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日本廻国大乗妙典六十六部経聖(にほんかいこくだいじょうみょうてんろくじゅうろくぶきょうひじり)とは、法華経を66部写経し、日本全国を巡って66の国々(壱岐国・対馬国を除く)の寺社に納経する修行者のこと。略して六十六部廻国聖(ろくじゅうろくぶかいこくひじり)とも呼ばれ、江戸時代には更に略されて六十六部(ろくじゅうろくぶ)もしくは六部(ろくぶ)と呼ばれた。
その起源は不明であるが、66か国全てに設置されていた国分尼寺が「法華滅罪之寺」と称されて法華経を奉じていたとの関係しているとする説がある[1]。恐らくは法華経の書写による作善と廻国の苦行によって滅罪の功徳を得るための行動であったと考えられている[2]。少なくても14世紀にはその活動が確認できる[2]。
各国に設けられた霊場に納経場所が設けられ、鉄塔の中に経筒を入れて納経したり、地面に経筒ごと埋めたりした[2]。
江戸時代には犯罪を犯して故郷を捨てて諸国を巡る聖もおり、六十六部や六部という略称はこうした聖に対して貶められた表現であるとする説もある[1]。勿論、贖罪意識を持って諸国を巡る者や純粋な信仰目的で俗世を捨てて諸国を巡る者も存在していた[1]。また、経典そのものではなく、納経札を納めることが一般的になった[1][2]。
廻国の途中で地元の人に引き留められた聖が地元の堂庵に定住することもあった。そうした聖が勧進を行って他の聖のために「廻国供養塔」と呼ばれる供養塔を立てたり、途中で行き倒れた聖のために「六部墓」「六部塚」と呼ばれる墓が立てられることがあった[1][2]。京都郊外鳥辺野にあった時宗寺院の宝福寺が行き場のない聖の終焉の場所を提供していたことが知られている[1]。
66か国の霊場について、本来は国分尼寺がそれに相当した可能性もあるが、実際にはその大半が早い時期に廃絶している。そうした背景もあってか、66か国全てに存在していた一宮を霊場にしていたとする説がある。しかし、現実には何処を霊場とみなすかは諸説あって確定したものではない。そもそも、霊場とされている場所には寺院も神社が混ざっており、選定の基準も定かではない(これとは別に明治の神仏分離令で寺院であったものが神社に改組されて現存している所もある)。例示として天野信景が著した『塩尻』には宝永期(18世紀初め)に行われた六十六部の順拝路として記載されたものを下記に示す(あくまでも一説であることに注意)[2][3]。
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