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飛鳥時代の貴族 ウィキペディアから
采女 竹羅(うねめ の つくら)は、飛鳥時代の貴族。名は竹良・筑羅・竺羅とも表記される。姓は臣、のち朝臣。位階は小錦下、のち直大肆、直大弐。
采女氏(采女朝臣)は物部氏の一族で、采女の統轄にあたった伴造氏族。もと臣姓。『古事記』中巻には、邇藝速日命の子、宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)が物部連・穂積臣・婇(うねめ)臣の祖であると記されており[1]、『先代旧事本紀』には「大水口宿禰命。穂積臣。采女臣等の祖」としている。『新撰姓氏録』「右京神別」天神には、「石上朝臣同祖、神饒速日命六世孫大水口宿禰之後也」とある。
『書紀』巻第二十九によると、天武天皇10年7月、遣新羅大使に任ぜられ、小使の当麻楯(たいま の たて)らと共に新羅に派遣された[2]。9月に拝朝し、出発の挨拶をした[3]。同じ日に佐伯広足(さえき の ひろたり)が遣高句麗使に任命され、同月に拝朝している。
その後、いつ新羅から帰国したのかは不明だが、同13年2月には、天武天皇の遷都構想に関連して、
とあり、信濃遷都の調査のために信濃国に派遣されたことがわかる。
この直前の記述では、同じ日に広瀬王(ひろせ の おおきみ)・大伴安麻呂(おおとも の やすまろ)及び判官・録事(ふびと)・陰陽師・工匠(たくみ)らが派遣され、畿内に都をつくるべき地を視察している[4]。閏4月に三野王(美努王)らは信濃国の図を進上しており[5]、翌年10月(685年)には、軽部足瀬・高田新家(たかたのにいのみ)・荒田尾麻呂らは信濃に行宮を建造している。
とも記されている[6]。
同13年(684年)八色の姓の制定により、采女臣氏は同年11月に他の52氏と共に朝臣姓に改姓している[7]。
翌年9月(685年)、宮処王・難波王・竹田王・三国友足・県犬養大伴・大伴御行 ・坂合部磐積・多品治 ・中臣大島と共に、天皇から自身の衣と袴とを下賜されている。天皇と博戯(双六などの賭け事)をして遊んだのちの話である[8]。翌日、皇太子以下諸王48人に羆の皮と山羊(やましし=かもしか)の皮が授けられている[9]。
朱鳥元年9月9日(686年)、天皇は崩御され、殯の宮が建てられた。竹羅は内命婦(ひめまえつぎみ=5位(小錦)以上の官位を持つ婦人)の誄(しのびごと)をした[10]。この時の位階は直大肆。
『寧楽遺文』下巻によると、持統天皇3年(689年)12月25日に「采女氏塋域碑」が建立されたという。碑には「飛鳥浄原大朝庭大弁官直大弐采女竹良卿」と記され、そこは形浦山地4000代(約8町、8ha)を造墓所として朝廷に請うた地で、他人がそこで木を切ったり、汚したりすることを禁じる、とある。この碑は河内国石川郡春日村帷子山(現在の大阪府南河内郡太子町)にあり、同村妙見寺に移されたというが、所在不明となっている。
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