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かつての日本の映画会社 ウィキペディアから
東京發聲映畫製作所(とうきょうはっせいえいがせいさくしょ、1935年3月 設立 - 1941年12月 合併)は、かつて東京に存在した映画会社である。日活資本のもとに、重宗務、八田尚之、豊田四郎、あるいは八木保太郎らがトーキーを手がけ、豊田が監督した『若い人』や『小島の春』が代表作として知られる。のちに東宝資本に換わり、現在の東宝を形成する流れに合流した。
なかなかトーキーを撮らせてくれない松竹蒲田撮影所を退社、日活多摩川撮影所に移り、1935年(昭和10年)2月、サイレント映画だったが『三つの真珠』を監督した重宗務を所長[1]、同じ多摩川撮影所にいた脚本家の八田尚之を企画脚本部長に据え[2]、同年3月、日活資本が設立したトーキーに特化した映画製作会社がこの「東京発声映画製作所」である。
設立第1作は、重宗監督・八田脚本による『乾杯!学生諸君』で、同作は、日活の封切館である四谷区新宿の「帝都座」ほかで同年8月25日に公開された。同作のカメラマンには「富士発声」ですでにトーキーの撮影を経験済みの持田米彦、キャストには松竹蒲田から藤井貢、大日方伝、松竹蒲田から日活多摩川へ移った逢初夢子、日活から新興キネマ東京撮影所に移った市川春代、松竹蒲田出身でマキノ・プロダクション御室撮影所を経て日活太秦撮影所にいた秋田伸一らが、同社の設立に参加した。
同年は2本の重宗監督作を製作し、翌1936年(昭和11年)には、重宗とおなじ動機で松竹蒲田を退社した豊田四郎が入社、豊田のオリジナル脚本による入社第1作『東京-大阪特ダネ往来』を監督、同作は、同年4月29日に日活の封切館である浅草公園六区の「富士館」ほかで公開された。同年9月23日公開の重宗監督による『剣辰旅ごよみ』が、同社と日活の最後の配給提携作となり、翌年5月までの半年間、同社は作品の製作をストップする。
1937年(昭和12年)3月、東京市世田谷区世田谷4丁目(現在の同区桜3丁目、のちの新東宝第二撮影所、現在のオークラランド)に自社のトーキースタジオを完成[1]、同年5月11日公開の豊田監督の『港は浮気風』から「東宝映画配給」が配給することとなる。豊田監督の傑作として名高い『若い人』は同年製作された。同年9月10日、「東宝映画配給」は4社合併で「東宝映画」となるが、同社の配給体制はつづいた。
1938年(昭和13年)、重宗が「重宗和伸」と改名し、プロデューサーに回り、豊田四郎と阿部豊の作品を製作した。また同年いっぱいをもって八田が同社を離れ、「東宝映画東京撮影所」(旧ピー・シー・エル映画製作所、現在の東宝スタジオ)に移籍する。またこれに合わせて大日方も同時に移籍した。この後八田に代って製作部長に就任したのが、おなじく脚本家の八木保太郎[1][3]で、日活多摩川から移籍した。このころの体制は、所長・重宗和伸、所長秘書兼宣伝部長・池田一夫、経理部長・村田精孝、契約監督・阿部豊および豊田四郎、契約脚本家・八田尚之および八木保太郎、企画嘱託・高見順という陣容であった[4]。
1939年(昭和14年)は文部省の企画で『松下村塾』を製作するに留まったが、1940年(昭和15年)から巻き返しが始まる。豊田監督の傑作として知られる『小島の春』など、八木脚本作品が連打された。翌1941年(昭和16年)11月7日、豊田監督・八木脚本の『わが愛の記』をもって、同社は製作を終え、東宝映画と合併した。同社のスタジオは、「東宝映画第三撮影所」となった。
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