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北海道(日高国)の郡 ウィキペディアから
人口3,805人、面積364.3km²、人口密度10.4人/km²。(2024年10月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
江戸時代に入ると、松前藩の商場知行制および場所請負制によるシャマニ場所(初期は幌泉場所とあわせて油駒場所とも)が開かれ、様似には北前船が寄航することもあった。
江戸時代初期、1635年(寛永12年)にポロナイ川上流で金鉱が発見され、幕府直轄の東金山金鉱山が大勢の和人を集めていたが、1669年(寛文9年)のシャクシャインの戦いに伴い、東金山金鉱山が閉山を余儀なくされる。
江戸時代中期の1706年(宝永3年)住吉神社の前身の小社が創祀されている。陸上交通は渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る道(国道336号の前身)の途上であったが、沿岸部に通行の難所があったため、寛政11年蝦夷地取締御用を命ぜられた大河内善兵衛政寿が中村小市郎、最上徳内らに命じ冬島 - 幌満間に道程3里(12キロ)弱の様似山道を開削、中継地点として「コトニ小休所」も設けられ、その翌年伊能忠敬も通行している。
様似山道が開削された年、様似場所は天領とされ、江戸時代後期に入ると、南部藩によるシャマニ山道修繕が1802年(享和2年)12月から翌3年にかけて行われる。また、様似山道には、後年松浦武四郎なども通行している。1806年(文化3年)幕府により蝦夷三官寺筆頭寺院である等澍院が建立される。慈覚大師円仁や円空がこの地で修業したと伝わり、様似に建立されたという。1821年(文政4年)いったん松前藩領に復すが、1855年(安政2年)再び天領となり、仙台藩が警固をおこなった。1862年(文久2年)、様似山道開削に尽力した斉藤和助をしのび、和助地蔵尊が建立された。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して様似郡が置かれた。
・海辺村、桐橿村、傍平村→様似村
・門別村、染近村、白里村、核蘂村→平鵜村
・郡内村、嘯牛村、小宵村→冬島村
・島郡村→幌満村
・累地村、逢牛村、去魔村→岡田村
・農助村→二七村
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