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童子切

台東区にある国宝(美術品) ウィキペディアから

童子切
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童子切(どうじぎり)は、平安時代伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀太刀)。童子切安綱(どうじぎりやすつな)とも呼ばれる。日本国宝に指定されている。

概要 童子切, 指定情報 ...

概要

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目釘孔の上、棟寄りに「安綱」二字銘がある

国宝指定名称は「太刀 銘安綱(名物童子切安綱)」で、附として「糸巻太刀、梨子地葵紋散太刀箱」も指定されている[3]

天下五剣の一つで、わが国の代表的な刀剣の一口とされる[4]大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされている[5]

清和源氏の嫡流である源頼光丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で斬り落としたという伝承から「童子切」の名がついた。享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には、「名物 童子切」として由来と共に記載されている[6]

酒呑童子説話は、応永27年(1420年)の『物語目録』に「酒天童子物語一帖」と見えるのが最古の確実な記録であり、14世紀にはすでに祖本が成立していたと考えられている[7]

作風

刀身:鎬造、庵棟、小鋒つまり腰反り踏張りあり。側肉豊かにつき、鍛えは小板目地沸厚く、沸映り乱れ立ち、地景入る。刃文は小乱れ、足入り、金筋かかり、区上で焼落とす。帽子は乱れて小丸ごころとなり、強く掃きかけて替える。茎生ぶ、先栗尻、鑢目切、目釘孔一、目釘孔上棟寄りに銘を切る[8]

外装:総長109.1 柄長24.8 鞘長84.6 鐔縦7.85 鐔横7.8(cm)[9]。金梨子地蒔絵、赤銅魚子地に桐紋散しの総金具のついた糸巻太刀拵えがあり、総体に肉のよくしまった桃山時代の製作である[10]。茶糸巻の柄、紺地金襴の帯取、太刀の緒は亀甲打で、渡巻の芯には「昭和二十二年十二月補修、道明新兵衛」と墨書されている[11]。太刀箱は金梨子地に葵紋を蒔絵した豪華なもので江戸初期の製作と思はれる[12]

伝来

要約
視点

伝承

源流

鎌倉時代後期に成立した日本最古の刀剣書『観智院本銘尽』には、伯耆国の刀工・安綱の代表の作例として、田村利仁将軍が越前国の気比神宮に進献した太刀が記されている。この太刀は錆びたことがないとされ、不適格な持ち主を拒む力を有すると伝えられ、「そは矢の剣」と称される[13]

重要文化財『観智院本銘尽』国立国会図書館蔵, 1316年頃成立、1423年写

日本国釼冶銘

安綱 伯耆国小原安綱ト書ク、彼太刀刀ハ利人(仁)将軍ヨリ越前国有社寺次就、未さひ(錆)すと飛剣と云、主をきらふと云云[14]

一条院御宇

安綱 か(彼)の作の太刀ゑちせん(越前)の国きい(気比)の社にとしひとの(利仁)しやうくん(将軍)これを進候[15]

伯耆国鍛冶次第不同

安綱 田村将軍そは矢の釼作上手也[16]

平安時代以降、坂上田村麻呂藤原利仁は各地の寺社縁起や伝説において習合し、同一の征夷将軍として描かれることが多くなった。藤原利仁は延喜十五年(915年)に鎮守府将軍となり、下野国で群盗を討ったと伝えられる実在の武将でもある。その出自は越前に深く、敦賀の豪族・藤原有仁の娘婿でもあったことから[17]、「そは矢の剣」の伝承が生まれる背景となった可能性がある。

『観智院本銘尽』における「そは矢の剣」の「矢」が漢字で記される点から、刀剣史考古学者の石井昌国は「そは矢」を「征矢」の古音とみなし、「征矢の剣」は将軍出征に際し天皇から下賜される節刀で、坂上宝剣に仮託された刀剣と推定する[18]。後世の仮名転写から再び漢字に改められた表記としては、「ソハヤノツルギ騒速剣、楚葉矢の剣、楚波也の剣、素早の剣、素早丸、草早丸」などがある[19][20]

成立

南北朝から室町時代にかけて成立した軍記物語『太平記』では、敦賀の気比神宮に伝わる信仰の太刀「そは矢の剣」の由緒が、源頼光を神話化した頼光物語と結び付けられ、「鬼切」という一刀の物語として構成された。作中において気比神宮の社家は、敦賀津に築城して朝廷方に与し、新田義貞父子(七千余騎)を迎え入れて兵站と宿営を分担したとされる。さらに気比弥三郎大夫は三百余騎を率いて東宮・一宮らを先に金崎城へ導き、以後も在地の在家を割り当てて補給を整える。合戦が長期化すると、気比大宮司太郎や弥三郎大夫は社家の兵を率いて海浜での衝陣にまで参加し、落城の段では大宮司が自ら小舟を操って東宮を蕪木浦へ脱出させ、その任を果たしたのち自害、弥三郎大夫も東宮に殉じたと記される[21]

『太平記』本文には、新田義貞が累代の重宝とされた「鬼切」を日吉大社に奉納した記事(「立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事」[22])が見えるのに対し、のちの巻では義貞の戦死場面に再び「鬼切」が佩刀として登場し敵方に奪われたと叙述される(「義貞自害事」[23]「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」[24])。両記事のあいだに記述上の整合は設けられず、奉納の経緯があるまま叙述が進むため、物語内では金崎周辺で展開する社家の行動線と「そは矢の剣」の由緒が、そのまま「鬼切」側の語りへ取り込まれていく。この処理により、作中の「鬼切」は(奉納品として登場する前半の刀と、戦死場面の佩刀として扱われる後半の刀という)二重の出現を示し、前後の連続性は語られない。結果として、本来は気比神宮に伝わる「そは矢の剣」の由緒が「鬼切」の物語に取り込まれ、源氏重宝として権威づけるための背景とされ、その刀号は姿を消した。

かつて伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱という鍛冶が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂にこれを奉じたものだという。田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合わせした太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したという。

源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された。

大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下のに妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。

そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになったという。『太平記』より大意

また、『太平記』では新田義貞が藤島で奮戦し戦死した際、佩刀として「鬼切」と「鬼丸」の二刀を帯びていたと記される[23]

変遷

室町時代東山文化を代表する同朋衆である能阿弥(1397-1471)は、越前朝倉氏の家臣を経て幕府に出仕し、連歌や絵画のみならず茶道・香道に至る諸芸に通じた当時第一級の文化人で、刀剣の目利きにも通じていたとされる。彼が編んだとされる『能阿弥本銘尽』は現存直筆本を欠くが、最古の伝本は文明15年(1483)本とされ、のちに多様な写本系統を派生させた[25][26]

『能阿弥本銘尽』は、気比神宮に伝わる「そは矢の剣」の由緒に、『太平記』にみえる鬼切の説話を接合し、さらに当時すでに流布していた酒天童子物語の要素を史料上確認できる限り最初に取り入れることで、鬼切という物語へと再構築し、これにより「源頼光が酒天童子を切った太刀」としての叙述が成立した。

『能阿弥本銘尽』文明十五年(1483)写
安綱 田村将軍伊勢太神宮ニ奉納リケルニ、頼光夢想ニヨリテ是ヲ給リ、酒天童子ト云鬼ヲ切太刀也[27]

天正十二年(1584)写本
安綱 嵯峨天皇御宇、大銅比、安字小字之大原太郎大夫ト云、此作太刀越前住社へ利仁将軍ヨリ奉川瀧流立年経迄共少モサヒス、同作太刀田村将軍伊勢大神へ篭奉給頼光夢想ヨリ是ノ給、丹波国大江山ニテ酒天童子ト云鬼ヲ切、中子ミ子丸シ[28]

内閣文庫の田使本にも同内容の記事があり[29]
現代語訳:安綱の銘文の「安」の字がやや小さく刻まれていること、この太刀が藤原利仁将軍によって越前国気比神宮に奉納されたこと、長年にわたり川滝に立てかけても錆びなかったという伝説が記されている。同作の太刀は田村将軍が伊勢大神宮に奉納し、のちに頼光が夢想によってこれを賜り、丹波国大江山で酒天童子という鬼を切った。茎先の形状は栗尻とされる。

能阿弥はもと越前朝倉氏の家臣であり、その『能阿弥本銘尽』に記された安綱の叙述は、当時朝倉氏が所持していた太刀に基づく可能性が高く、酒天童子切としての由緒が、この太刀に特有のものとして記されている。この叙述と、のちに最上家の鬼切丸との間に、史料上の連関は確認されない。『能阿弥本銘尽』は室町中期以降、刀剣伝書として広く伝写され、後世の名物帳や銘鑑類にも大きな影響を及ぼした[30][31][32][33][34][35]。その結果、伯耆安綱の代表作に対する印象は「そは矢の剣」「鬼切」から、やがて「酒天童子切」へと移行し、当該太刀は後世「童子切」と称されるようになった。これは時代的推移のなかで自然に生じた名称変遷であり、最上義光館に唱えられた豊臣秀吉による創作的な名物とする説には根拠を欠く[36]

現存する酒天童子物語に関連する最古の史料とみられるのが、延応元年(1239年)の追加法に収められた「鈴鹿山并大江山悪賊事」である。これは近辺の地頭に対して鈴鹿山大江山に拠る賊徒の鎮圧を命じたもので、のちに酒天童子および田村利仁鈴鹿御前の伝承が生まれる背景となった可能性がある[37][38][39]

佐藤進一, 池内義資, 百瀬今朝雄 編『中世法制史料集』追加法 第118, 岩波書店, 1955 〔侍所沙汰篇〕
一 鈴鹿山并大江山悪賊事、為近辺地頭之沙汰、可令相鎭也、若難停止者、改補其仁、可有静謐計也、以此趣相觸便宜地頭等、可被申散狀者、依仰執達如件、
延応元年七月廿六日
        前武藏守  泰時
        修理權大夫 時房

酒天童子物語の現存最古級の絵巻は、逸翁美術館所蔵の香取本『大江山絵詞』[40]で、もと坂東武士・千葉氏一族の大須賀氏伝来の二巻本。制作は14–15世紀頃と推定され、とくに千葉氏胤(1337–1365)期の作とみる見解が有力である[41]。氏胤は新田義貞の娘を室とし、先祖も義貞に属して奮戦した[42][43]。なお、同本は上巻第二図の詞書が欠失しており、源頼光が用いた刀名は記されていない。

これに次ぐ古本として、サントリー美術館所蔵の古法眼本『酒伝童子絵巻』[44]があり、近衛尚通の主導のもと、定法寺公助・青蓮院尊鎮が分撰し、狩野元信が描いた三巻本で、成立は大永二年(1522年)とされる[45]。下巻第十九段の詞書には「頼光は、(中略)二尺八寸有ける、血すいと云、つるきをそもち給ふ」とあり、刀工名の明記はない[46]。また上巻第四段の詞書に「綱は、(中略)鬼切といふ打刀、二尺にあまりたるを、入られたり」とあるが、こちらも刀工名は記されていない[47]

この「血すい」は、古剣書では「血吸」「血噇丸[48]」「血喠丸[49]」の漢字表記がみられる。最古の古剣書とされる『観智院本銘尽』には、舞草派の刀工・瓦安(のちに「雄安、焳安」とも表記)作と記されており、伯耆安綱作ではない[50]。また同書には刀号以外の物語は記されておらず、これは『観智院本銘尽』の成立期(1316年頃)には酒天童子物語がまだ確立していなかったためである。刀工瓦安には在銘遺例が皆無で、その名は古剣書にのみ見える。そのため江戸時代前期に成立し、慶應義塾大学本『しゆてんとうし』絵巻では、この「血すい」に加筆が施され、坂上田村麻呂が鈴鹿御前との戦いに用いたのち伊勢神宮に奉納し、その後に源頼光が参宮した際に夢中での託宣により下賜されたとし、刀工を安綱と表記している[51]。これは『能阿弥本銘尽』以降の古剣書に基づく影響と考えられている。さらに時代が下り、江戸時代中期に成立した古剣書には、血吸の刀工を安綱とする記載が現れるようになった[52]

『御伽草子』や絵巻物、謡曲『大江山』などに伝わる諸本はいずれも江戸時代以降の改筆に属し、美術・文学史の資料としては重要な価値を持つ。しかし刀剣伝来の根拠は本来古剣書に求められるべきであり、能阿弥以降の伝承を越えて童子切に附会すべき「原典」とみなすことは適当ではない。

来歴

本刀は室町時代には足利将軍家が所蔵していたとされておる[53][54]

『後鑑 巻三百四 義晴將軍記 十八』天文七年七月二日条

七月大二日。葵酉 朝倉宗淳謝御相伴衆献物。仍給御書於彼父子。被下御剣。
御内書案云。七月一日。越前朝倉入道方へ之御内書可致調進由。以左衛門佐晴光被仰下候間如此。日付明日二日仰云々。(中略)
太刀一腰(鬼切)到来、名剣無比類候、尤神妙。仍太刀一振(正恒)遣之。猶晴光可申候也。
七月二日      御判
朝倉弾正左衛門入道どのへ

現代語訳:天文七年(1538年)七月二日、越前大名・朝倉孝景(法号:宗淳)が足利義晴将軍(第12代)へ献上品を進めた。将軍は返礼として太刀(正恒作)を下賜すると共に、献上された「鬼切」太刀について「並ぶもののない名剣で、実に見事なものである」と高く評価している。

新田義貞の戦死地である越前国・藤島は、南北朝時代以降、朝倉家の支配下にあった。

一方、北野天満宮所蔵の「鬼切丸」は、最上家の伝承によれば、延文元年(1356年)に斯波家から出羽の最上兼頼へと伝わったという[55]。この伝承が正確であるとすれば、天文七年(1538年)に足利義晴へ献上された「鬼切」とは、年代的にも経路的にも異なる太刀である可能性が高い。

その後、足利将軍家の政所執事であった摂津晴門(摂津掃部)が、鬼切を含む将軍家の財物を管理していた可能性が指摘されている[56][57]。摂津晴門は永禄七年(1564年)に政所執事に就任し、足利義輝義昭両代の元服奉行を務めた[58]

江戸時代の天和二年(1682年)には、摂津晴門の四代後にあたる子孫、摂津順乗が、越後守・松平光長の家臣として、幕府に対して本刀の返還を求めたことが記録されている[59]

葛巻昌興 著,『葛巻昌興日記』

天和二年八月二十一日条
先比御書物奉行不破小左衛門取次を以越後罕人摂津順乘ト申者、京都将軍家ニ仕候摂津掃部末葉之旨ニテ代々ノ口宣且又将軍家御判之物等數通所持候、又号鬼切太刀安綱伝来之旨にて何茂入御披見之処被逐御一覽以後皆以被返下之云々、順乘元は越後守殿使番役相勤之云々

現代語訳:越後騒動の後、摂津順乗は代々将軍家より下賜された文書や御判物、さらに「鬼切」太刀の伝来を証する文書を所持し、これらを呈示して幕府に訴えたが、いずれも受理されずに退けられた。

また、『白石先生紳書』によれば、松平忠直の正室・勝姫(徳川秀忠娘)が越前松平家へ輿入れした際、守り刀として「童子切」を持参したと伝わる[60]

江戸時代以前の史料においては「童子切」という刀号は見られず、「鬼切」の呼称のみが用いられている。本刀が「鬼切」から「童子切」へと改称された時期については定説がなく、一般には『享保名物帳』(1719年頃)で改称されたとする説が知られている[61]。しかし、これに先行する用例として、松平家伝来期の白鞘書に「童子切 弐尺六寸五分」との記載が確認されており(筆致は女筆で「高田様御筆なるにや」との所見)[62]、また『越後頸城郡高田御城請取之記』にも「童子切安綱刀 太刀拵一通リ有」との記載が見える[63]。以上から、「童子切」の呼称は享保以前に松平家伝来の段階で既に用いられていたことが確認できる。

文化庁および東京国立博物館の解説では、「豊臣秀吉が所持し、徳川家康秀忠を経て越前藩松平忠直に贈られた」[64][65][66]と伝えるが、この伝来経路を裏付ける同時代の一次史料は確認されていない。

江戸時代後期の津山松平家家譜および童子切の刀箱に付された伝来書一通には、天正十二年(1584年)に徳川家康結城秀康へ贈り、のち松平忠直に相続されたと記されているが[67][68]、これを裏付ける同時代の一次史料は確認されていない。

『御伝来推考』には、「天正18年(1590年)8月、結城秀康が結城に来て婚姻を調える際、結城晴朝が家宝の安綱作太刀を秀康に授けた」との旨が記されているが[69]、これを裏付ける同時代の一次史料は確認されていない。

延宝8年(1680年)5月、越後騒動により松平光長は改易・流罪となり[70][71]、家財・什器・宝物類は一切が徳川将軍家により押収された[72]。翌延宝9年(1681年)7月26日には高田城の引き渡しが完了し、天和元年(1681年)10月には城内に残されていた諸道具の目録『越後高田御本城広間幷三階櫓御道具帳』および『本丸ニテ名物之御道具共改請取帳』が作成された[73]。童子切もこの時に将軍家の管理下に移ったと見られる。

その時期、町田長太夫という試し斬りの名人が、六人の罪人の死体を積み重ねて童子切を振り下ろしたところ、六つの死体を切断したのみならず、刃は土壇にまで切り入ったと記録されている[74]。刀剣史研究家・福永酔剣は、この町田長太夫を幕府御試御用を務めた松本長太夫の本名と推定し、同人は鵜飼十郎右衛門と同時期に活動した、江戸初期の試斬名人山野勘十郎久英の弟子であったと述べている[75]。ほかには、この試し斬りは元禄年間津山藩成立以降の出来事という説もあるが、津山松平家の台帳や家譜に記事は見えず、それを示す同時代資料も確認されない。

その後、松平光長の家財は有栖川高松宮第二王女(高琳宮)の家臣によって接収された[76]

貞享4年(1687)頃、松平光長の流罪中に童子切は長らく手入れされず、刀身に胡麻を散らしたような錆(胡麻錆)が生じたとされる。このため、本阿弥家に送られ研磨が行われた[77]

享保年間、徳川幕府8代将軍徳川吉宗の命により本阿弥家が編纂した『享保名物帳』にも童子切が収録されている。同書では、この太刀が本阿弥家に持ち込まれた当日の朝、江戸神田の筋違橋付近から上野・谷中方面へ多くの狐が移動し、人々は童子切が来たためだと噂したと伝えている。

松平越後守殿 童子切安綱 銘有 長さ弐尺六寸五分 不知代

丹州大江山に住す通力自在之山賊を頼光公此太刀にて討し故と申伝也。秀忠公御物。
高田様越前へ御入輿の刻三位宰相忠直卿へ被進、御長男光長卿へ御伝へ也。極上々之出来、常の安綱に似たる物にあらず。石田と一所に一覧申、格別に正宗をとりたり、同苗一同に同意也。広小路三郎兵衛宅へ来る日朝より筋違橋辺よリ狐多く出て上野谷中道に行と、考に右童子切来りける故かと申也[78][79]

昔ノ名剱御所ノ剱
鬼切 摂津守頼光之太刀也、大和国字多郡に大森有、爰にて源に綱牛鬼の手を切る。其後信濃国とかくし山にて鬼を切るとあり、乍去とかくし山鬼のことは日本紀にも無之。伯耆国会見郡大原五郎大夫安綱と申、元桓武天皇時代田村将軍之太刀也、伊勢参宮の時夢の告有て太神宮御所望に依り上る。其後頼光の参詣之時又御夢想有て頼光に被下之。源氏重代となる、童子切の事なり[80][81]

諸家名剣集
伯耆 松平越後守イ越前守
童子切安綱  二尺五寸八分 無代 有銘

酒顛童子ト申賊酋を源頼光公御討取成候故名付、誠ニ天下出群之名刀ニ而右五振之内也[82]

貞享4年(1687年)10月24日、幕府は松平光長の罪を宥免し、官位・旧禄三万俵を復し、12月25日には老中や親族の松平直矩に伴われて登城、徳川綱吉に謁見した。罪は解かれたものの、配流先での厳しい生活による病が重く、以後は政務に復帰せず江戸で余生を送った。宝永4年、母・勝姫の旧邸である高田邸にて93歳で没した。元禄11年(1698年)1月14日、養子の松平宣富が津山藩10万石に封ぜられ立藩[83]

松平光長には幼少時の逸話が伝わる。夜な夜なうなされ泣くため、御殿医に診せたところ疳の虫と診断され、祈祷や薬も効き目がなかった。困り果てた側近が「童子切を枕元に置いては」と進言し、試したところ、その晩から夜泣きが止んだという。この話は後に「童子切は狐憑きも治す」との俗信にまで広がった。また、童子切が本阿弥六郎右衛門方に預けられていた頃、近隣で火災が発生し延焼の危険が迫った。すると、本阿弥家の奥の間と思しき屋根の上に白狐が一匹現れ、苦悶するかのように転げ回り、その声もまた悲しげであった。人々は火事そのものよりもこの異変に驚き、狐を指さして奇異の思いをなしたという。そこで家人が「童子切の御剣をいまだ持ち出していないため、その精霊が仮の姿を現し、人々に知らせているのだろう」と気づき、火の粉を避けて刀を捧げ出したところ、白狐の姿は跡形もなく消えた。これにより、「剣の霊妙は昔も今も変わらぬ」と世に讃えられたと伝わる。この逸話は『享保名物帳』に記された本阿弥三郎兵衛本家(本阿弥光忠)での出来事とは異なり、本阿弥六郎右衛門(本阿弥光常)の分家での出来事とされる[84]

村山平学『御寶剱 御拝領 御由緒 三品御腰物帳』, 愛山文庫, 津山郷土博物館蔵, 1812, p.1、附録

一、童子切 一名鬼切 安綱御太刀 長サ二尺六寸六分(中略)

貞享のむかし、童子切の御太刀、本阿弥六郎右衛門方に、御預ケありしに、彼宅近きあたりに火ありて、既に延焼に及んとするとき、此御太刀仮りに気形の物に現し、人をして示し給ふ事あり、又恵照院様御夜啼の止シ給ふ御事など、都て此御太刀の御家を護り給ふ、神霊の著明き、実に新田源氏の御正統へ伝へ給ふ大器たるが故なり

馬場貞観が中奥目付を務めていた頃、刀剣御拭場において松平家の御刀掛・村山平学から次のような話を聞いたという。松平光長の代に童子切が本阿弥家に預けられていた際、白狐が日夜その屋根の上を廻って擁護しており、その理由を本阿弥家の者に尋ねると、「越後守様より預かる御宝剣であるため」と答えた。やがて刀が松平家へ戻されると、白狐の姿は果たして消えたとされる[85]

こののち、童子切は津山松平家に伝来し、平時は津山城本丸大広間に奉安し、手入れの際には植込之間に移して拭われた[86]。松平家では、新田義貞の所持と伝わる鬼切として信仰された[87][88][89]

文化6年(1809年)1月20日、津山城本丸で大火が発生し、次台所から出火した火勢は表居間に延焼、諸役所を焼き尽くし、大広間・表裏鉄門・腰巻櫓などが焼失した。このとき御刀掛の村山平学らは、大広間に置かれていた腰物を迅速に搬出するため、各刀剣をそれぞれの刀箱から取り出し、童子切・稲葉江石田正宗・七ツ星正宗の四振を童子切の内箱に収め、重要美術品太刀・粟田口国安(現・刀剣博物館蔵)など十五振を童子切の外箱に収めた。国宝薙刀・長光造(現・佐野美術館蔵)および大太刀・貞宗作(現存不明)の二振は、長尺のため童子切の外箱には収まらず、別の箱に納められた。その他の刀袋や諸道具も合わせて箱詰めされた。この御長持は極めて重量があり、平常の手入れでは、村山平学の差配で大広間から宇治橋の間へと御座敷内で運ぶだけでも、中奥目付の指示により壮力の持夫を出すほどの重さであった。ところが、そのような持夫でさえ手を焼く御長持を、火災の折には御番方が坂路を無難に持ち下ろすことができたのは、決して人力の及ぶところではなく、全く大器の御護りによるべしと記している[90]

近世の滋賀県の民間伝承では、松平忠直の乱行の原因について諸説ある中で、最も有力とされるのは、伊吹童子を討った妖刀「童子切丸」の怨念によるというものである。忠直は伊吹山麓の宿場で見初めた側女に言われるまま鬼畜のような振る舞いを重ね、やがて豊後へ配流されたとされ、この側女は童子切丸が呼び寄せた伊吹童子の化身であったとも伝えられる[91]。また別の伝承では、源頼光が伊吹童子を討った太刀「童子切丸」にかかった呪いが所持者に次々と悲劇をもたらしたとされる。頼光の弟美女丸はその影響で乱暴者となり、父の源満仲が家臣藤原仲光に討伐を命じたが、仲光は代わりに自らの子の首を差し出した。これを知った美女丸は改心し、比叡山で高僧になったと伝えられる。なお、この「美女丸」は源頼光の同母弟・源賢の幼名「美丈丸」が後世に誤記されたものであり、江戸期の歌舞伎・浄瑠璃では「美女御前」、牛鬼、「丑御前」などとも表記された[92]

明治以降も津山松平家の家宝として継承され、昭和8年(1933年)1月23日付で、子爵松平康春の所有名義により国宝保存法に基づく旧国宝に指定された[93]。さらに昭和26年(1951年)には文化財保護法に基づき新国宝に指定された[94]

昭和10年(1935年)頃、文部省の依頼で当時26歳の若手研師(後の人間国宝)本阿弥日洲が津山松平家邸(東京・渋谷大坂上目黒)にて童子切安綱の研磨を行った。刀身が健全であったため研磨自体は難しくなかったが、当主松平康春が一〜二時間にわたり傍らに付き添い、さらに退役陸軍大佐の家令が水替えの際に化学反応を避けるため木桶で長い廊下を何度も往復するなど、極めて丁重な扱いであった。日洲は後年、この研磨で最も骨が折れたのは刀そのものではなく、当主への応対であったと回想している[95][96]

第二次世界大戦後、松平康春朝鮮銀行の整理業務に関与したことや[97]、家宅が東京大空襲で全焼したこと、さらに経済的困難に直面し、売却を決意した。なお、連合国軍総司令部(GHQ)による刀剣類の接収を避けるため、文部省が国宝所蔵者に対して所蔵状況を照会した際、松平康春は童子切は既に焼失した旨を回答した[98]

中島飛行機社長で刀剣蒐集家の中島喜代一はこの報を聞き驚き、以前より金沢の刀剣商・石黒久呂を通じて松平家に度々譲渡を打診し、石田正宗および稲葉江の入手には成功していたが、童子切は門外不出として固くことわられた。中島は改めて石黒に探りを依頼したところ、童子切は現存しており、石黒の説得により松平康春は譲渡に応じ、10万円での売却契約が成立。しかし当時の財閥解体に伴う資産凍結の影響で、中島は資金を用意できず、購入を断念した。この時点で石黒久呂が提示した売価は当時の金で13-20万円であり、買受けを望む者は後を絶たなかったが、提示額の高さに及んでは皆逡巡して手を引いた[99][100]。その後、剣道九段範士で玉利嘉章の名でも知られる玉利三之助が、日本特殊鋼社長の渡辺三郎の資金援助を受けて取得した[101]

昭和22年(1947年)12月、東京国立博物館は童子切の糸巻太刀拵の修復を、東京・上野の組紐店「有職組紐 道明」に依頼した。作業は道明新兵衛により行われ、原状の渡巻を可能な限り保存しつつ、破損部分には新たに白色の絹糸を用いて補修し、各種の保存方針を定めた。道明新兵衛はこの修補のため、渡巻部分の意匠を記録する絵図を作成した[102]。道明新兵衛(6代目)は1960年、工芸組紐技術の無形文化財保持者に指定され、皇室関係、博物館、東京芸術大学など国立・私営の各機関に奉仕し、修補に携わった国宝やその他の名品は千件以上に及んだ。また、道明新兵衛の初祖は承応元年(1652年)に越後高田藩の藩士から町人に転じた人物と伝わり、この時期は童子切の元所有者である松平光長が同藩を治めていた時代にあたる[103]

玉利三之助は後年、事業の不振から童子切を手放す意向を示し、文学者の吉川英治にも購入を打診したが、吉川は「一代限りの保有ではなく、恒久的に動かない場所に収蔵すべき」として購入を辞退した[104]。その後、渡辺三郎が逝去すると、息子の渡辺誠一郎は童子切の所有権を主張し[105]、玉利との間で返還訴訟となった。この訴訟は東京地裁から東京高裁に及び、東京高裁では後に第5代最高裁判所長官となる裁判官で剣道家の石田和外が審理を担当した。係争中は執行吏保管のもと、刀剣鑑定家によって定期的な手入れが行われた[106]

玉利三之助の子・玉利齊は、生前の回想で、父がアメリカのボストン美術館から童子切を高額で買い取りたいとの連絡を受けたが、刀剣が海外に流出してしまうのを大いに危惧したため、愛国の思いから心に反骨を抱き、最終的に国へ低額で譲渡する道を選んだと述べている[107]

昭和38年(1963年)3月8日、東京地方裁判所が判決を下し、双方が和解した[108]。同月30日、童子切は国が2600万円で買い上げることが決まり[109]、玉利三之助が2000万円、渡辺誠一郎が600万円と両者で分配を経て、玉利から文化財保護委員会へ引き渡された[110]。同年11月から12月8日にかけては、東京国立博物館第15室において初めて常設展示が行われた[111]。さらに12月から翌年2月にかけて、同館が製作した日本史上初の刀剣と武具映画『日本のかたなとよろい』(工芸シマズ映画第四作、佐藤貫一指導・松川八州雄演出)に童子切が収録された。本作はカラー撮影を採用し、一巻半(約十五分)の長さを有するもので、従来の白黒記録映画に対し、日本刀を対象とした映像としては初めての本格的試みであった[112]

昭和43年(1968年)6月には、童子切は正式に東京国立博物館の所蔵となった(それ以前から同館で保管されている)[113]。昭和48年(1973年1月6日~2月11日)に開催された東京国立博物館創立100年記念「国立東京博物館所蔵名品展」では、刀剣の部の第一順位として展示された[114]。令和4年(2022年10月18日~12月18日)に開催された東京国立博物館創立150年記念特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」においても、再び刀剣の部の第一順位に展示された[115]

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解説

要約
視点

鬼切丸との関係

『太平記』に登場する鬼切・鬼丸は、物語上の創作として描かれたものであり、必ずしも実在刀剣に比定される必要はない。そのため、後世にはこれらの名称や由緒が他の刀剣にも伝えられる例が複数生じ、現存する「鬼切」と称される刀剣も童子切以外に複数伝来している。たとえば京都の北野天満宮に伝わる鬼切丸(別名・髭切[116]や、兵庫県川西市の多田神社に伝わる鬼切丸[117]などがある。

原本明確に足利将軍家伝来とされる鬼切は童子切安綱であり、他家伝来の諸刀に足利氏伝来を称するものはない。しかし近年、2017年までの北野天満宮での展示においては、当宮所蔵の「鬼切丸」について、展示刀の脇に置かれた白色カード式の解説板に「当宮に伝わる刀剣の中で最古のもの、附属の伝来記によれば、源満仲が長男の頼光に与えて以降、源氏、足利氏、斯波氏から出羽最上氏へと、源氏の家系に伝わったといい、鬼切丸の号は、頼光が大江山の酒呑童子退治でこれを用いたからという」と記されていた[118]。この説明文の内容は、足利将軍家に伝来した童子切安綱と、最上家から北野天満宮に奉納された鬼切丸の双方に共通する由緒を含んでおり、このため「鬼切」の名をめぐって両者が安綱の代表作としての由来を競合しているとする見解もある。

最上義光館においては、当家伝来の「鬼切丸」を源頼光が酒呑童子を退治したときにその首を切ったものとされ、新田義貞・斯波氏・最上家を経た系譜を有するかのように紹介している[119]。こうした紹介は、令和7年(2025年7月2日~10月13日)にかけて開催の企画展「妖怪博覧会」においても確認できる[120]。この「鬼切丸」は北野天満宮において「別名 髭切」とも称されており、その呼称は現在も最上義光館の解説で踏襲されている[121]

一方、童子切安綱を伝来した津山松平家は、歴史記録において童子切と髭切を同一とする主張を行った例はなく、また『剣巻』に見られる物語要素を付会した形跡も確認されない。

北野天満宮所蔵の「鬼切丸」については、かつては安綱銘を国綱銘に改竄したとされていたが、近年ではこの安綱銘自体も安綱以外の者による後世の追刻と考えられている[122]。刀姿や作風からは備前風が強く[123]、制作時期も伯耆安綱が活動した平安時代中期より1~2世紀後の鎌倉時代に下るとみられており、東京国立博物館の展覧会図録でも平安~鎌倉時代(12~14世紀)とされている[124]。昭和期の刀剣史家・原田道寛は、最上家に伝来した鬼切丸に、かつて無銘であった時期の押形が存在したことを記しており、無銘である刀を源氏の重代・安綱作の鬼切とすることは、史実・根拠ともに薄弱であると述べている[125]。この押形は現存が確認されず、所在も不明である。

鬼丸との関係

鎌倉時代最古の古剣書『観智院本銘尽』には、「鬼丸」は源頼光が所持していたと記されている。また粟田口助(国)綱(号・藤左近)が法光寺殿(北条時宗)に召され鎌倉で「鬼丸」を作ったと記されている。

重要文化財『観智院本銘尽』国立国会図書館蔵, 1316年頃成立、1423年写

鎌倉鍛冶

鬼丸 村上天皇御宇年四十九山ノ尾ニテ失ヌ、頼光此作刀モ持、又一吉野宮有、骨ハミト云、末細はゝき短□、藤六左近貞(真)国作也、藤林ヲチナリ、名ニハ天神御作云々。

山内四郎大夫流 釜(鎌)倉山内住国綱カ[126]

古今諸国鍛冶之銘

助(国)綱 あわた(粟田)口、ほうくわうし(法光寺)殿御代め(召)し下さわおにまる(鬼丸)作なり、太刀刀ともにまれ(稀)也、大きりやすり(切鑢)、かまく(鎌倉)らのくろまをうち、とうさこん(藤左近)とかう(号)す、正和五年まてハ百卅年也[127]

ここに源頼光の刀として記された「鬼丸」は刀号ではなく刀工名を指しており、出羽国月山鍛冶の祖とされる人物で、後世には鬼王丸と称された[49]。鎌倉時代の段階では「王」の字を含まず、単に鬼丸と記されている。

刀剣博物館所蔵の同系伝本『銘尽正安本写』にも同義の記事が見える[128]

鬼丸 むらかみ天王(村上天皇)おうわ(応和)の比、とし四十九にてやまのを(山の尾)にて太刀三ふり、刀十二こしつくつてう(失)する。此作の太刀頼光四天王もちたまふ、ほねばみ(骨食)とけんのさくしやなりすへほそくはゝきみしかし、この作の刀よし野(吉野宮)に一あり、なかさ七寸なり。
貞国 山内瀧四郎大夫といふ。

刀剣博物館の古文書講師である間宮光治は、『観智院本銘尽』およびその系統本に見える記事について、原文の「藤林ヲチナリ」を「粟田口藤林国友の甥なり」と解し、すなわち粟田口国綱の娘婿あるいは弟子と推測している。そして真国は源頼光所持とされる刀工「鬼丸」の作を模作した一刀を鍛えたとみており、このことから鎌倉期における鎌倉山内鍛冶と京粟田口鍛冶との間に血縁的関係が存在した可能性を指摘している[129]

南北朝から室町時代の軍記物語『太平記』には、鬼切とともに鬼丸が「源氏重代の太刀」として繰り返し言及されている。

  • 巻十六「新田殿湊河合戦事」では、新田義貞が「鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀二振」を帯び、敵の矢を打ち払ったと描かれる[130]
  • 巻二十「義貞自害事」では、義貞が自害の際に佩刀二振のうち、一振には「鬼切」、もう一振には「鬼丸」と沈銘されており、いずれも源氏重代の重宝と記される[131]
  • 巻三十二「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」では、鬼切・鬼丸は「源平累代の重宝」とされ、義貞に伝来した経緯が語られる。その中で鬼丸はもともと平氏(北条氏)の家宝として伝えられ、鎌倉幕府の北条高時の守刀とされ、東勝寺合戦において一族の自害とともに北条時行も帯刀して果てたと伝えられる。さらに刀工については「奥州宮城郡・三の真国」の作と明記されている[132]

このように、『太平記』の中で鬼丸は前半(巻十六・二十)では「源満仲・頼光以来の源氏重代」とされ、後半(巻三十二)では「真国作の平氏伝来の宝刀」として描かれており、記述に齟齬がみられる。これは『観智院本銘尽』に見える源頼光所持の刀工「鬼丸」(後世の鬼王丸)を刀号と誤認した系統の伝承と、間宮光治が指摘する「藤六左近真国による模作刀」を北条家伝来の重宝とする系統の伝承とが併存したためと考えられる[129]。すなわち、『太平記』の編纂過程において異なる系統の底本が混在した結果、鬼丸の位置づけが「源氏重代」と「平氏伝来」とに分かれたのである。

室町時代の古剣書『往昔抄』には、真国作とされる一振の茎押形が収録されており、その上に「粟田口国綱弟子」との注記が見える。これにより、少なくとも室町期以降には真国を粟田口国綱の弟子とする説が定説化していたことが窺える[133]

現存の鬼丸(御物、天下五剣の一つ)は、奥州真国の作とする伝承には基づかず、粟田口国綱の正真正銘の作であり、いかなる刀剣の模作にも当たらない。鎺金の片面には鳩、もう片面には五七桐紋が刻まれているが[134]、鳩は鎌倉幕府の創始者・源頼朝を象徴する意匠とされ[135]、五七桐は河内源氏の大祖・源義家以来の家紋と伝えられる[136]。この意匠配置は、鬼丸が源氏の重宝として位置づけられてきた性格を示すものと解される。なお、史料記録には「源氏重宝」[89][137][138]と「北条重宝」[139][140]の双方の表記が見られ、これは足利将軍家伝来の鬼丸が、源氏の「鬼丸」と結び付けられた由緒の変遷の結果と考えられる。

このように、鬼切(童子切安綱)と鬼丸(鬼丸国綱)は、ともに足利将軍家に伝来した名物であり、『太平記』に描かれる「鬼切」「鬼丸」とは後世において比定された関係にある[80]

髭切との関係

髭切物語の最古の揭載は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて成立した軍記物『平治物語』に見える。同書では、源義家前九年の役において安倍貞任を討った際、「生取千人の首を鬚ごと斬り落とした」ことから鬚切と名付けられたとする[141]。本来は源義家期の戦役に結びつけられた太刀であるが、後世『剣巻』ではこれをさらに源満仲・頼光へと遡る「清河源氏重代」の重宝として位置づけ、系譜を誇張的に遡及させている。

これに対して、延文元年(1356年)頃に成立した『保暦間記』には、源頼朝が「源氏重代の髭切」と称して佩用したと明記されており、髭切が史実に存在したことは確認できる。さらに同書は、髭切が建久元年(1190年)に頼朝が入京した際、後白河法皇から拝領されたと記しており、『平治物語』に見える源義家伝来説とは相互に食い違っている[142]

弘安9年(1286年)の『法華堂文書』には、「号 鬚剪」と称する太刀が、頼朝上洛の御守刀として献じられた後に霊社へ納められ、陸奥入道真覚が得て霜月騒動後に北条貞時の命で鎌倉法華堂へ奉納されたと記される[143][144]。しかし、この記録は安達泰盛一族を粛清した霜月騒動直後に作成されたものであり、安達家が「源氏重代の髭切を隠匿した」とする筋立て自体が、北条得宗家による政治的断罪の一環であった可能性が高い。すなわち史料上「髭切」の名は確かに現れるが、その実体がどのような太刀であったかは確認できず、以後この寄進記事を最後に現物の所在は不明となる[145]

その後、足利将軍家に伝来したとされる髭切の存在も伝わる。ただしこれが前掲の髭切と同一の太刀かどうかは明らかでない。『南朝紀伝』によれば、嘉吉元年(1441年)3月23日、足利義教が伊勢参宮の途上、袋に収めた髭切を草津で置き忘れ、家臣を京へ差し戻して取らせたという[146]。この記事には髭切の名が一時的に見えるが、その後の将軍家の記録には現れない。すなわち、足利将軍家の認識において髭切と鬼切は同一の太刀ではなかった。

『観智院本銘尽』によれば、髭切の刀工として「寳次(実次)[147]」「文寿[148]」「諷誦[149]」「行里(行重)[150]」の四名が挙げられている。そのほか室町時代以降の古剣書には「寶寿[151]」「宴寿[152]」などの表記も見られ、いずれも舞草あるいは月山の鍛冶に比定されている。日本古典文学史の教授である渡瀬淳子は、文寿と諷誦が同一人物である可能性を指摘しており、「文寿」を「ブンジュ」と読んだものが転写の際に「フシュ(諷誦)」と記された結果、別人の鍛冶として扱われるようになったのではないかと推測している。加えて「實次」「寶寿」「宴寿」などの異表記も、写本過程における誤記が異説を生んだ要因の一つと考えられている。こうした事情から、同名の「髭切」という太刀が複数存在したとする見解もある[153]。また、諸本古剣書には諷誦銘の茎押形が伝わる一方で[154]、文寿銘の押形は確認されない。したがって、文寿の方が異写による名称であると判断できる。さらに、髭切の刀工を伯耆安綱とする記録は、史料上一切確認されない。

室町時代15世紀前半に、髭切・膝丸の物語を描いた短編説話『剣巻』が成立したとされる[155]。慶長15年(1610年)には、初めて『太平記』の付録として古活字本に収められて刊行され[156]、以後『太平記』の総目録に組み込まれたため『太平記 剣巻』と称されるようになった。江戸時代後期には、水戸藩の学者が南都一乗院に伝来した古本に『平家物語 剣巻』と題された写本を見出したことを理由に、それまで『太平記』の付録とされていた『剣巻』を切り離し、『平家物語』の異本『源平盛衰記』に付け替えたとされる。しかし、当該古本を『太平記』付録の流布本と比較すると、その文体はいずれも鎌倉時代に遡るものではなく、室町時代の文法を示している。また、物語の細部についても、書き進むにつれて内容が増補されていく傾向があり、後世人による加筆とみなされる[157]

現存最古の『剣巻』は屋代本『平家物語』に収載されているものだが、近年の研究により屋代本文自体が後出の本文であることが明らかになっている。したがって、『剣巻』が屋代本に付属していることを根拠に、その成立を南北朝期にまで遡らせることはできず、成立の下限は奥書に「長禄四年」(1461年)と記された長禄本に拠るほかない。すなわち、『剣巻』を『平家物語』の成立期にまで結びつけることは不可能である[155]

元来『剣巻』は『太平記』の付録として伝えられ、同書に先行する源氏重代の太刀・鬼丸と鬼切の伝承を下敷きに、髭切・膝丸の物語へと再編された派生的な説話と考えられる。叙述の過程では、源頼光の所持とされる鬼丸(刀工名[126])を髭切の改名とし[158][159]、『太平記』に見える鬼切の物語と同型の筋立てを援用している。また、師子王(獅子ノ子)[160]・吠丸(吼丸)[161]・薄緑[162]など史料上実在が確認される刀剣の由緒も髭切・膝丸の改名譚として改変され、江戸期以降の文芸や伝承においては、これらが髭切・膝丸伝説に吸収されることで髭切の伝承が過度に肥大化し、他の刀剣の固有の歴史が覆い隠される傾向が見られる[163]

正史において髭切が源満仲や源頼光の時代に遡ることを示す史料は存在せず、それらは『剣巻』における物語的創作に由来するにすぎない。実際の髭切は源義家の時代にその名が伝わった刀剣であり、古剣書にはいずれも前九年・後三年の合戦後に活動した東北地方の俘囚鍛冶の作と明記されている[164][165]。近年は髭切を安綱作とする説が流布している。これを安綱の作とする史料的根拠は一切なく、安綱が伯耆国の刀工である事実を無視して髭切に付会することは、東北刀工集団の歴史的展開に関する理解や、刀剣史研究における科学的把握に負の影響を与えることになる。安綱の代表作は、「そは矢の剣」の由緒を継ぐ鬼切(童子切)であり、髭切の改名とされるべきものではなく、独立した刀剣である。

史料上、童子切を所蔵した津山松平家においては、髭切との混同や附会がなされた形跡は一切ない。童子切は独立した歴史的由緒を有し、髭切の伝承に吸収されることなく、固有の文化財的価値を保持してきた。

天光丸との関係

『河内名所図会』によると、天光丸は同じ安綱作の鬼切丸(一名童子切)と同鉄で作られた「雌雄の太刀」という[166]

また、最上家にも「天光丸」一振が伝来しており、壺井八幡宮所蔵の天光丸とは別物とされる[167]

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影響

相州正宗の作刀については、古伯耆物や古備前派を理想とし、特に伯耆安綱の作を範としたとする見解がある。佐藤寒山は安綱作を通じて正宗の志向を理解できると述べており[168]、正宗の作風の特色は、地景が顕著に現れる地鉄と、沸出来を主体とした多様で華麗な刃文にあるとされる[169]。とりわけ『解紛記』の作者黒庵は、正宗を「かどかどしき焼刃は一切なく」「潮合いも取分け沸あざやかに匂を敷き、少しの湯走りまで沸・匂にむらなく深く」「地色・潮合に曇なく、さながら金硬めにもみえず、位優るによってまぎるる方なし」[170]と述べ、焼刃の自然さ、沸と匂の鮮やかさ、地鉄の澄明さを称えている。こうした特徴は「鎌倉一流」と称される鍛錬法に基づくものであり、この技法は古墳時代以降の刀剣や平安時代の伯耆安綱の作にも見られる。本間薫山は、正宗が伯耆物の古流を取り入れた点を指摘しており、安綱の作風が相州伝成立の遠因となったと考えられている[171]

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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