興原敏久
平安時代初期の貴族・法律家 ウィキペディアから
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興原 敏久(おきはら の みにく/としひさ)は、平安時代初期の貴族・法律家。姓は物部(無姓)のち(物部)中原宿禰、興原宿禰。官位は正五位上・大判事。
三河国出身。
延暦年間末期より明法家として知られるようになり、大同年間初期に大宰少典・左大史を歴任する。大同3年(808年)外従五位下・大外記に叙任され、遅くても弘仁2年(811年)までには明法博士に任じられていた。弘仁4年(813年)物部(無姓)から物部中原宿禰に改姓すると共に大判事に任じられる。
弘仁7年(816年)上総国夷灊郡で税長・久米部当人が放火により官有物を焼失させた上で自殺したことから、法律家として見解を述べた[1]。
弘仁10年(819年)従五位下、天長元年(824年)従五位上、天長4年(827年)正五位下、天長7年(830年)には弘仁格式撰修の功労によって正五位上に叙されるなど、嵯峨朝末から淳和朝にかけて順調に昇進を果たした。また、嵯峨朝では藤原冬嗣の元で『弘仁格式』の、淳和朝では清原夏野に元で『令義解』の撰修に参画している。特に『令義解』の撰修においては、編者における明法家(ほかに讃岐永直・川枯勝成・漢部松長)の筆頭として、敏久の解釈が『令義解』の注釈をリードしたと想定される[2]。
一説では、嘉祥2年(849年)7月20日卒去。享年62[3]。
『令集解』に載せられている「物記」「興大夫云」「原大夫云」「物云」は敏久の発言・学説を引用したものとされている。また、その明法勘文は『法曹類林』や『政事要略』にも採録されている。
注記のないものは『六国史』による。
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