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遣新羅使
日本が新羅に派遣した使節 ウィキペディアから
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遣新羅使(けんしらぎし)は、日本が新羅に派遣した使節である。特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。
背景・前史
日本(倭国)は4世紀に新羅を「臣民」としたことが「広開土王碑」に見え、451年(元嘉28年)には宋から済が「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」(『宋書』倭国伝)にされるなど、一定の交流関係があったことが推定されている[1]。『日本書紀』によると、6世紀、新羅真興王に伽耶が滅ぼされるなど極度に緊張した日羅関係下にも、新羅から倭国へは任那の調の「朝貢使」や高句麗使の送使などを名目とした使者の派遣があり、倭国からも推古朝の草壁吉士磐金、皇極朝の草壁吉士真跡、高向博士黒麻呂などの新羅への派遣があったことが記録されている[2]。
特に遣新羅使が頻繁に任命されるようになったのは、唐の進出により百済が滅亡し、白村江の戦いにより唐との関係が緊張してからである。このような状況の下、日本と唐は遣唐使を行うなどで関係改善しつつあったが、唐が日本を征伐するという風聞があったこと、668年に高句麗の宝蔵王が唐に投降(唐の高句麗出兵)したことで唐からの圧力が強まったことに危機感を覚えた新羅との利害が一致した。そこで、共同で対抗しようとする動きの一環として交流は頻繁になったとみられる。白村江の戦いにおいて日本と新羅との直接的な戦闘がほとんどなかったことなどから、日本側も受け入れやすかったと推定されている。日本側の目的としては、先進技術の収集のほかに、海外情勢の調査もあったと考えられている。
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経緯
要約
視点
統一新羅からの第1回目の使者・金東厳の帰国に際しては、天智天皇から新羅の文武王に対して船1隻、絹50匹、綿500屯、韋100枚、大角干の金庾信にも内臣の中臣鎌足から船1隻が賜与されており、当時の朝廷の対新羅観を見ることが出来る。このころには新羅への留学僧が帰国後重用され、日本の律令官制の特徴である四等官への新羅官制の影響が認められるなど日羅関係は極めて良好であった。『三国史記』新羅本紀には孝昭王の698年(文武天皇2年)「三月、日本國使至。王引見於崇禮殿。」とあり、これが正しければ702年(大宝2年)の遣唐使より4年早く日本の国号が新羅に伝えられていたことになるが『日本書紀』と『続日本紀』に対応する遣新羅使の記載が無いと思われるため懐疑的な意見がある。文武天皇は703年(大宝3年)、孝昭王の死を知らせた新羅使・金福護を難波の館で饗応し、哀悼を表す詔を下している。
しかし両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。『続日本紀』によれば、735年(天平7年)入京した新羅使は、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した[3]。しかし統一新羅になってからは「遣新羅使」の名称が示すとおり必ずしも日本への朝貢関係をとったとはいえない。このころ、渤海の成立を受け新羅と唐の関係が修復されてきており、渤海も日本へ遣日本使を派遣していることが関係していると見られている。翌736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅へ渡ったが、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった[3]。なお、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。このことから、古くからこの疫病が新羅から持ち込まれたと信じられてきた(『続古事談』巻5・『塵添壒嚢鈔』巻5第23)[4]。
752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、朝貢した[3]。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている[3]。朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている[3]。金泰廉は実際の王子ではないとする研究[5]があり、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していたとも考えられている[6]。
しかし翌753年(天平勝宝5年)には唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる[3]。この年の遣新羅大使は、新羅で「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」(『三国史記』)と王(景徳王)に謁することが出来なかった[3]。
この事件に関しては、唐側が冊封体制の根幹を揺るがす新羅から日本への朝貢の事実を認めることがあるのか(遣唐使自体、唐が日本の朝貢使と認識していた)という問題からそのまま事実として良いか疑問視する研究者もいる。新羅側から見れば、(唐の観点からすれば朝貢国とみなされている)日本が新羅に朝貢を要求している事実を唐側に通報すれば、日唐関係の断絶や唐による日本征討を求めることも可能だからである(ただし、唐が日本を滅ぼす事態になった場合、新羅も自国を唐に包囲される形になる不利益を被るためにそうした手段には出なかったと思われる)[7]。
このような緊張関係のもと、759年(天平宝字3年)には恵美押勝が渤海との連携により軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な新羅遠征計画(藤原仲麻呂の新羅征討計画)を立てたものの、国内政治情勢の変化や渤海側の事情の変化等により中止されている[8]。
『日本後紀』によると、780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。
遣新羅使一覧
統一新羅時代のもの。この一覧は最も一般的な28回説を採用している。698年は半島側の『三国史記』にのみ記載されていると一般に考えられており、これ以前の9回(8回?)の使者は『三国史記』には全く記されていない。
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航路
遣新羅使のとった航路については正史にはほとんど記載がないが、736年(天平8年)の阿倍継麻呂大使の遣新羅使一行の詠んだ歌は万葉集巻十五の大半を占めているため、その行程がある程度分かっている[10]。
一行は難波の津を船出した後、瀬戸内海を進み、途中風早浦(現東広島市)、倉橋島、分間浦(現中津市)などを経由し筑紫舘に到った。その後、韓亭(唐泊、能許亭、現能古島)、引津亭(現糸島市)から狛嶋亭(現神集島)に渡り、壱岐島、浅茅浦、竹敷浦(ともに現対馬市)を経て新羅へと向かっている[10]。
移入された文物
新羅から移入された文物は、前述の金の他にも銀などの金属、高級織物、ラクダ、オウム、クジャクなどの珍しい動物もあった。また、正倉院宝物の鳥毛立女屏風の下張りに使われた『買新羅物解』を根拠に、香料、薬物、顔料、染料、器物、調度なども移入され、そのうち必要品を朝廷が確保した後、余剰品は希望者に払い下げられたとする見解がある[6]。
脚注
参考文献
関連項目
外部サイト
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