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八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 - 1965年5月12日)は、日本の脚本家である。新派、新国劇、芸術座、前進座、井上正夫一座、移動演劇隊などあらゆる分野で上演され、映画化も多数なされた。本名・財一郎。
秋田県能代市出身。本名:八木財一郎。3歳で母とともに函館に転居し、函館幸尋常高等小学校に通う[1][2]。函館商業学校卒[3]。高校入学後文芸活動を始め、弁論部にも所属し、親しい後輩に本田延三郎、東出三郎(のちニッポン放送副社長、アジアビジョン会長)がいた。在学中に受洗しクリスチャンとなる[1]。1923年高校卒業後、函館大火により五所川原に転居していた母の元に移り、金木町の組合立明治高等小学校に代用教員となったが、翌年の廃校に伴い、五所川原に戻って竹内俊吉らと文学サークルを結成[4]。代用教員時代は同じく文学を志す金木出身の太宰治としばしば交流した[5]。
1925年に文学を志して上京し、本屋やポンプ屋などの店員をへて水守亀之助の書生となり、水守主宰の文芸誌に小説を発表、隆鬼堂のペンネームで戯詩も発表する[1]。1927年に母を亡くし、翌年より少年少女小説や童話などの執筆で自活を始める[1]。
プロレタリア演劇運動に身を投じ、1929年より東京左翼劇場所属、同年国民新聞の懸賞小説に入賞、1930年に地下活動に入り、翌年検挙留置、1932年より新築地劇団に所属し日本全国を巡業、1933年には石井漠舞踊団とともに満州にまで巡業した[6][1]。1934年「蟷螂」で戯曲家としてデビュー[7]。
1936年、アイヌを題材にした『熊の唄」を井上正夫の演劇道場で上演し、新進劇作家として注目され[7]、本作は1937年に映画化される[3]。1940年に左翼新劇界の代表格新協劇団と新築地劇団などの演劇人が一斉検挙され、八木も逮捕されたが早期に釈放された[8]。戦時中から今井正監督とコンビを組んだ。
戦後は新派や新国劇向けの脚本を書き、映画やラジオドラマの脚本を手がけた。1953年にはNHK放送文化賞を受賞[1]。1965年脳溢血により死去[1]。1967年、青年期を過ごした五所川原に詩碑が建立された(のちに碑の周辺が造成され八木児童公園と命名)[1]。
(熊の唄,海の星,焔の人,沼津兵学校,母の絵本,湖の娘,故郷の声,命美わし,女の決闘,湖の声,風の鶏)
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