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西村 友晴(にしむら ともはる、1908年(明治41年)7月25日 - 1994年(平成6年)11月13日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校卒業(第59期)。第6代海上幕僚長。
福岡県出身。築上中学を経て、海軍兵学校に第58期生として入校するが、生徒時代に体調をこわしたため、第59期として卒業する[1]。1931年(昭和6年)11月、「浅間」に乗艦し遠洋航海に参加。終了後は、巡洋戦艦「霧島」に乗組[2]。その後も海上勤務を重ねるが、1938年(昭和13年)8月、海軍特別陸戦隊中隊長として漢口攻略に従軍。攻略目前で負傷のために戦列を離れる[2]。
太平洋戦争中は、戦艦「長門」副砲長、第三戦隊参謀を経て、1943年(昭和18年)6月、軽巡洋艦「長良」砲術長に着任。同年12月5日、クェゼリン環礁のルオットに向かっていた長良は、マーシャル諸島に来襲した敵機動部隊の艦上機約50機に襲われ、至近弾により搭載魚雷が誘爆し大破、戦死者48名・負傷者112名を出した[3]。クェゼリン環礁内で、工作艦「山霜丸」による応急修理を受けた長良はトラックに入港し、艦長以下の負傷者を病院船「氷川丸」に移乗させ、先任将校となった西村が長良の指揮権を継承した[3]。西村は、大破して艦尾を失っている駆逐艦「長波」を曳航して、長良を内地に回航することを命じられた[3]。長波を曳航すれば速力が低下するため、敵潜水艦が跳梁する中で不可能に近い任務と思われたが、西村は、長良・長波の両艦を内地に回航することに成功した[3]。その後、重巡洋艦「愛宕」砲術長に転じるが、愛宕はレイテ沖海戦に出撃する途中、敵潜水艦の雷撃により沈没。西村は海上を漂流したのち、友軍艦艇に救助されて内地への生還を果たす。終戦を佐世保鎮守府参謀として本土決戦の計画立案中に迎えた。
戦後は復員局で勤務したのち、公職追放を経て、1952年(昭和27年)8月、保安庁警備隊に入隊。第2護衛隊司令(1等海佐)在任中の1955年(昭和30年)5月、日米艦艇貸与協定に基づき供与された掃海艇の受領のためフィリピン・スービック湾に向かった。この受領に係る作業を日本側だけで手際よくこなしアメリカ側を驚嘆させたという。また、この当時は台湾に逃れた中華民国国軍と大陸側の中国人民解放軍とのあいだで金門島・馬祖島を巡り交戦中であった。交戦海域を直接通過する航路ではなかったが、万が一の事態に備えて砲側に実弾を用意し、警戒配備をとりつつ航行し、「いざという時の心構え」を指導したという。
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