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川本 征平(かわもと しょうへい、1938年[1] - 2023年10月15日[1])は、日本の男性アニメーション美術監督、アトリエローク元代表取締役、杉並アニメ振興協議会会長である[2][3]。島根県出身[4]。
広島県立広島工業高等学校建築科卒業後、地元の建設会社に就職するが、数ヶ月で退職する[5]。姉夫婦を頼って大阪に移り、美術系の大学に進学するため関西美術院でデッサンなどを学ぶ。武蔵野美術学校[6][7]に入学後、上京する。
卒業後はアルバイトでピー・プロダクションに入り、アニメの背景を描き始める[8]。その後、武蔵野美術学校の同期である半藤克美(スタジオユニ創業者)に誘われ、東京ムービーに入社[9]。美術のみならず、藤岡豊のアシスタントとして営業にも同行した[9]。1967年頃に一度アニメ業界を退き、メキシコに渡って約1年間マヤ遺跡の拓本を取る仕事に従事する[9]。帰国後はムクオスタジオや現代制作集団の協力スタッフを経て、藤岡からの仕事のオファーに応えるため、1969年に仕事仲間と「有限会社アトリエローク」を設立する[10]。
代表作の1つである『ドラえもん(第2作第1期)』では、リニューアルされる2005年まで25年間美術設定を務めた[6]。また、1980年に公開されたドラえもん映画作品第1作『ドラえもん のび太の恐竜』から1985年に公開された第6作『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』まで美術監督を務め、同シリーズ初期の世界観構築に携わった[6]。なお、川本は『ドラえもん(第1作)』でも美術監督も担当(鈴木森繁と共同)しているが[11]、制作会社の日本テレビ動画が放送中に解散したことから、最終2話分ほどのギャラが宙に浮いてしまった。管財人と交渉したものの、結局1円も支払われずに終わったという[12][13]。第1作を快く思わなかったとされる藤子・F・不二雄には参加していた事実を伏せていた[13]。
2001年8月7日に設立された杉並アニメ振興協議会の会長に就任し、制作会社・スタジオの連携を図り経営改善や人材育成などに努めたほか[14][3]、同協議会を窓口とするオリジナルタイトル開発やアニメーション制作に携わる[15]。また、下請け会社のモチベーションを向上させるためにIPビジネスの教育に努めると同時に、「杉並ブランド」としてアニメーション制作を新たな地場産業とするべく川本はその整備に努めた[16][17]。
2002年、東京都杉並区の援助で設立された「杉並アニメ匠塾」では、「世界に冠たる日本アニメの実情は虫食いだらけ。人材は育っていないし、作品の質も低下している」との理由からアニメーターの養成を始める[1][17]。
2003年、「アニメらしいアニメを子供たちに見せたい」[7]、「自然破壊のあおりでカエルは激減している。子どもたちに環境問題に関心をもってもらうには格好の題材」などという理由から[18]、川本自らオリジナルタイトルを考案し[注釈 1]、「杉並ブランド」として『サヨナラ、みどりが池 ~飛べ!凧グライダー!!~』を製作した[7][注釈 2]。また、2006年には杉並区内の全小・中学校に頒布された文庫本を原作とする[21]、第2作『ココロマメ』の制作に携わった[21][注釈 3]。
2007年、有限会社アトリエロークを「株式会社アトリエローク07」へ改組すると同時に、代表取締役を同社スタッフの森元茂に引き継がせた[24]。以後はアニメ業界の第一線を退き、画家として活動する。
2018年3月、東京アニメアワード功労部門を受賞する[25][26]。
2019年4月18日から同月24日まで、新宿区のギャラリー絵夢にて「川本征平展」が開催された[27]。
2023年3月10日、第46回日本アカデミー賞特別賞を受賞される[6]。同年10月15日、収縮性心膜炎のため死去する。84歳没[1]。
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