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1906年(明治39年)12月25日、長野県長野市に生まれる。海城中学校卒業[1]。
1925年(大正14年)、築地小劇場に入団し、『瓦斯』の再演で初舞台を踏む[2]。1929年(昭和4年)、小劇場の分裂により滝沢修らとともに東京左翼劇場に参加。後に非合法のオルグ活動に専念[2]。1934年(昭和9年)、村山知義らの新協劇団に参加し[2]、菊池寛作『父帰る』の新二郎役や山本有三作『同志の人々』の田中瑳磨介などを演じる[3]。1935年(昭和10年)、J.O.スタヂオ製作の『百万人の合唱』で映画に初出演する。1940年(昭和15年)8月19日、新劇弾圧で滝沢や三島雅夫、小沢栄、宇野重吉らとともに治安維持法違反で検挙され、劇団は強制解散させられる。
戦後は第2次新協劇団、文学座を経て、1952年(昭和27年)に劇団民藝へ入団。『民衆の敵』『遠い凱歌』等の舞台に出演し、民藝がユニット出演した吉村公三郎監督の映画『夜明け前』では青山吉左衛門を演じた。映画にも脇役で出演しており、のちに日活の専属となって『神阪四郎の犯罪』『青年の樹』などに出演した。
1960年(昭和35年)4月29日、NHK大阪放送局でテレビドラマの本読み中に脳出血で倒れ、大阪日赤病院に入院したが、5月6日に死去[3][4]。53歳没。最後の舞台は4月の民藝公演『どん底』のクレーシチ役。没後に千代田区平河町の砂防会館で劇団葬が行われた[3]。
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