紋別港
北海道紋別市にある港湾 ウィキペディアから
北海道紋別市にある港湾 ウィキペディアから
紋別港はオホーツク海沿岸のほぼ中央部に位置し、北部には自然岩礁の弁天岬、後背地には北西からの風を防ぐ紋別山(大山)などの山々が連なっており[2]、古くから漁業基地として利用していた。戦後の港湾整備により、現在では紋別市や遠軽町を中心とする遠紋地区や上川北部の物流拠点港、沖合漁業や沿岸漁業の基地としての役割がある[3]。また、親水防波堤(クリオネプロムナード)に氷海展望塔(オホーツクタワー)があるほか[4]、人工海水浴場(オホーツクホワイトビーチ)などを整備しており、市民の憩い場や流氷を観光する拠点[5]、『もんべつ流氷まつり』や『遊びたガリヤフェスティバル』、『もんべつ海産まつり』などの各種イベント会場になっている[3]。
外郭施設
係留施設
荷さばき保管施設
紋別港は、江戸時代の貞享年間に松前藩が現在の紋別の漁場を「ソウヤ場所」の一部として開設したことが始まりとされているが[2]、記録に残っているのは1801年(享和元年)に磯谷則吉が著した『蝦夷道中記』である[2]。1846年(弘化3年)に松浦武四郎が紋別を訪れた際には、東向きの浜に岬が湾を作っており、波浪が静かで船の停泊に適していると記録している[6]。1871年(明治4年)に松本十郎が訪れた後には紋別港築港の論旨を発表しているが[3]、当時は沖に向かって12〜13丁(約1,300〜1,400 m)に渡って暗礁があり、不案内な船は座礁する恐れがあった[7]。1876年(明治9年)には紋別に郵便局が設けられたことに伴って定期郵便船の寄港地になり、小樽港や函館港、根室港などと航路で結ばれた。ところが、暗礁のため和船は岸から200〜300 m、汽船は1,300〜1,400 m離れた沖合いに停泊する必要があったため大型船の入港が困難であることに加え、冬季は流氷のために航海することができなかった。紋別周辺のオホーツク海沿岸部には緊急時の避難港がなかった事もあり、1906年(明治39年)には紋別築港の運動が起こった。1922年(大正11年)9月29日には暴風雨によってオホーツク海で出漁中であった漁船350隻のうち100隻以上が転覆し、漁師260名が死亡するという大惨事になった[8]。翌年から南北の防波堤などの港湾建設に着手して1930年度(昭和5年度)に完成し、1931年(昭和6年)には北防波堤灯台を設置した[2]。港湾整備によって船舶が大幅に増加し、終戦まで北九州や北千島と本州を結ぶ物資の中継港としての役割を担っていた[2]。
戦後は漁業規模拡大や商港としての機能拡大を図るために港湾の改修と拡大に着手し、「地方港湾」として整備推進していった[2]。1955年(昭和30年)の北洋漁業再開後は、中継基地として紋別港にカムチャツカ独航船(仲積船)が寄港するようになり、船入澗や防波堤の増設工事などに着手した[9]。1975年(昭和50年)までには現在の第1ふ頭を含む港町地区の整備をほぼ終えて水深7.5 mの岸壁が完成し、「重要港湾」に昇格した[2]。翌年からは新港町地区(現在の第2ふ頭)の整備に着手している[2]。さらに、紋別市は流氷の開発や利用を掲げて「流氷都市拠点地域」を標榜しており、港南地区において各種施設や空間の整備を行った[2]。
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