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日本のアナウンサー ウィキペディアから
小川 宏(おがわ ひろし、1926年〈大正15年〉4月17日 - 2016年〈平成28年〉11月29日[1])は、日本のフリーアナウンサー・司会者。元NHKアナウンサー。東京都墨田区出身。
東京府南葛飾郡寺島村(後の東京市向島区、現:東京都墨田区東向島)生まれ。東京府立第七中学校(現:東京都立墨田川高等学校)を経て早稲田大学専門部工科建築科を卒業後、一旦間組(現在の安藤ハザマ)に入社するも半年で退職。NHKには二次募集で1949年に入局した。同期には八木治郎、大塚利兵衛、福島幸雄、穂坂俊明がいる。鶴岡放送局、郡山放送局(現在はいずれも支局)に勤務後、1952年より東京勤務となる。
1955年より『ジェスチャー』の4代目司会者として10年にわたって活躍。同番組における圧倒的な知名度を背景に1965年1月にNHKを退職。 この退職は、他局でワイドショー番組が盛んになる中、遅れを取ったフジテレビがホスト役を求めて引き抜いたとされている[2]。専属契約を結び、1965年より『小川宏ショー』の総合司会を通算17年務め、4451回という金字塔を打ち立て、「人名を冠した番組の最長寿記録」としてギネスブックから認定・掲載された(後に『森田一義アワー 笑っていいとも!』総合司会のタモリがこの記録を塗り替えている)。
穏やかな雰囲気や話術は主婦層にも長く支持され、この点から「春の小川」なる異名を取るようになった(黒柳徹子の発言に端を発するとされる)。同番組には朝の生放送番組であるにもかかわらず、上記の黒柳をはじめ、杉村春子、高峰三枝子、石原裕次郎、長嶋茂雄、前田武彦、永六輔などの大物ゲストが多数出演しており、これも小川の司会ぶりに対する信頼の高さを裏付けるものとなった。
『小川宏ショー』終了後、うつ病を発症し自ら克服、その体験談を出版し、後にその経験を元に講演活動を行うなど活躍している。
二女の夫は作曲家の中山大三郎。2005年に中山が死去した後は中山が遺した作品は現在全て小川や二女や孫、中山の弟たちが権利を保管している。
読売新聞などのテレビ欄の投稿コーナーに「アナウンサー」として投稿することもある。また、読売の一般投稿気流欄には一国民として投稿している。
幼馴染の3代目三遊亭圓歌によると、小川は元々吃音者であり、圓歌が真似をしているうちに同じく吃音者になってしまい、それが圓歌を落語家にするきっかけとなったという[3]。とある機会にアナウンサーと落語家として再会した時にはお互いに驚いた、と圓歌は「中沢家の人々」の中で話している。
NHK時代には先輩アナウンサーからは「小川ちゃん」と呼ばれ、可愛がられた。
また、NHKの7年先輩で、日本のフリーアナウンサーの先駆的な存在である高橋圭三からは「顕微鏡で調べて望遠鏡で放送しろ」とアドバイスされたという[4]。
NHK(日本放送協会)在職時代
フジテレビ専属契約時代
期間 | 番組名 | 役職 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1965年5月3日 | 1982年3月31日 | 小川宏ショー | 司会 | |
1986年10月 | 1987年3月 | 黄金世代! | ||
1987年4月5日 | 1992年3月29日 | 小川宏の日曜TOP情報 | 1990年4月8日から同年6月24日までおよび同年12月9日から1991年1月13日までの間は、都合に伴い一時休養 |
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