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茂庭台団地(もにわだいだんち)は、宮城県仙台市太白区の生出盆地北側の丘陵上、太白山西方に、県道仙台村田線に沿って広がるニュータウン。かつての大字が茂庭であるため「茂庭団地」と呼ばれていた[1]が、分譲開始に合わせて1982年(昭和57年)から住所が「茂庭台」となった[2]ため、現在の呼称がある。その他に「モニー」「茂庭ニュータウン」とも呼ばれる。
画像外部リンク | |
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茂庭台市民センター「私の町」 | |
茂庭台団地と太白山 |
仙塩広域都市計画において、仙台市が事業主体となって進めた新住宅市街地開発事業は2ヶ所あり、それらは新産業都市指定(1964年)の後に造成された鶴ケ谷団地、および、第三次全国総合開発計画策定(1977年)の後に造成された当団地である[3][4]。鶴ケ谷団地は、国道4号仙台バイパス沿いの東部工業団地および東部流通団地、仙台港の臨海工業地など、第二次産業を中心とする新産業都市「仙台湾地区」に労働力を供給する住宅団地となることを企図して高度経済成長期後半に造成された[5]。当団地も、東北自動車道、仙台空港、仙台港、東北新幹線などの開通・開港や整備拡充により住宅需要が急激に増大すると見込んで[6]、当時の仙台市にとって最も新しい市域であり、尚且つ仙台南ICおよび仙台宮城ICの両者に近い生出地区の茂庭字沼原ほか[2][7]に計画された。
高度経済成長期の仙台都市圏では住宅地やレジャー施設の建設を目的に緑地が伐採され、丘陵地が切り崩されており、「乱開発」と批判されていた[6]。そのため1972年(昭和47年)から翌年にかけて、仙台市・泉市・宮城町・秋保町(以上は現・仙台市域)の各市町が開発指導要綱を定め、無秩序な「乱開発」を抑制しようとした[6]。また仙台市では1973年(昭和48年)3月、「杜の都の環境をつくる条例」を制定し、市民による緑の保護・育成により自然と調和した都市を目指した[8]。このように市が積極的に環境保護を行っていた1973年(昭和48年)11月に茂庭団地計画が発表される[9]と、自然保護や水源涵養保安林維持を求めて反対運動が起り、開発面積は340haから130haに大幅縮小され、1976年(昭和51年)の起工式から約2年後の1978年(昭和53年)に着工に漕ぎ着けた[6]。2度のオイルショック(1973年10月~、1979年初頭~)を経験して安定成長期に入り、新産業都市「仙台湾地区」の工業集積も停滞することになるが、人口流入が続く支店経済都市・仙台市において、結果的に第三次産業を中心とする仙台市都心部に労働力を供給する住宅地となった。
当団地の開発テーマは「21世紀のふるさとづくり」である[1]。これは、故郷を出て仙台に移住して来た新市民が、約四半世紀後に訪れる21世紀に同団地を自らの故郷と認識して住み続けているような地域づくりを企図しているが、そのために当団地では住宅用地を全敷地の36.7%に留め、約40%を道路・教育施設・公園等に当て、さらに「杜の都・仙台」を体現するように22.7%は緑地によって占められている[1]。また、ブロック塀倒壊が問題になった宮城県沖地震発生後に分譲が開始された住宅団地であるため、生垣も多くなっている。
分譲時期が仙台市の政令指定都市移行期やバブル景気期と重なっており、市職員による当地への入居勧誘において、仙台市営モノレール南西線が1995年(平成7年)に着工して、2000年(平成12年)、2001年(平成13年)ごろには当団地まで開通し、仙台駅まで二十数分で行けるようになるとの説明もしていた。このモノレール計画が住民増をもたらし、仙台市立茂庭台小学校の児童数も1985年(昭和60年)の開校当初の約250人から1000人を突破するまでに膨らんだため、茂庭台内に2番目の小学校用地も確保された[10]。しかし、同路線計画は白紙撤回され、2番目の小学校も設置されなかった。
いずれも仙台都市圏環状自動車専用道路(ぐるっ都・仙台)内にあるIC。
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