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香港の小説家、ジャーナリスト(1924 - 2018) ウィキペディアから
金庸(きんよう、1924年3月10日 - 2018年10月30日[1][2])は、香港の小説家。香港の『明報』とシンガポールの『新明日報』の創刊者。本名は査良鏞(さ りょうよう、拼音: )。金庸とは筆名であり、本名の「鏞」の字を偏と旁に分けたものである。
浙江省海寧県袁花鎮の出身[3]。明末の文人で反清運動に身を投じた査継佐一族を祖先に持つ。当初は外交官を目指し、中央政治大学(現・台湾の国立政治大学)で外交について学んだが、不正に抗議した舌禍事件が原因で退学を余儀なくされる。その後、杭州の『東南日報』で取材記者や英語の国際放送受信の担当を経た後、蘇州の東呉大学法学院で国際法課程を修習した。
ほどなく金庸は、『大公報』の電気通信翻訳の試験を受けて採用され、香港支社に派遣される。『大公報』の娯楽紙面である『新晩報』が創刊されると、『下午茶座』の編集担当となり、林歓の筆名で映画評論の執筆を行った。
ちょうどその時、大陸では共産党政権の誕生を迎えた。金庸は単身北京に赴き、自分を外交官として採用するように申し出る。しかし、金庸の思想が共産党と相容れないものだったために、この申し出は拒否された。また、父が反動地主として逮捕される事件も発生する。
これによって外交官への夢を完全に諦めた金庸は香港に戻り、記者として復職した。その後、同僚であった梁羽生が武俠小説の執筆を始めた影響もあって、1955年、『新晩報』に第1作である『書剣恩仇録』を発表した。それを皮切りに、武俠小説の執筆を開始し、一躍人気作家となった。1959年には独立して『明報』を創刊する。当初は金庸の武侠小説を毎日読めるという宣伝文句を看板に香港の巷のゴシップ記事や競馬情報などを扱う商業紙であったが、1962年5月に中国大陸の難民が大量に香港に流入した事件を皮切りに中道の新聞へと徐々に脱皮し、香港の外省人に支持される新聞として成長を遂げていく。
以降、『明報』に社説と武俠小説を毎日執筆連載して、人気作家としての地位を不動のものとすると共に、かつて属した『大公報』などの左翼系各紙と、共産党の施政を巡って激烈な論争を繰り広げ、文化大革命勃発時には、その真の目的が劉少奇国家主席打倒にあることを、終末期には当時権力の絶頂にあった林彪の失脚をそれぞれ予言し、政治評論家としての才能も遺憾なく発揮した。1972年には『鹿鼎記』の連載終了と共に、突如作家としての断筆宣言を行って世間を驚かせた。
香港の中国への返還が決まると、香港基本法起草委員会の委員に、中国側の推薦で任命されたが、返還後の香港の政治体制について、金庸が示した方案は、香港の政治的安定を優先させ、中国側の意向に沿ったものだったために、民主派から激しい非難を浴びた。ところが、1989年に天安門事件が発生するや、金庸は抗議して即座に委員を辞し、再び世間を驚かせた。
その後、金庸は『明報』を辞し、持ち株の大半を売って引退した。しかし、引退後もオックスフォード大学の客員教授に選ばれたり、香港特別行政区準備委員会に香港側の委員として参加するなど、その活動は衰えていない。1999年より浙江大学の人文学院長を務めた。2002年には、15作品ある自身の武俠小説の改訂を開始した。
1955年に処女作『書剣恩仇録』の連載を開始して以来、1972年に『鹿鼎記』を最後の作品として断筆するまでに、長編を中心に15作の武俠小説を書き上げた。それらの作品群は、文学的な表現と巧みな展開の物語で、爆発的な人気を引き起こし、香港中国のみならず、台湾や華人の多い東南アジア各国でも広く読まれている。その浸透ぶりは、「中国人がいれば、必ず金庸の小説がある」と言われるほどで、中華圏における民族作家として確固たる地位を確立している。
金庸の武俠小説は動乱の時代を舞台としたものが多く、壮大な歴史背景に、実際の歴史上の人物も多数登場して虚実入り混じった世界を形作り、武俠小説の枠を超えた壮大な歴史叙事文学と呼ぶに相応しいものとなっている。また、作品の中では、民族間の葛藤が描かれることが多いが、それらの関係は伝統的な中華思想によっては捉えられておらず、諸国家・民族が客観的かつ平等に描かれているのが大きな特徴となっている。
武俠小説はそれまで低俗な大衆小説として知識人からは軽蔑される傾向が強かったが、豊かな教養に裏打ちされ、また西洋小説の影響も受けた金庸の作品は知識人の間でも好評を博し、金庸の作品の主題や物語、登場人物を研究する「金学」なる学問まで生まれた。武俠小説を文学としても評価される域にまで引き上げたことで、金庸は、「武俠小説の第一人者」との呼び声も高い。また、作品の多くは映画やドラマ、漫画、ゲームなど様々な媒体に進出して大衆に広く愛され、中華圏における広範な娯楽文化の一翼を担っている。1995年に、現代中国の代表的な作家を選んだ「二十世紀中国文学大師文庫」で、金庸は、魯迅、沈従文、巴金に続く、第4位に置かれている。
金庸は、香港を代表する名士の1人であり、小説の執筆は多彩な活動の一部に過ぎない。
1959年5月20日に創刊した『明報』は中国語圏のみならず、世界的にも影響力を持つ新聞で、金庸は創刊以来、武俠小説の連載と共に社説の執筆も手がけてきた。中国で文化大革命が行われていた時期、金庸は共産党の施策に反対する態度を明らかにし、左派の論客たちと紙上で激しい論戦を繰り広げた。一時は身の危険を感じ、香港を離れたこともあったほどである。
香港の中国返還が決まるや、返還後の香港の政治体制を決める香港基本法起草委員会に、中国側の推薦で選ばれた。一貫して共産党を批判してきた金庸が中国の推薦を得たのは、香港内外でのその影響力が考慮されたことに加え、中国の政治指導者層内部にも、金庸の武俠小説の愛読者が少なくなかったからと言われる。金庸の提出した香港の政治体制についての法案は、現実を直視して香港の政治的安定を優先し、中国の許容範囲内での民主主義と自由を認めるというものだったために、香港では不評で、特に民主派からは総攻撃を浴び、香港の初代行政長官を狙う野心家との非難も出た。だが、1989年に天安門事件が発生すると、即座に中国への抗議声明を発して委員を辞したことで、世間を驚かせた。法案自体は、その後紆余曲折を経たものの基本的には金庸の草案に沿ったものとなっている。
その後、『明報』を辞して引退したものの、各方面での活発な活動を続けており、中華圏において、大きな影響力を持っている人物の1人である。
金庸の業績に対して、相当な数の栄誉、勲章が授与されている。
これら武俠小説作品の題名の頭文字を組み合わせると、次のような対聯になる。
これは金庸が『鹿鼎記』の後書きで披露したものである。『越女剣』はその後に書かれた短編であるために含まれない。
徳間書店は90年代中期に市場調査を行い、その結果金庸が世界で最も売り上げのある作家の一人であることを知った。元々、徳間書店は社長の徳間康快が中国との交流が深く、中国関係の書籍も多数刊行していた。そのため、日本ではまったく無名だった金庸の全ての版権を買い取り、日本語訳の出版を決定。1996年4月、来日した金庸と徳間書店社長(当時)である徳間康快が契約を交わし、1996年に第一弾『書剣恩仇録』が発売された。「金庸武俠小説集」と名付けられたこのシリーズは、2004年3月までにすべて翻訳刊行され、2011年現在、文庫化が進められている。
中華圏(中国大陸、中国香港、台湾、シンガポールなど)で数え切れない程のテレビドラマ、映画、ゲーム、マンガなどが製作されている。
金庸の作品は中華圏で多くの人に読まれており、ほとんどのファンが原作を熟知している。そのため、映像化作品は脚色が求められる傾向にある。しかし、その結果、原作とかけ離れたものに仕上がる場合が多く、そのため金庸自身は映像化作品のほとんどに不満を持っている。時には厳しく抗議するときもある。
映像化作品については、各項目の節、及びCategory:金庸原作のテレビドラマ、Category:金庸原作の映画作品を参照。
金庸の妻は朱玫、二人の間に四人の子を育ていました。
金庸の母の徐禄は徐志摩の父の徐申如の従妹。
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