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日本のプロレスラー・実業家、元大相撲力士 ウィキペディアから
維新力 浩司 (いしんりき こうじ、本名:飯橋 浩司(いいはし こうじ)、1961年1月24日 - )は、日本の元男性プロレスラー、日本の元大相撲力士、飲食店経営者。血液型A型。リングネームは維新力(いしんりき)。東京都杉並区出身。
相撲の経験は小学校と中学校時代を通じて地域の祭で開催される相撲大会に出場する程度だったが、兄の影響で格闘技が大好きなため、プロレスラーよりも体格に関する条件が緩かった大相撲力士を志した。高鐵山を尊敬していたということと、大きな部屋だと「君のような小さな人は行司か床山になりなさい」と言われる恐れがあると考えた[1]ことから、弟子が2人しかいなかった[1]高鐵山が率いる大鳴戸部屋に入門。
1976年3月場所で初土俵。初めの四股名は若高鉄。後に四股名を「維新軍の長州力」にちなんだ現在の名に改名。明らかにプロレス入りを予感させるもので、後に実際にプロレス入りしたが、現役当時、長州や維新軍と会ったことはない。
相撲取りらしからぬ腹筋のある体格と、山下真司そっくりの端正な顔立ち、元気溢れる勇敢な取り組みで、十両では若花田、貴花田と並び立つ屈指の人気を博した。体重が100キロに満たない小兵力士の中でも一際体重が軽く、80キロ台で関取まで出世したのは特筆される実績であるが上位には通用せず、1989年11月場所で西十両筆頭まで昇進したものの、幕内までは届かなかった。1990年3月場所では、8日目に曙を突き落とし、10日目に若花田を上手投げで土俵下に投げ飛ばすなど後の横綱から豪快な内容で白星をあげている。この間の9日目には貴花田と対戦、内容的には勝っていたものの髷掴みの反則を取られて敗れた。同年7月場所に東十両11枚目で2勝13敗と大幅に負け越し、幕下転落が確実となったため、この場所限りで廃業。十両での通算成績は141勝159敗。十両在位は20場所と当時の年寄襲名の最低条件(十両連続在位20場所以上)も満たしており、本人にも年寄襲名の意欲はあった[1]。また、師匠の大鳴戸も将来的には養子にし、部屋を譲る意向があったとも伝えられたが、引退時にまだ29歳と若く自分を賭けてみたい気持ちがあったこと[1]や、廃業前に大鳴戸から部屋継承のために提示された金銭的な条件に不満を感じたことなどから、廃業を選んだ。
相撲廃業後、すぐにプロレスラーへ転向。兄(後述)の所属する全日本プロレスと敵対すると同時に最も資金力のあったSWSに入団した。入団まもなくアメリカへ海外武者修行に出発、1991年1月25日、テキサス州ダラスで対ジェフ・ジャレット戦でプロレスデビューした。帰国後は大物であり角界の大先輩である天龍源一郎とは別の部屋(「道場・檄」)に加わった。SWSではメインにも起用される事もあり、新鋭として期待されたが、水腎症を理由に1992年に引退を表明した。 しかしSWSはほどなくして崩壊し、「道場・檄」「パライストラ」派の後継団体として設立したNOWでカムバックする。NOWでは上田馬之助との抗争から「AGAマッチ」(通称:「出刃包丁マッチ」)を展開するなど、団体の中心選手として活動したが、NOWの活動停止を経て、天龍が設立したWARへ移籍。その後、内臓疾患によりプロレスラーを引退した。
1994年6月、WARが提携していたLLPW所属の穂積詩子と結婚。同年には東京・吉祥寺に「どりんくばぁー『維新力の店』」を開業した。2024年現在も営業中。
店を続けながら、後にプロレス界に復帰。2006年以降、維新力主催プロモーション『どすこいプロレス』『RIKIマニア』の開催に携わる一方、50歳を越えてからもフリーとしてI.W.A.JAPAN・WAP・アジアンプロレスに参戦する。
2022年10月2日、新宿FACEで引退興行を開催し『どすこいプロレス』の代名詞ともいえる男女混合タッグマッチを最後に。46年間に渡る格闘技人生に終止符を打った[2]。自主興行時の最後の締めは「1(ひい)2(ふう)3(みい)どすこい!」であった。
2024年10月27日、どすこいプロレスの4WAY エキシビション初っ切りマッチに出場[3]。アントニオ小猪木、ランジェリー武藤、女子プロレスラーのまなせゆうなと対戦した。
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1976年 (昭和51年) |
x | (前相撲) | 東序ノ口18枚目 4–3 |
東序二段94枚目 5–2 |
東序二段54枚目 2–5 |
東序二段79枚目 4–3 |
1977年 (昭和52年) |
東序二段51枚目 2–5 |
西序二段78枚目 5–2 |
西序二段24枚目 3–4 |
東序二段36枚目 3–4 |
東序二段53枚目 4–3 |
東序二段31枚目 4–3 |
1978年 (昭和53年) |
東序二段16枚目 5–2 |
西三段目66枚目 2–5 |
東序二段2枚目 5–2 |
東三段目61枚目 3–4 |
東三段目77枚目 4–3 |
西三段目59枚目 3–4 |
1979年 (昭和54年) |
東三段目70枚目 5–2 |
東三段目43枚目 4–3 |
西三段目29枚目 4–3 |
西三段目17枚目 2–5 |
東三段目41枚目 4–3 |
西三段目24枚目 3–4 |
1980年 (昭和55年) |
西三段目36枚目 5–2 |
西三段目8枚目 4–3 |
西幕下57枚目 4–3 |
西幕下49枚目 2–5 |
西三段目15枚目 4–3 |
東三段目筆頭 4–3 |
1981年 (昭和56年) |
東幕下46枚目 5–2 |
西幕下29枚目 2–5 |
西幕下45枚目 5–2 |
西幕下24枚目 2–5 |
東幕下44枚目 5–2 |
東幕下28枚目 4–3 |
1982年 (昭和57年) |
東幕下17枚目 3–4 |
西幕下22枚目 3–4 |
東幕下34枚目 3–4 |
東幕下50枚目 3–4 |
東三段目7枚目 6–1 |
西幕下33枚目 4–3 |
1983年 (昭和58年) |
西幕下27枚目 3–4 |
東幕下40枚目 6–1 |
東幕下15枚目 3–4 |
東幕下22枚目 2–5 |
東幕下40枚目 5–2 |
東幕下24枚目 3–4 |
1984年 (昭和59年) |
東幕下33枚目 4–3 |
東幕下25枚目 2–5 |
西幕下45枚目 3–4 |
西幕下56枚目 5–2 |
東幕下32枚目 4–3 |
東幕下24枚目 5–2 |
1985年 (昭和60年) |
西幕下12枚目 4–3 |
西幕下6枚目 4–3 |
西幕下4枚目 2–5 |
西幕下17枚目 4–3 |
東幕下13枚目 5–2 |
東幕下8枚目 4–3 |
1986年 (昭和61年) |
西幕下3枚目 1–6 |
西幕下29枚目 5–2 |
東幕下18枚目 3–4 |
東幕下27枚目 3–4 |
西幕下37枚目 6–1 |
東幕下17枚目 5–2 |
1987年 (昭和62年) |
西幕下7枚目 4–3 |
西幕下4枚目 6–1 |
東十両10枚目 9–6 |
東十両7枚目 7–8 |
東十両10枚目 7–8 |
西十両11枚目 8–7 |
1988年 (昭和63年) |
東十両9枚目 9–6 |
西十両5枚目 6–9 |
東十両10枚目 8–7 |
東十両7枚目 8–7 |
東十両6枚目 8–7 |
西十両2枚目 5–10 |
1989年 (平成元年) |
東十両8枚目 8–7 |
東十両5枚目 5–10 |
東十両12枚目 10–5 |
西十両5枚目 6–9 |
西十両8枚目 10–5 |
西十両筆頭 5–10 |
1990年 (平成2年) |
東十両6枚目 6–9 |
東十両10枚目 8–7 |
西十両7枚目 6–9 |
東十両11枚目 引退 2–13–0 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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