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日本の詩人 (1926 - 2006) ウィキペディアから
茨木 のり子(いばらぎ のりこ、本姓・三浦(みうら)、1926年(大正15年)6月12日 - 2006年(平成18年)2月17日)は、日本の詩人、エッセイスト、童話作家、脚本家。
茨木 のり子 (いばらぎ のりこ) | |
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茨木のり子(昭和21年撮影) | |
ペンネーム | 茨木のり子 |
誕生 |
宮崎のり子 結婚後:三浦のり子 1926年6月12日 日本・大阪府大阪市大阪回生病院 |
死没 |
2006年2月17日(79歳没) 日本・東京都西東京市東伏見の自宅 |
墓地 | 山形県鶴岡市浄禅寺 |
職業 | 詩人、エッセイスト、作家 |
言語 | 日本語 |
最終学歴 | 帝国女子医学薬学専門学校卒業 |
活動期間 | 1950年 - 2006年没 |
ジャンル | 詩、エッセイ、童話、脚本 |
代表作 | 『見えない配達夫』『鎮魂歌』『自分の感受性くらい』など |
主な受賞歴 | 読売文学賞(研究・翻訳部門) |
デビュー作 | 「いさましい歌」(『詩学』1950年9月号掲載) |
配偶者 | 三浦安信(1950年 - 1975年)(死別) |
主な詩集に、『見えない配達夫』(1958年)、『鎮魂歌』(1965年)、『自分の感受性くらい』(1977年)、『倚(よ)りかからず』(1999年)など。
1926年6月12日、大阪回生病院で、宮崎洪(ひろし)、勝の長女として生まれる[1]。 1937年12月、母、勝死去。1939年、愛知県立西尾高等女学校(現・西尾高等学校)入学。卒業後上京し、帝国女子医学・薬学・理学専門学校薬学部に入学する[1]。19歳の時に終戦を迎え、1946年9月に同校を繰り上げ卒業する。
1946年夏、帝国劇場で上映されていたシェークスピアの「真夏の夜の夢」を見て感激する[2]。その時、劇場前にあった「読売新聞第1回戯曲募集」の看板を見て、三河木綿発祥の民話を核にした戯曲を書いて応募[2]、佳作に選ばれる[注釈 1]。自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家として評価される。1949年23歳、医師の三浦安信と結婚。埼玉県所沢町(現・所沢市)に移り住む[1]。
家事のかたわら詩誌『詩学』の投稿欄「詩学研究会」に投稿を始める。最初は二篇を投稿し、そのうちの一篇である「いさましい歌」が選者村野四郎に選ばれ、1950年9月号に掲載される。この時初めて茨木のり子のペンネームを使った[1]。
1953年5月に同じ「詩学研究会」に投稿していた川崎洋と共に同人誌「櫂(かい)」を創刊。創刊号は川崎洋・茨木のり子の二人だけの同人誌だったが、二号からは谷川俊太郎、三号から吉野弘、舟岡遊治郎、四号から水尾比呂志が参加し、その後も中江俊夫、友竹辰、大岡信など多数の詩人が参加した[3]。1957年10月解散。
1955年、第一詩集『対話』を不知火社から刊行。 1958年10月、保谷市(現在の西東京市)東伏見に移る[1]。同年11月、『見えない配達夫』飯塚書店から刊行。戦時下の女性の青春を描いた「わたしが一番きれいだったとき」は、多数の国語教科書に掲載されている[4]。
1975年、北里研究所附属病院の医師として働いていた夫が肝臓癌のため死去。
1976年より韓国語を習い始め[6]、韓国現代詩の紹介に尽力する。1991年に『韓国現代詩選』で読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞[7][8]。
1999年10月、73歳、詩集『倚りかからず』筑摩書房から刊行[注釈 2]。
2006年2月17日、くも膜下出血のため東京都西東京市東伏見の自宅で死去[6][注釈 3]。79歳没。遺志により、葬儀、偲ぶ会は行わず、生前に用意された手紙が友人に送られた[6]。 同年4月、鶴岡市加茂の浄禅寺にある夫の眠る墓に埋葬された。2007年、先立った夫への想いを綴った約40編の詩が詩集『歳月』としてまとめられ一周忌に合わせ刊行された。
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