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日本の史書 ウィキペディアから
『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、さきのよのふることのふみ、先代舊事本紀)は、日本の神代から古代を扱った史書である。『旧事紀』(くじき)あるいは『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう[1]。
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 (2018年11月) |
平安時代初期に突如現われ、現在では偽書であることが学界の通説となっている[2]。しかし、平安中期以降長らく「我が国最初の史書」として信じられ、『古事記』や『日本書紀』と並ぶ重要な古典として扱われてきた[3]。とりわけ一部神道関係者の間では神典として尊重された[4]。また、後代の人物による創作ばかりではなく内容の一部には平安以前からの伝承を伝えたものもあるのではないかとして、今日なお研究対象として評価する学者もいる[2]。
全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。著者は不明だが、「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せるところから[5]、著者は物部氏の人物であるという説もある。
蘇我馬子による序文によれば、「推古天皇の勅を奉じて聖徳太子と蘇我馬子が620年に編纂にとりかかり、622年に完成した」という[6][7][8]。実際には、平安時代初期に成立したとされる[2][7][9]。同書が出現した時点で既に成立から3世紀経っていたことになるがさして疑われることもなく、中世を通じ長く史書として扱われ、また、とりわけ伊勢神道・吉田神道では重要な教典的地位を与えられてきた[10]。
本文の内容の多くが『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』を元にしたものとなっている[8][11]。
江戸時代にまず水戸光圀が中世の偽書とし、国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによっても偽書とされた[12][13]。かつての権威は揺らいだものの擁護する者も多かった。近年序文は後世に付け足された偽作であるものの[14][15][16][17][18][19]、本文に独自の内容もあり、それらが全てが偽造であるとは言い切れないとし、とくに、巻五の「天孫本紀」は尾張氏・物部氏の系図をのせ、巻十の「国造(こくぞう)本紀」も古い家伝の資料によっているのではないかとして研究資料として評価する者もいる[20][21][22][23][24][25]。
本書の実際の成立年代については推古朝以後の『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、延喜の頃に矢田部公望が元慶の日本紀講筵における惟良高尚らの議論について『先代旧事本紀』を引用して意見を述べていること[26]、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年 - 938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、三上喜孝は『先代旧事本紀』は大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前と推定している[27]。
一方で、藤原明は、矢田部公望が実際に公にこの説を持ち出したのは彼が行った承平の日本紀講筵(936年)からであるとし、矢田部自身の血統がこの書によれば上がることを指摘して、それよりあまり早い段階で十分に完成していたかについては懐疑的である。(参照:#藤原明の偽書説)
編纂者の有力な候補としては、平安時代初期の明法博士である興原敏久(おきはらのみにく)が挙げられる。これは江戸時代の国学者・御巫清直(みかんなぎ きよなお、文化9年(1812年) - 1894年(明治27年))の説である[33]。興原敏久は物部氏系の人物(元の名は物部興久)であり、彼の活躍の時期は『先代旧事本紀』の成立期と重なっている。
編纂者については、興原敏久説の他に、石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。
佐伯有清は「著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族か。」とする[5]。
御巫清直は『先代旧事本紀』の本文は良しとするが、序文は矢田部公望が904年 - 936年に作ったものとする[33]。安本美典は『先代旧事本紀』の本文は興原敏久が『日本書紀』の推古天皇の条に記された史書史料の残存したものに、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文章、物部氏系の史料なども加えて整え、その後、矢田部公望が「序」文と『先代旧事本紀』という題名を与え、矢田部氏関係の情報などを加えて現在の『先代旧事本紀』が成立したと推定している[34]。
現在、欠けて伝わらない。
ニギハヤヒ神話、出雲の国譲り。
出雲神話。
国造家135氏の祖先伝承。
序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に今井有順、徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らからは偽書とされたが、国学者の橘守部は『旧事記直日』で「元本があったはずであり、それは偽書でない」とし、伊勢神宮の社家出身の御巫清直は『先代旧事本記析疑』でやはり『先代旧事本紀』を擁護している[2]。
近世はもとより近年に至るまで、「序文は後世付け足されたものだが、それ以外は価値があるのではないか」として再評価を試みる者も多い[14][18][19]。来歴の記載がある序文が偽りなら『先代旧事本紀』全てを偽書とみなすのに問題はないという意見や、聖徳太子がかつて撰んだと仮託された書物という意見[35]もある。『先代旧事本紀』は元々存在した本文へ後世になって聖徳太子の序文が付け加えられたとみるとしても「偽書」の定義「偽書 imposture すでに滅んで伝存しない作品,あるいは元々存在していない作品を,原本のように内容を偽って作成した本.仮託書(かりたくしょ)ともいう.それに対して,刊本や奥書などを偽造したり,蔵書印記を偽造して捺印したりして,古書としての価値を高めようとしたものは,偽造書,偽本,贋本(がんぽん)という.[36][37]」に依れば「偽造書,偽本,贋本」に相当するといえる。鎌田純一は「しかしその一方で新井白石はこれを信頼しているし、その後の水戸藩でも栗田寛などは「国造本紀」、あるいは物部氏の伝記といったところを非常に重視しています……ですから完全に偽書扱いされてしまうのは、江戸時代というよりも、むしろ明治からあとのことでしょう[38]」と述べている。
藤原明は、『旧事紀』は承平6年(936年)の日本紀講(『日本書紀』講)の席で矢田部公望によって聖徳太子勅撰として突如持ち出された書物であり、その後、本書は『日本書紀』の原典ともいうべき地位を獲得したが、矢田部公望が物部氏の格を上げるために創作した書物である可能性が高く(矢田部氏は物部氏の一族である武諸隅を遠祖とし、氏族重視の当時の社会では朝廷内での出世に影響をもたらしたことを指摘している)、実際に創作したのは別の人物の可能性もあるが、物部氏か矢田部公望に近い筋の者であろうと推定して、本書は偽書であるとしている[2]。
『旧事記』の本文に価値を見出そうとする主張に対し、実証的研究により本文にも様々な誤りが見つけ出されていること、また、擁護派がしばしば重視する尾張氏と物部氏の関係について尾張氏の祖である天火明命(日本書紀では瓊瓊杵尊の第三子)と物部氏の祖である饒速日命は本来別の神であるとして、批判している[2]。
序文には推古28年(620年)に推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著し、推古30年(622年)完成したものとある。
時に小治田豊浦宮に御宇し豊御食炊屋姫天皇即位し二十八年歳次庚辰春三月の甲午朔戊戌に、摂政めたまふ上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊命す。大臣蘇我馬子宿祢等、勅を奉りて撰び定む……時に、三十年歳次壬午春二月の朔己丑是なり — 『先代旧事本紀』序文[42]
このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。
しかし、推古朝以後の『古語拾遺』と酷似した箇所があり、『古語拾遺』[43]が『先代旧事本紀』[44]を引用したのではなく『先代旧事本紀』が『古語拾遺』を引用したと考えられたため、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになる。
又令天富命率齋部諸氏作種種神寶鏡玉矛盾木綿麻等櫛明玉命之孫造御祈玉(古語美保伎玉言祈祷也) — 『古語拾遺』[43]
複天留(富)命率齋部諸氏作種々神寶鏡玉矛盾木綿摩(麻)等 複櫛明玉命孫造新玉古語美保代(伎)玉是謂新(祈)諱矣 — 『先代旧事本紀』[44]
御巫清直も『先代旧事本紀析疑』にて推古朝以降の記載を指摘している[15]。
江戸時代・延宝年間に著された偽書・『先代旧事本紀大成経』の影響で、その発想の元に使用された『先代旧事本紀』への評価も下がった。『先代旧事本紀大成経』は僧侶・潮音と伊勢神宮別宮の祠官が著述したもので、伊勢神宮・幕府を巻き込む大事件となり著者2名は流罪となった[49]。神官47名が伊勢志摩国から追放となり禁書とされたが版木は残り、三十一巻本・七十二巻本・三十巻本として伝わっている[50]。
御巫清直は著書『先代旧事本紀析疑』にて「序文が悪いのであり、それを除けばどこにも偽作と見なすべき理由はない」と見なし、1947年飯田季治は『標注先代旧事本紀』の解題で偽書説を批判し、1958年G.W.ロビンソンは『旧事本紀攷』[51]にて「『日本書紀』が部分的には『先代旧事本紀』を材料にしたとする説」を著した[18][52]。
1962年鎌田純一の『先代旧事本紀の研究 研究の部』[16]・『校本の部』[53]は「研究対象としての『先代旧事本紀』の復権は、鎌田の著作なしにはあり得ないことであった」と評価されている[19]。鎌田純一は、先に成立していた本文部分に後から序文が付け足されたために、あたかも本書が成立を偽っているような体裁になったとして、本文は偽書ではないと論じた。鎌田は序文に関して、奈良・平安初期の他の文献の序文と比べると文法が稚拙であること、延喜4年(904年)の日本紀講筵の際に『古事記』と『先代旧事本紀』はどちらが古いかという話題が出ていること(当時すでに序文が存在していたならそもそもそのような問いは成立しない)、鎌倉時代中期の『神皇系図』という書物の名を記していることを指摘し、序文の成立年代を鎌倉時代以降とした。すなわち、9世紀頃に作られた本来の『先代旧事本紀』には製作者や製作時期などを偽る要素は無かったということである[16]。2001年の上田正昭との対談では、序文が付け加えられたのは「古代末期か中世初期」と述べている[54]。
近年上田正昭、鎌田純一、嵐義人、古相正美その他の研究者は「偽作は後から付け足された序文のみだ」と考えている[15][18][17][19][38][55]。
……承平六年(九三六年)、朱雀天皇のときの講筵では、矢田部公望が講義をしているのですが、そこで『古事記』と『旧事本紀』とどちらが先に成立したのかということについて語っています。矢田部公望は「先師の説に曰く」として、醍醐天皇のときに講義をした藤原春海は、『古事記』の方が先で『旧事本紀』の方があとだと言っていたと述べています。そしてそのうえで、自分は、『旧事本紀』の方が先で『古事記』の方があとだと思うと自らの考えを言っているのです。こういうことが書かれているということは、藤原春海、矢田部公望のときには、まだ序文が付いていなかったと考えられます。もしも序文が付いていたのなら、「序文にこう書いてあるではないか」[注 7]と論じるはずなのですが、そういうことを一切論じていない。したがって、この当時は序文はなく、序文はその後の時代に付け加えられたものだと考えられるのです。
それに國學院におられた岩橋小弥太先生も言っておられますが、序文がいかにも稚拙だということです。文章になっていない。 — 鎌田純一[38]
問。本朝之史以何書爲始乎。師説。先師之説。以古事記爲始。而今案。上宮太子所撰先代舊事本紀十卷 — 矢田部公望[59]
以上の点から「904年延喜の日本紀講筵の際には『先代旧事本紀』に序文は無く、その間に序文が添えられた」とする学者たちがいる[38][17][16][18][19]。
本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。
巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」の一部、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」の尾張氏、物部氏の伝承(饒速日尊に関する伝承等)と巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられる。「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるとする意見もあり、国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見もある。
『先代旧事本紀』は序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したものとあるため、中世の神道家などに尊重された。例えば鎌倉時代の僧・慈遍は、『先代旧事本紀』を神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、度会神道に影響を与えた。伊勢神道を確立した外宮祠官渡会氏は神典ともいうべき扱いをした[2]。また、室町時代に吉田兼倶が創始した吉田神道でも『先代旧事本紀』を重視し、記紀および『先代旧事本紀』を「三部の本書」としている[10]。
江戸時代には『先代旧事本紀』を基盤にして、『先代旧事本紀大成経』(延宝版(潮音本、七十二巻本))、およびその異本である『鷦鷯(ささき、さざき)伝本先代旧事本紀大成経(大成経鷦鷯伝)』(三十一巻本、寛文10年(1670年)刊)、『白河本旧事紀』(伯家伝、三十巻本)などが創作されたと言われ、後に多数現れる偽書群「古史古伝」の成立にも影響を与えた[2]。
日本における古典言語の研究でも、例えば神名の出典として『先代旧事本紀』が用いられている例がある[75]。また、幕末にホフマンが著した『日本語文典例証』と『日本語文典』には、『古事記』や『日本書紀』などのほか、『和名類聚抄』や『倭訓栞』などの辞書類、そして『先代旧事本紀』が利用されている[76]。
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