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日本の劇作家、演出家 ウィキペディアから
植田 紳爾(うえだ しんじ、本名:山村 紳爾〈やまむら しんじ〉、1933年1月1日 - )は、日本の劇作家、演出家である。宝塚歌劇団専属。1996年から2004年まで同歌劇団理事長を務めた。現在は同歌劇団特別顧問、社団法人日本演劇協会会長。大阪府生まれ。
幼くして父が病死、母とも生き別れ、神戸のおじ夫婦に引き取られた。戦時中は福井に疎開した[1]。「戦争中、空襲で神戸の実家を失い、疎開先の福井でも空襲にあいました。」と日本赤十字社のインタビューで答えている。
その後、演劇青年として学生時代をすごし、滝川高等学校を経て[2]早稲田大学第一文学部演劇科を卒業した。1957年2月に演出助手として宝塚歌劇団に就職する。劇団のかつてのスター・葦原邦子の紹介であった。同年中に『舞い込んだ神様』で演出家デビューを果たした。初期には舞踊劇などの小作品を多く手がける。
1973年、当時花組男役トップスター甲にしきのサヨナラ公演にと自身初の一本立てミュージカル"宝塚グランドロマン"として、『この恋は雲の涯まで』を書き下ろす。この作品は尾上松緑と共同演出。
1974年に初演された「ベルサイユのばら」は、演出する長谷川一夫に脚本執筆者に指名されたことがきっかけとなった。宝塚ファンからの情報をもとに池田理代子の漫画を題材に選んだが、当初は長谷川も難色を示し、漫画ファンなど各方面からの批判も受けたが、上演に漕ぎ着け、その後の宝塚ブームを呼び込むこととなった[3]。
1977年の『風と共に去りぬ』でも脚本・演出を手がけた。
1994年から1996年まで阪急東宝グループ関連会社・宝塚クリエイティブアーツ(歌劇団の公演公式ビデオ・CDなどの販売会社)社長を務め、1996年には歌劇団理事長に就任した(同時に阪急電鉄取締役にも就任)。2004年に退任するまで、歌劇団の5組化(宙組新設)、東京宝塚劇場の新装など変革期の舵取りを務めた。退任後は劇団特別顧問を務めながら、劇作家・演出家として活動している。
2014年、『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰[4][5]。
私生活では上方舞山村流四世宗家山村若の娘で次期後継者であった山村糸と結婚した。糸に男きょうだいがなかったことから、以降戸籍上は山村姓を名乗り、現・六世宗家山村若(2014年7月から3代目山村友五郎[6])ら子宝にも恵まれたが、糸は宗家襲名を果たせぬまま1990年、病を得て早世(糸は1992年に五世宗家を追善された[6])、以降は六世若(現・3代目友五郎)らの成長を見守りつつ独身を通す。
☆はスタッフの一員として受賞したもの
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