いもすり合わせが試みられる。欧文直訳体は、日本語にも現在完了形と過去完了形、未来完了形を加え、時制を6段階に分けた[14]。それを見た磯辺は論文「国文に及ぼせる英語の感化」(1906年=明治39年)に「国文の文法が英学から受けた最も顕著な影響とは、いわゆる時制(テンス)の区別」であると述べた[16]。また次々に生まれる訳語のうち、形容詞と副詞に「〜的」を付けて英語に沿わせようとする点にも着目している[17]。
国民英学会への入学者は大正初期(1910年代)までに数万人にのぼり、卒業者は2000人以上を数えた[2]。その後も国民英学会会長と『中外英字』[注釈 3]の主筆を務める。英国近世語学協会会員[1]。
1931年に没した(没年70歳)。イーストレイクの妻によると、乗船していた汽船が遭難し死亡したという[18]。墓所は雑司ヶ谷霊園。
旧漢字は常用漢字に改めた。
媒体ごとにまとめる。
磯辺弥一郎は妻のあや子との間に8人の子があり[23]、長女の文子は東京府農工銀行(現・みずほ銀行)の頭取職にあった星川藤七へ、次女の登亀子(ときこ)は愛知大学学長などを務めた本間喜一に嫁ぎ[24]、三女の光(みつ)は三井物産社員と結婚した[25]。
磯辺の兄は海軍少将から日本郵船取締役、摂津航業社長、貴族院議員を務めた磯辺包義(いそべ かねよし)[26]。兄の長男(甥)は軍人の磯邊民彌、その妻・隆子の岳父阿部泰蔵は明治生命初代頭取を務め[24]、隆子のきょうだいに水上滝太郎、小泉とみ(小泉信三元慶応義塾大学塾長の妻)などがある。
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