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秋田市の北東部、旭川の上流に位置する。北東から南西へ向けて旭川が流れ、南北を尾根に挟まれた谷地である。旭川と並行して秋田県道15号秋田八郎潟線が貫通し、田中・藤倉・小田などの集落や農地が点在する。上台・大畑・小田の境界付近に、近代化遺産指定された藤倉水源地がある。また、丸木橋に秋田東病院がある。
北東(旭川上流)は仁別、東・南東は太平八田、南は柳田,南西(旭川下流)は添川、西は上新城道川、北西は上新城湯ノ里、北は上新城白山に接する。
12の小字が設置されている[3]。
出羽国秋田郡助河村として成立したとされる。山内の名は南北朝時代から確認され、1349年(貞和5年 / 正平4年)に月泉良印が「山内邑奥松原之郷」に曹洞宗亀像(蔵)山補陀寺を開いたとの記録が初見である[4]。旭川沿いの道の他、秋田城・土崎港から新城川を遡り山を越える道もあり交通の便が良いため、古代から拓けていた[4]。
戦国時代の1591年2月10日(天正19年1月17日)、「豊臣秀吉朱印蔵入帳写」に「山内村 172石余」とあり、1597年(慶長2年)時点での物成は40石、翌1598年(慶長3年)には10石であった[4]。また、1592年9月27日(文禄元年8月22日)の「秋田家分限帳写」では、鍋倉右近代官所のうちに「山内村 240石」とある[4]。
江戸時代には久保田藩領で、1603年(慶長8年)の村高は143石と推定されている[4]。「正保国絵図」では山内新田村の本田当高141石とされているが、「元禄七郡絵図」では265石と増大している[4]。「享保黒印高帳」では村高248石余・当高228石余(うち本田144・本田並38・新田46)[4]。「享保郡邑記」では59軒あって、うち枝郷の藤倉・石上・下台・種台の4ヶ村分が38軒となっている[4]。「寛政村附帳」では親郷泉村の寄郷とされ、当高203石余(うち蔵分146、給分57)[4]。「秋田風土記」では78戸(枝郷4戸)があり、230石[4]。「天保郷帳」では228石余で、この頃の人口は380人・馬60頭であった[4]。
地区内で区画整理・住居表示実施などに伴う字名・町名の変更は行われていない。
かつては仁別森林鉄道で、沿線住民の利便のために旅客列車も走っていたが、現在地区内に鉄道路線は通っていない。最寄り駅は中通七丁目にあるJR東日本奥羽本線・羽越本線・秋田新幹線の秋田駅。
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