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日本の科学教育者 ウィキペディアから
板倉 聖宣(いたくら きよのぶ、1930年〈昭和5年〉5月2日[1] - 2018年〈平成30年〉2月7日[2][3])は、科学史や教育学、理科教育史を専門とする日本の研究者。主な業績は「科学的認識の成立条件」の発見、仮説実験的認識論の発見と仮説実験授業による具体化と実証によって「授業の科学的研究」を確立した。仮説実験授業研究会設立による「たのしい授業学派」の確立など。東京大学理学博士[4]。「仮説実験授業」の提唱者で、「いたずら博士」として科学啓発書を中心に多数の著書を執筆した[1]。国立教育研究所 物理教育推進室長[6]、仮説実験授業研究会 代表[6]、(私立)板倉研究室 室長[1]、日本科学史学会 会長を歴任[7]。『ひと』(太郎次郎社)や『たのしい授業』(仮説社)の創刊にも貢献[1][3]。『増補日本理科教育史』でパピルス賞を受賞し[1]、没後の2019年には英訳論文精選集『Hypothesis-experiment class (Kasetsu)』が出版されている[8]。
板倉の肖像(2012年。82歳) | |
人物情報 | |
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別名 | いたずら博士 |
生誕 |
1930年5月2日[1] 東京府下谷区(現 東京都台東区)[1] |
死没 | 2018年2月7日(87歳没)[1][2][3] |
出身校 |
浦和高等学校 (旧制) 東京大学 (新制) |
学問 | |
研究分野 | 教育学、科学史 |
研究機関 |
国立教育研究所 板倉研究室 |
学位 | 東京大学理学博士[4] |
主な業績 | 科学的認識の成立条件の発見。仮説実験的認識論の発見と仮説実験授業による実証によって「授業の科学的研究」を確立した。仮説実験授業研究会の設立と「たのしい授業学派」の確立。 |
主要な作品 | 『増補日本理科教育史』[1]、「いたずらはかせのかがくの本」シリーズ(国土社) |
影響を受けた人物 | 三浦つとむ、小倉金之助、武谷三男、大谷真一[5] |
学会 | 日本科学史学会、仮説実験授業研究会 |
主な受賞歴 | パピルス賞 |
1930年(昭和5年)5月2日、東京の下町に10人兄弟の7人目として生まれる[9]。父は医療機械の製造職人[10]。 小中学生の頃は数学が好きだったが、暗記を馬鹿にしていたため成績は悪く、公立中学校の受験に失敗した[10]。 私立本郷中学校に入学したものの1945年2月25日の空襲で自宅が全焼し、長野県塩尻町(現・塩尻市)に一時疎開[11]。父の圧力もあり1945年(昭和20年)に名古屋陸軍幼年学校に入学したが、4か月の在学で敗戦を迎え、翌年東京へ戻る[11]。 敗戦の体験によって社会の科学を含めて本格的に科学を勉強する気になって勤勉になった。しかし、理科に納得のいかないことが多く自信が持てなかった[10]。 1947年に本郷中学校4年修了で旧制浦和高等学校に進学。そこから科学史と哲学を勉強し、科学史を知れば自分も納得できるということを発見した[10]。 1949年、新制の東京大学に入学し科学史を専門にすることにした[12]。
三浦つとむの『哲学入門』に大きな影響を受けて、認識論の研究を開始した[12]。 大学1-2年の頃は学生運動に参加したが、当時全盛だったスターリンの認識論に疑問を持ち、「科学的認識はすべて仮説をもって対象に目的意識的に問いかけることによってのみ成立する」という考えに達した[12]。
板倉は教養学科・科学史科哲学分科の第一期生になったが、科学史を専門とする教授も先輩もいなかったため、3-4年生のときに後輩たちと「自然弁証法研究会」を作った[12]。 そこではとくに地動説の歴史を研究し、「科学的な認識の枠組みを変えることは困難なこと」と、「仮説実験的な認識方法を確立すればそうした認識の枠組みを変えることも可能だ」という結論に達した[12]。 同じ頃アメリカの科学史家トーマス・クーンが「パラダイム論」を展開していたが、板倉はクーンが不可能としていた「パラダイムの限界を乗り越える方法」を論じることができた[12]。(節「#科学思想」も参照)
大学を卒業した1953年に手作りのガリ版雑誌『科学と方法』を創刊。全国の大学生や大学院生を読者とした[12]。 当時の東大大学院歴史学専攻には科学史の専攻課程がなかったので、数物系の大学院に進学し、物理学史を専攻した[12]。 そこで科学教育の問題にも関心を深めていった[12]。 大学院では指導教授と意見が合わず、半年遅れで理学博士の学位を取得した[12][注釈 1]。卒業後の1959年に友人の紹介で国立教育研究所に就職した[15]。
当時の国立教育研究所では文部省の政策に極度に遠慮していて研究の自由がなかったが、1961年にアメリカの高校物理教科書「PSSC物理[注釈 2]」が日本に紹介されて文部省がこれに関心を示すと、研究所をクビになる覚悟で科学教育の研究を本格的に始めた[15]。
国研に内地留学した上廻昭と教育の研究を開始し、1963年仮説実験授業を提唱し[12]、1966年に仮説実験授業研究会を設立した[12][1]。『少年少女科学名著全集』(国土社)を刊行。「いたずら博士」のペンネームで多くの科学啓蒙書を執筆(#著書の節も参照)。また、1968年に書いた『日本理科教育史』は、後に増補版が2010年のパピルス賞を受賞した[1]。1960年代後半には日本科学史学会の会誌『科学史研究』において、ニュートンの質量概念について渡辺正雄と紙上討論を繰り広げた[17][18]。1973年に数学教育で水道方式を提唱していた遠山啓らと、教育雑誌『ひと』(太郎次郎社)を創刊[1]。
1977年に学習研究社の書籍で板倉の著作に対する著作権侵害問題が発覚し[19]、板倉は弁護士に仙谷由人を依頼[20]。同社雑誌では板倉の『科学的とはどういうことか』や授業書からの盗作が見受けられ[21]、同社書籍には板倉と上廻昭の共著『仮説実験授業入門』からの引用の要件を満たさない記述が見つかった[22]。板倉は弁護士と書籍の発行差し止めの仮処分を裁判所に申請[23]。本件は1977年11月5日の『毎日新聞』朝刊にも掲載され[24]、板倉は1978年出版の自著『模倣と創造』に事の経緯を掲載したが[25]、最終的に板倉側の要望が認められる形で1979年12月5日に和解となった[26]。
1980年頃から『日本歴史入門』を書き、社会の科学の研究も開始した[15]。1983年3月に月刊誌『たのしい授業』を仮説社から創刊し、編集代表を担当[1]、1988年には初めての本格的小説『模倣の時代』を書いて、明治以後の脚気の研究史における、森林太郎(鷗外)を初めとする日本人科学者たちの創造性の問題と悲劇に光を当てた[27]。
1994年に国立教育研究所を定年退職し、同所名誉所員に就任[1](後に組織再編に伴い国立教育政策研究所名誉所員[28])。(私立)板倉研究室を設立し、代表として活動を開始する[1][注釈 3]。1994年にサイエンス・シアター運動を提案し[30]、2000年代に運動を展開。科学をエンターテイメントとして楽しむ18-19世紀の近代イギリス科学の伝統[注釈 4]を日本にも作ろうとした。
2007年には一度脳梗塞で入院している[3][35]。2011年には日本教育心理学会の大会で特別講演も務めた[29]。2013年から2016年まで日本科学史学会会長に就任し[7]、科学史研究の裾野を広げるための講演会などを開いたが、2016年に脳梗塞で倒れたあとは入退院を繰り返し[注釈 5]、2018年2月7日に老衰で死去した[2]。満87歳[3]。
2018年2月16日産経ニュースの「産経抄」は「残念ながら教育にはノーベル賞がない」というタイトルで板倉を追悼し[39]、同年に発行された『たのしい授業』3月号・4月号では追悼特集が組まれた[2]。なお、没後の2019年には板倉の英訳論文精選集『Hypothesis-experiment class (Kasetsu)』が出版されている[8]。
板倉は基本理論の交代における矛盾の重要性について明らかにした[41]。
板倉は理論の交代について、古い理論の内部に矛盾が出現することによって理論は危機に陥る。そしてその矛盾をのりこえようとする結果として形成されるのが新理論であると考えた。古い理論の内部矛盾の存在は、その理論に深くコミットした人ほどより深刻にとらえられ、顕在化してくるという特徴を持っている。古い理論の敵は説明できないデータの存在でもなく、競合する新理論の出現でもなく、矛盾の存在なのであると主張した[42]。
板倉は自身の「理論の交代における矛盾の役割」の研究結果で、「理論選択の基準はその単純性にある」とする「マッハ主義」[注釈 6]を批判した[45]。
基本理論の交代が理論外の新事実の発見や他の理論の影響で引き起こされるという「機械論」も科学史の現実に合わないとした[46]。
理論は事実に合わせて変化するという「実証主義」を、「天動説は事実に合わせるという点では十分実証的だった。コペルニクス説がこの点で優れていたわけではない」として否定した[46]。
「どっちもどっち」というような「相対主義」は旧理論の内部矛盾に着目することによって乗り越えることができると主張した[47]。
科学者による理論の選択は、もともと合理的説明はできないのであって、宗教的回心のようなものだと主張する「パラダイム論」に対して、理論交代の必然性を、理論内部の矛盾による自滅とそののりこえによって説明できると批判した[48]。
板倉に大きな影響を与えた科学者に武谷三男がいる。武谷は自身の量子力学の研究から「武谷三段階理論」を提唱した[49]。武谷の三段階論とは
科学の法則には
の三段階があり、「科学的な理論はこの三段階を経て発展していく」というものである[50]。
板倉は自身の修士論文と博士論文で「古典力学と電磁気学と量子力学の3つの理論の発展段階」を武谷の三段階理論で解明[51][4]して、その発展の法則を比較検討した[52]。
板倉は「現象論」が科学上の発見に重要であることを強調している。その1つの例として「日本の脚気研究史」を取り上げ、小説にまとめている[53][54][27]。板倉は「脚気の原因が解明されていなかった時期には、いきなりその病気の原因である実体を極めることはできない」から「麦飯とか玄米が脚気に効く」という現象そのものを明らかにすることが必要であった[55]のに、当時の東京大学医学部の教授たちや陸軍軍医本部の森林太郎(鷗外)たちは「なぜだか分からないが脚気に麦飯が効く」という現象論的法則を非科学的であると攻撃し、結果的に日清戦争や日露戦争で何万もの兵士を脚気で死なせたことを批判した[55]。それに対して西洋医・オランダ医者であった軍医の堀内利国は、最初は脚気に麦飯が効くことを漢方医の迷信としていたが、部下が報告した全国の監獄での麦飯食の脚気への効果を知って、「なぜだか分からないが麦飯が脚気に効く」と現象論的法則が正しいことを確信した。そして堀内の管理する兵食を麦飯に変更して脚気を劇的に減らすことに成功したことを高く評価した[56]。板倉は、性急に怪しげな実体論を追求するよりは、現象論的法則を法則として評価・認識できる者が脚気の原因究明の歴史では創造性を発揮したと堀内を評価している[56]。
このことから板倉は三段階理論のうち、えてして「現象論」は低く見られることが多いが、現象論的な法則の研究が発見には重要だと主張した[57]。さらに板倉は「1回きりの事実は現象論的法則とは違う」として、現象論的法則とは単なる事実とは違う「何回繰り返しやってもいつも同じようになる法則的な事実」であり、「何度やってもそうだ」という法則の重要性が分かることが新発見につながるとしている[58]。
そしてこのような現象論的法則が確立して、初めて「なぜ麦飯や玄米が脚気に効くのか」が問題になり、そこから「玄米中のどんな成分が脚気に効くのか」という研究が発展し、「ビタミンB1という物質=実体」が発見され、脚気の研究が実体論段階に達したのだと主張した[57]。
コメニウス(1592-1670チェコ)は「すべての人に学校教育を受けさせ、しかも必要なすべてのことを無理なく、労苦なく、楽しく学ばせる」と唱えて「近代教育学の祖」と呼ばれているが、その実現は容易なことではなかったことは、現代の学校教育の現状を見れば明らかである[77]。市民革命時代のジョン・ロック(1632-1704英国)は、子どもを独立した個人と認めずに「子どもの心は白紙である」という「白紙説」を唱え[78]、近代国家が要請する近代市民を育てるためには、押しつけ教育もいとわなかった[77]。一方ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778フランス)は、「子どもには独自の考えがあり、自由に育てるべきだ」と主張した[79]。しかし、コメニウスもロックもルソーも理念だけで、何ら実証的な裏付けはなかった[77]。それに対してジョン・デューイ(1859-1952米国)は教育に実験という概念を初めて取り入れたといわれている[77]。
これについて板倉聖宣は「ルソーやデューイの教育学上の地位は、近代科学史上でのレオナルド・ダ・ヴィンチの役割に似ている」として、「ダ・ヴィンチはその優れた直感でガリレオ・ガリレイと同じことをたくさん言ってますが、近代力学そのものへの第一歩は歩むことはできなかった」としている[77]。ガリレオの近代的実験概念は「与えられた条件の下で行えば、誰がどこでやっても同じ結果が得られる」という"実験"であった[77]。しかしデューイの"実験"学校は、ガリレオの実験のような〈限られた条件の下でなら、誰もが検証可能なもの〉にはなり得ていなかった。デューイの実験は経験主義に近いもので、近代科学的な実験概念にはまだ到達していなかった[77]。
板倉は1950年代にフランスのリセ、日本の有名進学校、一流大学で調査を行い、「科学を学んだ以後の優等生でさえ、日常生活で身につけた常識的概念にとらわれており、それを克服することが困難なこと」を明らかにした[80]。それをふまえて板倉は「科学教育というものは、自然現象の理解に於いて白紙の状態にある生徒に向かって、科学上の概念や法則を注入することによって成立するものではない。」と述べて、子どもたちは白紙でないばかりか、「科学概念と対立する強固な常識的概念をすでに日常生活で身につけている」ということを明らかにした。板倉はロックの「子ども白紙説」を実験的に否定した[80]。
板倉は「すべての押しつけを排除する」といい、「何を教えるに値するかは子どもが決める」と主張した[80]。これはルソーの「子どもは自由に育てるべきだ」という思想に近いともいえるが、板倉がルソーと決定的に違うのは、それを実験的に再現可能な形で教育内容を決定したことである[80]。板倉は授業の成功・不成功を子どもたちの感想文と「楽しさの評価」に置いた。授業の善し悪しの決定権を子どもに委ねることではじめて「教育の主権は子どもたちにあると言える」とした[80]。
板倉は「授業の楽しさは、教育の手段ではなく目的でもある」と述べ、板倉のいう「楽しさ」とは人が知的好奇心を満たされたときの本質的な喜びをさしている[81]。そこで仮説実験授業では子どもたちの「楽しさ」を基準に実験的に教育内容も決定し、それを「授業書」と名付けたテキストによって具体化している。この授業書に沿ってやればだれでも「優れた授業ができる」という意味で再現性が保証されている[81]。この点でも仮説実験授業は再現可能な実験という、近代科学的な手法に基づいた教育研究を実現している[81]。
現代の物理学者の間で力の定義が科学者ごとに異なってコミュニケーション不全に至ることは基本的にはない[82]。しかし教育学ではそもそも「教育」という研究分野の定義そのものすら混乱している[82]。このことは現在の教育学が、ガリレオが実験科学を切り開いた17世紀前後の状況に似ていることを示している[82]。
ガリレオは落下法則という自然現象のほんの一点を明らかにしたに過ぎないのと同様に、仮説実験授業は教育という広大な分野のほんの一点を突破したに過ぎない[82]。教育には依然として未解決の問題が山積したままである[82]。しかし近代科学がガリレオ以降、1つ1つ問題を解決していったように、板倉の「教育の研究を実験科学にした」という一歩もガリレオの仕事と同様に位置づけられる[83]。
仮説実験授業は指導要領の枠内に収まらなかったため、1963年の提唱以来、流行することなく熱心な教師を中心に50年以上にわたって実践・研究が積み重ねられてきた[84]。そういった仮説実験授業の成果はこれまでほとんど国外には紹介されてこなかったが、例外的に波多野誼余夫によってHEI(Hypothesis Experiment Instruction)の名で認知心理学の分野で紹介された[84]。そのためもあって認知心理学の分野では板倉と同種の主張が「素朴概念(native concept)」や「誤概念(misconception)」として知られるようになった[84]。
1980年代以降、欧米でも仮説実験授業に似た「予想―実験」を中心にする科学教育の手法が盛んに提唱・研究されるようになった[84]。1982年にJohn Clementは学生たちの概念調査を行い、「学生たちに見られる誤概念は中世のインペタス理論に似た概念が見られること」を指摘したが、1960年代に板倉が指摘したこととほとんど同じである[85]。1985年にHallounとHestenesは「日常生活に基づく常識的信念」をCS(Common Sense)と名付けて、「CS信念を乗り越えるのは教師や教科書の権威によってだけでは困難である」と主張したが、これは板倉が仮説実験授業の提唱時に主張した「科学的認識の成立には、常識的・直感的な論理と科学的な論理の対決が必要である」と述べたのと同じである[85]。
1993年にはClementらが「橋渡し法(Bridging Analogies)」と題する方法論を提案した[85]。これは原子モデルを導入して抗力概念を導入しようとするものであるが、1964年に板倉が発表した授業書〈ばねと力〉に驚くほどよく似ている[86]。
このように仮説実験授業そのものではないにしても、かなりの部分で仮説実験授業との共通点がある教育法が海外でも研究され、その有効性が実証されつつある[86]。
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