鎖国(さこく、旧字体:鎖󠄁國)とは、江戸幕府が、オランダ(および一時期のイギリス)を除くキリスト教国の人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、そこから生まれた日本の孤立状態あるいは日本を中心とした経済圏を指す。
一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)の日米和親条約締結までにわたる215年間を「鎖国」 (英: closed country) と呼ぶ。
幕末に開国を主導した井伊直弼は鎖国を「閉洋之御法」とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた[1]。
なお、海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた[注 1]。
対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)および琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)[注 2]およびオランダ[注 3](オランダ東インド会社[注 4])との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。
「通信国」である朝鮮国(李氏朝鮮)は対馬藩、琉球国は薩摩藩が、外交・貿易を仲介していたのに対し、「通商国」であるオランダと清との貿易は、幕府直轄地の長崎において長崎奉行の監督下で行われていた。琉球国に関しては1609年の琉球侵攻により薩摩藩の付庸国となったが、すでに中国の冊封国であり朝貢を行っていた。この実権を薩摩藩が掌握するようになり、実質的に薩摩藩は中国(17世紀後半から清)とも交易を行っていた。
本来、鎖国とは外国との交際がなく、国際的に孤立した状態の意味合いがあるが、江戸時代の鎖国とは、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止し、対外貿易を長崎でのオランダ商館と中国船との貿易だけに制限した状態をいい、完全な国際的孤立状態を意味していない[2]。
また、鎖国という名が使われたのは、長崎のオランダ通詞志筑忠雄がエンゲルベルト・ケンペルの著作『日本誌』の一部分を翻訳して、それに「鎖国論」と名づけたころ、すなわち幕末に開国ということが問題にされるようになってから、開国という言葉に対して使われだした[2]。詳しくは、次項で述べる。
「鎖国」という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年 - 1806年)が、1801年成立の『鎖国論』において初めて使用した[3][4]。1690年から1692年にかけて来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが、帰郷後にアジア諸国に関する体系的な著作『廻国奇観』の中で日本についても論じて[5]、死後『日本誌』(1727年刊)が編集され英訳出版された[6]。そのオランダ語第二版(1733年刊)中の巻末附録の最終章に当たる『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を、1800年頃に長崎の元阿蘭陀稽古通詞であった志筑忠雄が訳出した。その際、あまりに論文の題名が長いことから、翻訳本文中の適当な語を捜し、『鎖国論』と題した[7][注 5]。この「鎖国」はその際に新造された語だが、本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖国」という語も広まらなかった。そのため、いわゆる「鎖国令」という用語は、明治以降の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられたことはなかった。
しかし、鎖国論は転写され、写本というかたちで一部の知識階層と一部の幕閣に浸透していき、その結果、写本が40種も作られた[8]。なお、国学者の平田篤胤が『鎖国論』を入手して『古道大意』などの著作に引用されたこと、幕末に黒沢翁満が『鎖国論』を『異人恐怖伝』に改題して自らの攘夷論を示した『刻異人恐怖伝論』(1850)を加える形で刊行されるなど、『鎖国論』そのものの社会に対する影響は小さくなかったとする見方もある[9]。
実際に「鎖国」という用語が幕閣の間で初めて使われたのは、1853年で、本格的に定着していくのは1858年以降とされている[10]。さらに一般に普及していったのは明治時代以降である[7]。したがって、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である[11]。
欧米では日本の外交政策については、ハーマン・メルヴィルの『白鯨(Moby-Dick)』(1851)で「double-bolted」(当時の玄関ドアなどの上下にそれぞれ取り付けられた様式で、天地スライド錠を締めている)、「locked Japan」(鍵のかけられた日本)との言及があるように、「鎖国」として認識されていた。このため、江戸時代以外の時代の孤立外交も「鎖国」の名で呼ばれることになった。そのため、近年歴史学者の間では「鎖国」ではなく、他の東北アジア諸国でも見られた「海禁」に改めようとする動きがある。また、近年の教科書においては、鎖国の前に「いわゆる」と付け加える、鍵括弧つきで「鎖国」と書く、などの表現も多い[要出典]。
なお、江戸時代には「鎖国」という言葉は用いられていなかったことを根拠に「鎖国」の存在を否定する意見が一部に見られるが、それを言った場合「藩」や「天領」といった言葉も鎖国と同様に明治以降に定着した公称である[12]。
「鎖国」完成までの歴史
「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。
- 1612年(慶長17年)幕領に禁教令
- 1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定、家康による関東の西洋人居住許可を否定。
- 1617年(元和3年)堺において外国人の鉄砲等の武器購入が禁止。
- 1618年(元和4年)イギリス・オランダの輸入鉛購入先は幕府のみとなる。
- 1620年(元和6年)平山常陳事件。イギリス・オランダが協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる。
- 1621年(元和7年)日本人のルソン渡航禁止。イギリス・オランダに対して武器・人員の搬出と近海の海賊行為禁止を命じる。
- 1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
- 1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
- 1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
- 1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
- 1633年(寛永10年)「第1次鎖国令」。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
- 1634年(寛永11年)「第2次鎖国令」。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
- 1635年(寛永12年)「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航および日本人の帰国を禁じた[13]。
- 1636年(寛永13年)「第4次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
- 1637年(寛永14年)〜1638年(寛永15年)の寛永年間の島原•天草の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助した。
- 1639年(寛永16年)「第5次鎖国令」。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[14]。
- 1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
- 1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
- 1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
- 1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
- 1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
- 1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。
「鎖国」中の正規貿易(四つの口) と密貿易
「鎖国」政策の下、その例外として、外国に向けてあけられた4つの窓口を、現代になってから「四つの口」と呼ぶことがある(「四つの口」という語は1980年頃に荒野泰典が使い始めた。)[15]。
- 松前口:対山丹人と間接的な対清朝中国:松前藩・白主会所(直轄地)経由
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- 松前藩の松前氏は来航する山丹人と間接的に交易し蝦夷錦などの大陸産品を入手してきた。江戸時代に入っても、その権限が引き続き認められ、蝦夷(アイヌ)が交易を中継ぎする役割を担った。第一次幕領期以降、蝦夷地は幕府(箱館奉行)の直轄地として、幕府の管理で貿易が行われた。
- 長崎口:対オランダと対清朝中国:長崎会所(直轄地)経由
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- 長崎は幕府(長崎奉行)の直轄地として、幕府の管理で貿易が行われた。
- 対馬口:対李氏朝鮮:対馬藩経由
- 対馬藩の宗氏は中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担ってきた。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ(釜山倭館における交易)、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割を担った。
- 薩摩口(琉球口):対琉球王国:薩摩藩経由
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- 薩摩藩が琉球王国に侵攻、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められた。
「鎖国」実施以前から、幕府は貿易の管理を試みていた。1604年には糸割符制度を導入し、生糸の価格統制を行った。糸割符は1655年に廃止され、長崎では相対売買仕方による一種の自由貿易が認められて貿易量は増大したが、1672年に貨物市法を制定して金銀流出の抑制を図り、さらに1685年には定高貿易法により、金・銀による貿易決済の年間取引額を、清国船は年間銀6000貫目・オランダ船は年間銀3000貫目に限定した。のちに、これを超える積荷については、銅・俵物・諸色との物々交換による決済(代物替)を条件に交易を許すようになったが、1715年の海舶互市新例により代物替が原則とされた。また、定高は1742年と1790年の2回にわたり引き下げられたため、代物替による交易が中心となっていった[16]。
いわゆる「鎖国」政策は、徳川幕府の法令の中では徹底された部類ではあったが、特例として認められていた松前藩、対馬藩や薩摩藩では、徳川幕府の許容以上の額を密貿易(抜け荷)として行い、それ以外の領内を大洋に接する諸藩も密貿易をたびたび行っていた。これに対して、新井白石や徳川吉宗ら歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきたが、財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。中には、石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易に関わった上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もあった(竹島事件)。
南蛮貿易の開始
明朝中国は海禁政策を採っていたが、勘合貿易により日明間の貿易は行われていた。しかし、1549年(嘉靖28年)を最後に勘合貿易が途絶えると、両国間の貿易は密貿易のみとなってしまった。ここに登場したのがポルトガルであった。ポルトガルはトルデシリャス条約およびサラゴサ条約によってアジアへの進出・植民地化を進め、1511年にはマラッカを占領していたが、1557年にマカオに居留権を得て中国産品(特に絹)を安定的に入手できるようになった。ここからマカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。
徳川家康が政権を握ると、オランダ、イギリスに親書を送り、オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を設立した。しかしながら、両国とも中国に拠点を持っているわけではなく、日本に輸出するものはあまりなかった。結果イギリスは1623年に日本から撤退、オランダも日本への進出は商業的というよりむしろ政治的な理由であった[注 10]。なお、当時のスペインの関心はフィリピンとメキシコ間の貿易であり、1611年にセバスティアン・ビスカイノが使節として駿府の家康を訪れたが、貿易交渉は不調に終わっている。
キリスト教の禁止
ポルトガル船が来航するようになると、「物」だけではなくキリスト教も入ってきた。1549年のフランシスコ・ザビエルの日本来航以来、イベリア半島(スペインやポルトガル)の宣教師の熱心な布教によって、また戦国大名や徳川幕府下の藩主にもキリスト教を信奉する者が現れたため、キリスト教徒(当時の名称では「切支丹」)の数は九州を中心に広く拡大した。当時、近畿地方から東海地方を勢力圏としていた織田信長は、これを放任、豊臣秀吉も当初は黙認していたが、1587年にバテレン追放令を出し、1596年にサン=フェリペ号事件が発生すると、切支丹に対する直接迫害が始まった(日本二十六聖人殉教事件)[注 11][注 12]。
家康は当初貿易による利益を重視していたが、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなった。また、1612年の岡本大八事件をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年に、キリスト教信仰の禁止が明文化された。また、国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威となり、締め付けを図ることとなったと考えるのも一般的である。ただこの後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことからこの禁教令は「鎖国」と直結するものではないとする指摘もある[34]。
当時海外布教を積極的に行っていたキリスト教勢力は、キリスト教の中でも専らカトリック教会であり、その動機として、宗教改革に端を発するプロテスタント勢力の伸張により、ヨーロッパ本土で旗色の悪くなっていたカトリックが海外に活路を求めざるを得なかったという背景がある。一方、通商による実利に重きを置いていたプロテスタント勢力にはそのような宗教的な動機は薄く、特に当時、スペインからの独立戦争(八十年戦争)の只中にあったオランダは、自身が直近までカトリックのスペインによる専制的支配と宗教的迫害を受け続けたという歴史的経緯から、カトリックに対する敵対意識がとりわけ強かったことも、徳川幕府に対して協力的であった理由と言える。
とは言うものの、中国に拠点を持たないオランダやイギリスが直ちにポルトガルの代替にならない以上、ポルトガルとの交易は続けざるを得なかった。
キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく、平戸のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[35]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[36]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[37][38][39][注 13]。
オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[43][注 14]。
エンゲルベルト・ケンペルは1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[44][注 15]。
1637年9月、長崎奉行榊原職直と馬場利重はフランソワ・カロンに対してマカオ、マニラ、基隆侵略の支援をするよう高圧的にせまった[47]。カロンはマニラを襲撃する気も、日本の侵略軍を運ぶ意志もなく、オランダはいまや兵士よりも商人であると答えた。これに対して長崎代官であった末次茂貞はオランダ人の忠誠心は、大名が将軍に誓った忠誠心に等しいと念を押している[47]。この点は、この文書がオランダの上層部で議論されるようになったときにも失われることはなかった。将軍に仕えるという評判を捨てて、貿易に影響を与えるか、それとも侵略に人員と資源を投入して、会社の全艦隊が破壊されるかもしれないという大きな危険のどちらかを選ばなければならなかったのである。オランダ人は後者を選び、日本の侵略軍をオランダ船6隻でフィリピンに運ぶことに同意した[47]。その後まもなく長崎代官の末次茂貞(末次平蔵の息子)から、商館長のニコラス・クーケバッケルに対し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛の要請があった。これに対し、オランダ側はスヒップ船[注 16]4隻とヤハト船[注 17]2隻を派遣することとした。しかしながら、翌年に島原の乱が発生したこともあり、フィリピン遠征は実現しなかった[注 18][48]。
アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスのホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[49][50]。
二港制限令とイギリス商館の撤退
イギリス商館長リチャード・コックスは着任早々、オランダ人がイギリス人と称して海賊行為を行い、イギリス人の悪評が立っていることに衝撃を受けたという[51]。オランダ人に対抗するためにリチャード・コックスはオランダがスペイン王国の一部であるためオランダ人は反逆者であり、いずれ日本国を滅ぼすかもしれないと幕府に訴えた。またオランダは英国のおかげで独立しており、オランダは英国の属国だとの風評を立てた[52]。
オランダ商館長ヤックス・スペックスもコックスと同様に、オランダ総督をオランダ国王として虚偽の呼称を使用し、オランダ国王がキリスト教王国の中でも最も偉大な王であり、全ての王を支配しているとの風評を広げようとした。コックスはこれを逆手にとり、自国がオランダよりはるかに優れていることを大名や役人の前で説明したが、島津家久はこれを信じて、オランダ人でなくイギリス人に薩摩での貿易を許可するとの言質をとることに成功した[53]。
1616年の二港制限令は、コックスが江戸にいる間のことだったが、これはコックスの発言が彼が意図した以上に幕府に警戒感を抱かせたことが発端となった可能性が指摘されている[54]。二港制限令はイギリス人とオランダ人を長崎と平戸に閉じ込めることを決定した。コックスは秀忠に謁見しようとしたが、家康宛ての書状であるとの表向きの理由で拒否された[55]。さらに宣教師も追い打ちをかけて、連邦共和国を巡ってスペインが困っているのは、イギリスの支援があるからであり、イギリス人が正統な国王に対して対抗する手段を与えたとの有害な事実を広めた[56]。
イギリス商館はその後も続いたが、コックスは秀忠に謁見して一時的な撤退の許可を得た。その後はイングランド内戦やクロムウェルの介入のためイギリス人の来航は数十年以上経過した後のリターン号事件まで待つことになる[57]。
1673年、イギリス船リターン号が来航し通商再開を求めたが、イギリス人のキリスト教禁令遵守を疑った幕府は拒否した[58]。
武器・傭兵の禁輸
秀吉による文禄・慶長の役が失敗に終わり、国内外に大きな被害を与えたため、江戸幕府の対外進出は不活発なものになった。一方で、先発のスペイン・ポルトガルと後発のイギリス・オランダは、貿易の主導権を握るため、東南・東アジア各地で武力衝突を行った。これらの武力衝突や現地での植民地獲得のため、日本の武器や傭兵としての人員が注目され、数多くの武器・浪人が海外へ流出した。
この結果、現地での日本人浪人による蛮行が問題となり、家康に東南アジアから国書で抗議される事態に発展、これに対して家康は現地の一存で日本人を処罰することを認めた。その後、秀忠の治世になると、武器・浪人を含む日本人の海外流出を禁じる方針に転換、また国内への鉛等の武器輸入も幕府が独占した。
島原の乱
徳川幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は、1637年(寛永14年)に起こった島原の乱である。この乱により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないようイベリア半島勢力を排除した。ポルトガルは1636年以降出島でのみの交易が許されていたが、1639年にポルトガルが追放されると出島は空き地となっていた。1641年、平戸のオランダ商館倉庫に「西暦」が彫られているという些細な理由で、オランダは倉庫を破却し平戸から出島に移ることを強制された。この時の交換条件として徳川幕府は、ポルトガルが年額銀80貫払っていた出島使用料を、オランダに対しては年額銀55貫に減額している。また、徳川幕府に対して布教を一切しないことを約束した[注 19]。しかし、島原の乱からポルトガル追放までは2年の間がある。これはオランダがポルトガルに代わって中国製品(特に絹と薬)を入手できる保証がなかったことと、日本の商人がポルトガル商人にかなりの金を貸しており、直ちにポルトガル人を追放するとその回収ができなくなることが理由であった。
貿易の管理
戦国時代から江戸初期にかけて、国内各地で大量に金と銀(特に銀)を産出していたため、交易においてもその潤沢な金銀を用いた。他方、江戸初期においては特に輸出するものもなく圧倒的に輸入超過であり、徐々に金銀が流出していった。このため、幕府は1604年に糸割符制度を設けて絹の価格コントロールを試みた。17世紀も後半になると金銀の産出量が減り、このため1685年には貿易量を制限するための定高貿易法が定められ管理貿易に移行した。また現代的視点では、長崎の出島・堺を始めとした有力港湾を徳川幕府の直轄領(天領)、若しくは親藩・譜代大名領に組み入れることによって、徳川幕府による管理貿易を行い収益を独占した、という研究がある[要出典]。しかし、幕府は藩の直接的な貿易を禁止したが、幕府自身も直接的な貿易を行っているわけではなく、また「鎖国」成立当初において幕府が長崎貿易から利潤を得ていたわけでもない。貿易の管理・統制については、貿易都市長崎および商人を通して間接的に行っていた[59]。山丹交易は、当初、松前藩が自藩領内の蝦夷(アイヌ)を介し、樺太や宗谷に来航する山丹人と取引した。これは、間接的には大陸にある清の出先機関・デレンとの貿易であった。山丹交易は松前藩の収入の一角を占めていたが、1807年(文化4年)の第一次幕領期以降、蝦夷地(北海道・樺太・北方領土・得撫郡域)は公議御料となり、交易は幕府(箱館奉行)直営とし、交易地も白主会所に限定された。また、18世紀の中頃から、北樺太の近くに住む樺太アイヌの一部には、幕藩体制の役職を持ったまま間宮海峡を超えて大陸・デレンとの貿易を行う者もいたが、幕吏・松田伝十郎の改革以降大陸渡航は禁じられた。この改革で、山丹人は直接江戸幕府に朝貢するようになった。
「鎖国」に対するオランダの認識
「鎖国」後しばらくの間オランダは、デンマークやフランスのようなプロテスタント諸国[疑問点 – ノート][要出典]が交易を求めてきたとしても徳川幕府がこれを拒否しないのではないか、すなわち「鎖国」は不安定ではないか、と考えていた。このため、元オランダ商館長で滞日期間が20年を超えており1667年にフランス東インド会社の長官に就任したフランソワ・カロンが「日本との通商を求めるのではないか」と危惧している[注 20]。また英国船リターン号が1673年に貿易再開を求めて来航した際には、事前にオランダ風説書にて英国王チャールズ2世がポルトガル王女キャサリンと結婚したことを幕府に対し報告することによって、オランダはその貿易再開を間接的に妨害している。ところが、18世紀の中頃になると、オランダは「日本人はオランダ人が言う海外情勢は何でも信じる」との認識をもつに至った。既にこの頃になると「鎖国」は安定し確固たるものとオランダは考え、オランダ人の貿易独占権は容易には崩れないとも考えていた[60]。
鎖国祖法観
実現はしなかったものの、18世紀後半に蝦夷地開発に関連して田沼意次はロシアとの貿易を考慮しており、松平定信もロシアとの小規模な貿易を考えて、蝦夷地に来航したアダム・ラクスマンに信牌(長崎への入港許可証)を与えていた。この信牌を持ったニコライ・レザノフが1804年に長崎に来航し、通商交渉が行われたが、幕府は最終的に通商を拒否した。「海外との交流を制限する体制を自己の基本的な外交政策とする」という明確な認識(鎖国祖法観)を徳川幕府自身がもったのは、この事件をきっかけにしているという説もある[61]。ただし、幕閣の中で「鎖国」という言葉が用いられた初出は1853年と指摘されているとおり[62]、「鎖国祖法」というのは後世の研究者による講学上の造語で、当時の資料では単に「祖法」とされている[63]。
評価は論者によって分かれている。そもそも「鎖国」では無いとする評価 については下記の#「鎖国」概念の見直しを参照。
肯定的評価
- 日本独自の文化を形成し、自給自足の経済体制を構築できた[64](ビル・トッテン)。
- スペイン・ポルトガルの侵攻を防いだ(占部賢志)[65]。
- 「国内には不断の平和が続き、かくて世界でもまれに見るほどの幸福な国民である。海外の世界との交流は一切断ち切られて完全な閉鎖状態に置かれている現在の日本ほどに、国民の幸福がより良く実現している時代はない」(鎖国論作者エンゲルベルト・ケンペル[66])。
否定的評価
- 世界の動きから断絶したため海外の事情に疎くなった(戦前の歴史教科書に共通した評価)[67]。
- 南方進出のチャンスを逃した(菊池寛)[68]。
- 最終的に太平洋戦争の敗北にまでつながった。すでに日本は内戦状態(戦国時代)であったのだから、宣教が征服目的であったならとっくに征服していた(和辻哲郎)[69]。
上記の通り、「鎖国」は外国との交流を制限するものと解釈されてきた。
しかし、1980年代になると、従来の「鎖国」概念を廃し、一連の政策は徳川幕府が中世の対外関係秩序を再編したものとする考え方が提唱された[70]。さらに2000年代に入って、〈鎖されていなかった徳川日本を「鎖国」と呼んできた歴史〉を歴史化し、それを日本人のアイデンティティと密接に関係する言説として捉え、その形成史を解明する研究が登場した[71]。また、その延長で、「鎖国」だけではなく「開国」も言説として捉え、その形成史を追究する試みも展開されている[72]。
このような背景から、2017年2月には2020年度から使用される中学校の次期学習指導要領改定案から「鎖国」という表現が削除され[73]、小学校では「幕府の対外政策」、中学では「江戸幕府の対外政策」とされる予定であるとの発表があった。しかし、パブリックコメント(意見公募)での批判が多かったことから、幕末の「開国」との関係に配慮し「鎖国などの幕府の対外政策」といった表記がなされることとなった[74][75]
なお、海外との交流・貿易を制限する政策は徳川日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていたこともあり、現代の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東北アジア史を視野に入れてこの「海禁」という用語を使う傾向がみられる。その理由としては、1)「鎖す」という語感が強すぎる、2)対欧米諸国の視点に基づきすぎている、3)否定的なイメージがある、があげられている。しかし、「海禁」自体の研究が十分ではないとの指摘もあり[76]、従来の用語を変えることへの批判もある[77][78]。
注釈
当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。その結果、正式な交流が認められるようになった。
本国が1795年にフランス革命軍により占領され、バタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行っていた。その後、1799年にフランスによって東インド会社は解散した。そして、オランダの海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。
ケンペルは上述の論文において、キリスト教的立場に反し、いわゆる「鎖国」体制を肯定する立場を採った。それは次のケンペルの背景を踏まえねばならない。まず、ケンペルは三十年戦争直後の荒廃した地方都市レムゴー(Lemgo)に生まれ、また、そこで遅くまで魔女狩りが残っていたことにより叔父が処刑された経験を持っており、戦争に対する嫌悪やキリスト教およびキリスト教社会に対する疑いの眼差しを持っていた。さらにケンペルは、各地を旅行することで比較文化の眼も養っていた。そのような背景を有するケンペルは、短期間の滞在(1690年〜1692年)の限られた情報源の中で、厳格な処罰により治安維持が成されているように観察された第5代将軍徳川綱吉治世の状態を、好意的に解釈したことから上述の見解(論文)が生まれた。
1795年、オランダ本国(ネーデルラント連邦共和国)はフランスの侵攻により滅亡し、衛星国バタヴィア共和国が誕生した。オランダ東インド会社の日本支店に当たるオランダ商館の権利もバタヴィア共和国に移ったが、これは英国と敵対関係となることを意味し、アジア地域におけるオランダ船の航行は難しくなった。そこで1797年よりオランダ東インド会社は米国船と傭船契約し、アメリカのセーラムと米国船にて貿易を継続した。なお、当時の国際関係において米国船籍は、中立国の船として英国もその航行を認めた。ただし、長崎入港時にはオランダの国旗を掲げ、名目上はオランダとの通商を行っていることとした。1799年、オランダ東インド会社が解散するとオランダ商館は雇い主を失い、米国船との貿易は1809年まで続いた。
幕府はこのあたりの事情は理解していたが、「見て見ぬふり」をしており、本国がフランスに占領されている間(バタヴィア共和国は1806年にナポレオンの弟のルイ・ボナパルトを王とするホラント王国になり、さらに1810年にはフランスに完全に併合された。オランダが再独立は1815年である。)、出島のオランダ商館は世界中でオランダ国旗が掲げられている数少ない場所となっていた。
他の米国船での貿易の例は以下の通り(東京都江戸東京博物館『日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐』1999年)。
- 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
- 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
- 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
- 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号。
- 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
- 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
- 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
- 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
- 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
- 1809年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
当時オランダ本国はスペインに対する独立戦争を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ(Pieter Willemsz. Verhoeff)に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。
追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[32]。1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[33]
現存する最古の西洋人墓碑は江戸時代後期、元出島オランダ商館長ヘンドリック・ホットフリート・デュルコープ(1736-1778)のものである。オランダの日誌によるとキリスト教式の葬儀が異例ながら許された[40][41]。墓碑は1779年1月4日に設置された[42]。
家光はキリスト教への恐怖からオランダ人を出島に移したが、外国との貿易に付随する政治的な利害関係を排除するためでもあった[43]。
英語のシップ。3本マストの大型船で、後の戦列艦に相当する。
英語のヨットの語源だが、縦帆ではなく3本マスト横帆の快速船。
フィリピン遠征に関しては1630年に島原藩主松倉重政も計画したが、これも実現前に重政が死亡している。
その後も、オランダ船は聖書や十字架など船に積んであったキリスト教関係の品を、長崎入港前に投棄している。
実際、カロン自身はフランスと日本との交易を考えており、アジア赴任にあたっては、将軍への献上品として消防ポンプを選ぶなど(江戸に火事が多いことを知っていたため)、その準備も行っていた。しかしながら、他のフランス人幹部がこれに反対したため、実現はしなかった。
出典
志筑忠雄訳『鎖国論』(写本)、享和元年(1801年)
検夫爾著、志筑忠雄訳、黒沢翁満編『異人恐怖伝』嘉永3年(1850年)刊、3冊(鎖国論を含む印刷された最初の本)。
Heutiges Japan. Hrsg. von Wolfgang Michel und Barend J. Terwiel, 1/1, 1/2, München: Iudicium Verlag, 2001. (Textband und Kommentarband) (『今日の日本』[いわゆる『日本誌』]の原典批判版)ISBN 3-89129-931-1。
大島明秀『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』(ミネルヴァ書房、2009年)
渡邉直樹「ケンペルの「……国を鎖している日本」論 志筑忠雄訳「鎖国論」と啓蒙主義ヨーロッパ」 『宇都宮大学国際学部研究論集』39号 p23−36 2015年
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Imagining Global Amsterdam: History, Culture, and Geography in a World City, M. de Waard / Amsterdam University Press, Amsterdam 2012, p. 37., "we had to endure many shameful restrictions imposed by those proud heathens. We may not celebrate Sundays or other festivities, we may not sing religious songs or speak our prayers; we never pronounce the name of Christ, nor may we carry around the image of the cross or any other symbol of Christianity. In addition we have to endure many other shameful impositions, which are very painful to a sensitive heart. The only reason which induces the Dutch to live so patiently with all these pains is the pure and simple love for profit and for the costly marrow of the Japanese mountains. (1964, 72)". Kämpfer, Engelbert. Geschichte und Beschreibung von Japan. Vol. 2. Stuttgart: Brockhaus, 1964. p. 72
Gulliver’s Travels, Japan and Engelbert Kaempfer, Bodart-Bailey Beatrice M, Otsuma journal of comparative culture, Vol. 22, pp. 75-100, "Even though the Dutch argued that they assisted the Japanese in political rather than religious strife, the event was much condemned by other European nations. "
"Dr. John Francis Gemelli Careri, Voyage Round the World, 1700, Book IV, Chapter II, p. 291. "making no scruple for their Interest to trample the Holy Image of Christ, which the English refus’d to do.”
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The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 30 "Little has been said above about the Dutch. Their base was beside that of the English on Hirado. On first arrival in Japan, Cocks and Saris were shocked to find that individual Dutchmen (not the Company itself) were billing themselves as “English,” which they did so as to engage in piracy without sullying their own country’s name.161 Not withstanding the honours given to Addames, the reputation preceding the English was accordingly not good."
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31, "The best strategy was to link the Dutch to the Jesuits, which was intensely done after the first change in shogunal attitude in winter 1613–1614, after Saris had left and Cocks had gained some purchase on the situation in Japan. Jacques Speckx (1585–1652), chief of the Dutch factory, he reported, proclaimed that in Asia, “he took the Graue Moris [graf Maurits (1567–1625)] and the Estates of Holland to be as much as the King of England, if not more.”166 Yet Cocks countered, telling Matsura Takanobu that the Dutch were “natural vassals of the King of Spain,” and “in open rebellion cast hym offe,” referring to the Spanish Netherlands. Takanobu should beware, for the Dutch “might breed some alteration in the harts of his owne vasseles to doe as the Hollanders had done,” with wider ramifications, to “make others as themselves are, to the over throwe of the state of Japan.”167 Cocks pursued a dual line: the United Provinces were rightfully part of Catholic Spain, so the Dutch were rebels, and, though this was contradictory, it was England that had secured such independence as the Dutch enjoyed, and so, in a manner, was overlord to them. He informed the Hirado court “that all might heare” how, “the King of England has vassales much greater than the prince (or county [count]) w’ch governs the Hollanders, and that their state or government was under the command of the King of England, he having garrisons of English soldiers in their cheefest fortes, or places of strength they had.”168"
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31-32 "Cocks was drawing attention to the Cautionary Towns, placed under English control as surety for Elizabeth’s enormous loans to the Dutch cause.170 But it was stretching the point to imply that the United Provinces were under English rule in any comprehensive way. Still, on hearing a Dutchman claim “their kinge of Holland to be the greatest kinge in Christendome, and that held all the others under,” Cocks weighed in: “I was not behindhand to tell him hee need not lye so oude, for that they had no kinge at all in Holland, but wer governed by a count, or rather, they governed him,” that is, he was an elected stadtholder, not a king, which to a Japan just emerging from civil war might seem dangerously loose. And Cocks continued, forgetting Spain: “If they had any kinge of which they might boast, it was the Kinge ma’tes of England, who hitherto have been their protector, otherwise they had never bragged of their states.”171 "
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "The dénouement of summer 1616 occurred while Cocks was in Edo; indeed, I have argued here that Cocks’s presence was the trigger. But he sorely overplayed his hand. Cocks’s remarks caused alarm more widespread than he could have intended. As well as banishing the bateren shūmon, Hidetada decided to confine the English and the Dutch.177"
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "Cocks found himself blocked. James’s latest letter, brought on the Thomas or Advice, was refused, ostensibly on the grounds it was addressed to Ieyasu (recently deceased), and Cocks was allowed no audience.178 All the sub-factories were closed, with trade thereafter conducted only from Hirado. Cocks lamented they “might as wel banish vs right out of Japon as bynd vs to such a order.”179 He was informed by Kakuzeamon that it was temporary, until Japan was cleared of priests, after which trade would be reexpanded.180 But no reexpansion came."
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 33, "Hidetada, now free of his father, made large-scale alterations to Ieyasu’s dispensation, not just with reference to international commerce. “[E]very one complayneth,” said Cocks, “that matters aer worse than in the ould mans daies, and that this man doth nothing but change offecers and displace tonos [daimyo].”181 The sequence with which this paper has engaged ended that autumn. The Jesuits were gone, or at least should have been. They were not supine, however; though few in number and living in hiding (as in England), they leaked out damaging facts. They tried to turn the tables over the matter of the United Provinces, pointing out the King of Spain was only troubled there because of English support, and “thenglish were they w’ch gave hem [the Dutch] meanes to stand against their naturall prince.”182"
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 33, "The Matsura agreed to look after the English factory buildings until they returned to Japan again, but the Civil War and Cromwell intervened, and it would be decades before the English came to Japan again.189"
The Dutch and English East India Companies Diplomacy, Trade and Violence in Early Modern Asia, Edited by Adam Clulow and Tristan Mostert, Amsterdam University Press, DOI: 10.2307/j.ctv9hvqf2, ISBN(s): 9789048533381, 97894629832982018, p. 92., "In the end, the bakufu did not accept the English, because they could not rely on their compliance with Tokugawa prohibitions of Christianity. After the Return incident, no European embassies visited Japan for more than a hundred years before the arrival of Adam Laxman from Russia in October 1792."
松方冬子『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』( 中公新書、2010年)
荒野泰典『海禁と鎖国』(荒野泰典、石井正敏、村井章介編『外交と戦争』東京大学出版会、1992年)
大島明秀「「鎖国祖法」という呼称」(『文彩』6号、2010年)
Ronald P. Toby: State and diplpmacy in early modern Japan: Asia in the development of the Tokugawa Bakufu. Princeton University Press, 1984. 論文著者のロナルド・トビは「「鎖国」という外交」(『全集 日本の歴史 9』小学館、2008年) ISBN 978-4096221099、を著している。
大島明秀「近世後期日本における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容」(『洋学』14号、2005年) 1-32
大島明秀『「開国」概念の検討―言説論の視座から―』(『國文研究』55号、2010年)
村井淳志「この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く 「鎖国」研究主流は「鎖国」という言葉を抹殺しつつあるが、本当にそれでよいのか?--「鎖国」研究史を追跡して思うこと」(『社会科教育』46巻9号、2009年) 116-121
『東京新聞』2017年2月17日「こちら特報部」:金沢大の村井淳志教授(歴史教育・社会教育論)は、「鎖国」という言葉の歴史も踏まえ、学校教育で「幕府の対外政策」に完全に言い換えてしまうことの弊害を指摘する。「交易があった事実より、貿易が制限されていたなどを重視すべきだ。幕府が悲壮な決意でポルトガル人追放を決断したことなど、歴史のリアリティーが、言葉とともに流れてしまうとしたら残念だ」