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多気町の中央よりやや北寄りに位置する。櫛田川中流域の平坦地にあり[5]、半農半商の地域で、宅地が広がる[6]。
北は松阪市射和町(いざわちょう)、東は多気町荒蒔(あらまき)・相可台、南は多気町五佐奈・西山・仁田・平谷、西は多気町四疋田に接する。
相可は相可一区と相可二区に分かれ、多気町当局は別大字として扱っている[注 1]。一区と二区は三重県道160号松阪多気線(旧国道42号)を境とし[7]、東側が二区、西側が一区である。
上相可とも称する[8]。地区のほぼ全域が平野である[8]。三重県道421号勢和兄国松阪線に沿って集落が形成され、宿場町の景観が残る。
下相可とも称する[8]。地区の北半分は平野であり、中央に相可駅が[8]、南部に多気町役場がある。南東部には相可台ニュータウンが造成され、独立した大字となった。
相可一区同様、宿場町の歴史的景観が県道421号沿線に残る[9]。
多気町の歳入の主要な位置をしめるシャープ三重工場(1995年(平成7年)進出、通称:多気工場)が地区の東部に立地し、周辺域に多気工業団地を形成する。
古くは縄文時代の土器が見つかっており、太古の時代より人々の集まる地域であったことが窺える[5]。平安時代の『和名抄』に多気郡七郷の1つとして相可郷が登場する[5]。当時の数点の古書には「阿布加」(あふか)と読みが振られている[5]。相可郷には伊勢神宮の御厨や東寺・近長谷寺・法楽寺の荘園が点在し、条里制の土地割や条里制地名[注 2]が今も残る。相可郷の名は江戸時代まで使われ、天正19年5月11日の『豊臣秀吉朱印状』に、相可820石の朱印地を御師・上部越中守に与える、と記録されている[5]。なお、相可郷は現在の相可地区よりも広い範囲を指していた。
江戸時代には多気郡四疋田組に属し、紀州藩田丸領・外宮上部大夫領・外宮春木大夫領の相給地となり、領有関係が複雑であった[10]。当時の地名として相可村とするもの(『文禄郷帳』)と、相可上村・相可下村とするもの(『三国地誌』)が見られる[10]。熊野街道・伊勢本街道・伊勢南街道が交わる交通の要所であることから宿場や商家が栄え、江戸に支店を持つ大和屋や大黒屋なども現れた[10]。また大小の神社仏閣も賑わい、更に河岸(かし)としても発達、櫛田川下流から食塩などの物資が送られたほか、対岸の射和村(いざわむら、現在の松阪市射和町)との間に渡し船も就航していた[10]。
明治時代になると、相可は多気郡の中心となり、1873年(明治6年)に小学校と相可郵便取扱所(現・多気郵便局)、1879年(明治12年)に多気郡役所、1880年(明治13年)に山田警察署相可分署(後の相可警察署、1942年(昭和17年)廃止)、1897年(明治30年)に相可税務署、1907年(明治40年)に相可村・津田村・射和村組合立多気実業学校(現在の三重県立相可高等学校)が相次いで設置されたほか、銀行の支店も多かった[10]。1889年(明治22年)の町村制施行の際には周辺の7村と合併して相可村となり、村の中心となった。更に1919年(大正8年)には相可町に昇格した。村発足当初は、射和・中万(ちゅうま)・兄国(えくに)との間の水運の中心であったが、1922年(大正11年)に乗合バスが設定され、大淀・斎宮・丹生を結ぶバス交通の中心となった[10]。毎年1月27日には相可市が開かれ、50ほどの露店や川遊びの屋形船が出たりと賑わった[10]。 1895年(明治28年)発行の『大日本管轄分地図』三重県総論の多気郡の項では、相可区について以下のように記している。
このことからも繁栄ぶりが窺える。また1931年(昭和6年)発行の『大日本職業別明細圖』には相可町の市街図が掲載され、町役場・警察署・郵便局・裁判所出張所・実業学校・蚕糸試験場・家畜市場といった公共機関に加え、鹿水亭・湊屋・銀行2店・餅屋・牛乳屋・写真店などの商店が描かれている[11]。
第二次世界大戦後は、松阪市への交通の便が良くなったことで多気郡の中心としての性格は弱まったが、今もなお多気町の政治・経済・文化の中心であり続けている。
1955年(昭和30年)頃まで、旧伊勢本街道で毎年1月27日に開かれていた定期市[12]。ヤシ仲間と呼ばれる多気町と松阪市の業者集団が50軒ほどの露店を出し、出店場所はくじによる抽選が行われた[13]。取り扱い商品は、食品・日用品などで、見世物小屋(「ノゾキ」という)も出た[12]。翌1月28日には、櫛田川対岸の松阪市中万町に場所を移し、同業者により「中万市」が開かれた[12]。
2015年(平成27年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
1889年以降の人口の推移。なお、1995年以後は国勢調査による推移。
1889年(明治22年) | 1,274人 | ||
1953年(昭和28年) | 1,690人 | ||
1980年(昭和55年) | 1,527人 | ||
1995年(平成7年) | 1,406人 | [16] | |
2000年(平成12年) | 1,370人 | [17] | |
2005年(平成17年) | 1,440人 | [18] | |
2010年(平成22年) | 1,471人 | [19] | |
2015年(平成27年) | 1,456人 | [2] |
1889年以降の世帯数の推移。なお、1995年以後は国勢調査による推移。
1889年(明治22年) | 227戸 | ||
1953年(昭和28年) | 338戸 | ||
1980年(昭和55年) | 401世帯 | ||
1995年(平成7年) | 417世帯 | [16] | |
2000年(平成12年) | 460世帯 | [17] | |
2005年(平成17年) | 519世帯 | [18] | |
2010年(平成22年) | 585世帯 | [19] | |
2015年(平成27年) | 559世帯 | [2] |
公立の小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[20]。
番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 多気町立相可小学校 | 多気町松阪市学校組合立多気中学校 |
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