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日本の茶人(1923-)、茶道裏千家15代 ウィキペディアから
千 玄室(せん げんしつ、1923年〈大正〉12年)4月19日 - )は、茶道裏千家前家元15代汎叟宗室。斎号は鵬雲斎。若宗匠時代は宗興。現在は大宗匠・千玄室と称する。「玄室」の名は、裏千家4代目の仙叟宗室が宗室襲名前に玄室と名乗っており、これに因んで12代直叟宗室が隠居した際に玄室を名乗ったことに由来する[要出典]。本名は千 政興。青年時代には大日本帝国海軍に特攻隊員として入隊した経験を持つ。メディアなどを通し、戦争体験者の1人として実体験を語り継いでいる。最終階級は海軍少尉。
京都大学大学院特任教授・大阪大学大学院客員教授として、伝統芸術研究領域における指導に当たるほか、外務省参与(2019年3月31日まで)[1]、ユネスコ親善大使、日本・国連親善大使[2]、日本国際連合協会会長、日本オリンピック委員会名誉委員、日本会議代表委員、日本馬術連盟会長[3]、京都サンガF.C.取締役などを務めている。
妻は塚本商店会長・塚本定治郎(4代塚本定右衛門)の三女登三子(1930年 - 1999年)。長男は現家元16代玄黙宗室。次男は伊住政和(1958年 - 2003年)。父は14代碩叟宗室(通称・淡々斎宗室として知られる)。母は千嘉代子。姉は茶道家・冠婚葬祭評論家の塩月弥栄子。次弟は納屋嘉治・淡交社社長(1925年 - 2004年)。孫に千敬史、伊住公一朗、伊住禮次朗。
同年生まれ(学年は玄室が1年下)の俳優である西村晃とは舞鶴海兵団で出会い、特攻隊の編成の際にも同じ隊に所属していた。特攻作戦の実行が近づいたため徳島から串良海軍航空基地に移動する日、飛行訓練後に自分達が乗る飛行機の機体の傍で手持ちの道具と配給の羊羹で5人の隊員全員と茶会を催した事は、戦後西村の述懐・自身の著作や講演などで広く知られる。終戦直前に鹿屋から松山の基地への転属が命じられたため西村とは別れることとなった。戦後の1946年(昭和21年)に偶然にも用事で文部省の建物の前にいた玄室は、メーデーで演劇関係者が結成した労働組合の行列の中から大声で名前を呼ぶ声があり西村と再会を果たすこととなったが、この時まで西村は出撃により既に亡くなったものと思っていたという。西村は出撃したが機体故障の為引き返し、また玄室自身は出撃する事が無かったため、同隊ではこの2人のみが生還した[12][13]。1997年に西村が死去した際、生前の約束(どちらかが亡くなった場合、残された者が葬儀委員長を務める)に従って葬儀委員長を務めた[14]。
テレビ時代劇「水戸黄門」の印籠シーンが午後8時45分前後に固定されるようになった背景には玄室が印籠シーンの時間を一定にするよう西村に依頼したことがあるという説があるが、玄室によると、依頼したことは事実だが西村はそのことをスタッフに伝えなかったそうである。
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