田之上幸男
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経歴
要約
視点
1970年代
父・田之上勲調教師の「ぜひ実業を」という思いから大阪学院に進学していたが、父が高血圧で倒れたことから後継者に名乗りを上げ、1964年から1967年には坂口正二厩舎に見習として修行に出かける[1]。
騎手試験には53kgに近い体重を46.5kgに落とした2度目に合格し[1]、1970年3月に父の厩舎からデビュー。
押田年郎・吉永良人・久保一秋・西橋豊治・湯窪幸雄と同期[1]になり、同8日の京都第12競走5歳以上200万下・ヒガシオー(17頭中15着)で初騎乗[2] [3]を果たす。
5月16日の阪神第2競走4歳未勝利・ユーゲントで初勝利[3]、同日の第7競走4歳250万下・オープンツバメでも勝利し初の1日2勝[4]を挙げた。
1年目の1970年は初の2桁となる10勝、2年目の1971年には自己最多の19勝をマークし、1977年まで8年連続2桁勝利を記録[5]。
2年目の1971年には夏の小倉戦で活躍し、7月17日には3連勝で初の1日3勝[6]、8月29日には2度目の1日3勝[7]、9月5日には初の2日連続勝利を3度目の1日3勝[7]を挙げるなど、19勝中15勝[8]をマーク。7月17日の小倉第4競走3歳新馬ではデビュー前から追い切りで好時計を連発していた[9]シンモエダケに騎乗し[10]、男馬を相手にいきなり1番人気に支持されたが、好位から抜け出すや独走し、後続を3馬身もちぎり捨てて58秒9のレコード勝ちであった[9]。
九州産馬テツミノリでは3連勝で重賞昇格前の小倉3歳ステークスを6頭中4番人気で制し[11]、9月の阪神オープンではシンモエダケの3着[11]、デイリー杯3歳ステークスではシンモエダケを抑えて2着[12]に入った。
1971年から1973年にはアチーブスターに18戦騎乗し[13]、1971年は3戦目の新馬戦でタニノチカラの4着[13]、1972年はヒヤシンス賞(200万下)でロングエースの4着[13]、桜花賞トライアルの阪神4歳牝馬特別では12頭中11番人気ながら後方待機から追い込んで4着を確保し、桜花賞への優先出走権を獲得[14]。引退レースとなった1973年の京都記念(秋)でも騎乗し、14頭中14番人気ながら4着に入った[13]。
3年目の1972年にはシンモエダケで2月の阪神オープンを勝利し[10]、アヤヒリュウでは3月の阪神オープンでトクザクラの3着[15]、5月の京都オープンではキョウエイグリーンの2着[15]に入った。
1974年には宮崎産馬ニルキング[16]ではデイリー杯3歳ステークスでロングホーク・エリモジョージを抑えて制し[17]自身唯一の重賞勝利[18]を挙げ、1975年にはシンザン記念でエリモジョージの3着[16]、きさらぎ賞でハナ、ハナ、アタマの大接戦の3着[19]に入った。
1975年には後に「九州産馬の天皇賞」と形容される[20]霧島賞をトリコロールで初めて制し、1976年・1977年にはソウキジンで制し連覇に導くと同時に自身は3連覇[21]。
1976年にはツキノタイシで毎日杯2着[22]に入り、1977年12月4日の中京第4競走3歳300万下ではシンモエダケの初仔ファーストシンモエ[23]で勝利[24]。
1978年には1月28日の中京第7競走4歳オープンでファーストシンモエをインターグシケンの3着[24]に導いたが、初の1桁勝利となる8勝[5]に終わる。
1979年には中京で行われた神戸新聞杯で9頭中8番人気の牝馬フェロースピードに騎乗し、オークス馬アグネスレディーにテルテンリュウ・ニチドウタローを抑えて2着[25]と健闘。同じく中京で行われた京都新聞杯ではタマパレードでニチドウタローにダービー馬カツラノハイセイコを抑えて4着[26]、京都牝馬特別ではフェロースピードでアグネスレディー・ミスカブラヤに桜花賞馬ホースメンテスコを抑えてインターグロリアの4着[27]に入り、2年ぶりの2桁となる11勝[5]をマーク。
1980年代
1981年には15勝、1982年にはアチーブスターの初仔アルハーオー[28]での2勝を含む11勝[29]と2年連続2桁勝利[5]をマークし、1982年12月5日の中京第5競走3歳新馬ではエジードオーでスズカコバンの3着[30]、1983年12月3日の阪神第9競走かえで賞ではユーショウアローでゴールドウェイの3着[31]に入った。
1984年から1987年には4年連続2桁勝利[5]を記録し、1985年にはギャロップダイナが「カラ馬が1着」と話題をまいた[32]札幌日経賞でアチーブスターの第3仔ワンダービクトリー[28]に騎乗しリキサンパワー・キングハイセイコーの間に入る4着であった[33]。
1987年の10勝が最後の2桁[5]となり、1989年にはスリーフレームで朝日チャレンジカップではプレジデントシチー・シヨノロマンを抑えての2着[34]、福島記念ではオースミシャダイ・プレジデントシチーを抑えての3着[35]、ナルシスノワールではCBC賞で10番人気ながら3着[36]に入った。
1990年代
1990年にはフリーとなり、ナルシスノワールでは阪急杯でラッキーゲラン・パッシングショットを抑えての3着[37]、セントウルステークスでは逃げて3着ダイユウサクとハナ差4着[38]に入った。
1990年10月28日の京都第10競走壬生特別・ユーショウプロミスが最後の勝利となり、12月23日の京都第10競走円山特別・ニッポーデュレン(13頭中12着)を最後に現役を引退[39]。
騎手成績
- 主な騎乗馬
- ニルキング(1974年デイリー杯3歳ステークス)
脚注
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