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秋田県秋田市にある大字 ウィキペディアから
八橋(やばせ)は秋田県秋田市にある大字。郵便番号は010-0975。住居表示未実施地区。大字八橋に由来し「八橋」を冠した町名を持つ地区の総称でもある。大字八橋と各町を合わせた人口は9,265人(2020年10月1日現在、住民基本台帳人口調査による[1])。
本稿では、交通・施設の節に於いては現在の大字八橋を対象とし、その他の節に於いて特に明記しない場合は分割前の大字八橋(地域総称としての八橋に大体一致する)を対象とする。八橋を冠する各町については八橋イサノ・八橋運動公園・八橋大沼町・八橋大畑・八橋新川向・八橋大道東・八橋田五郎・八橋鯲沼町・八橋本町・八橋南・八橋三和町を参照。
秋田市の中央部に位置する。南部の秋田県道26号秋田停車場線(山王大通り)沿いに八橋運動公園がある。南西部の国道7号(秋田北バイパス)沿いや北東部の秋田県道56号秋田天王線(新国道)沿いは商業地で、専門店が多い。その他の地域は主に住宅街となっている。東は高陽、南東は山王、南西は川尻、西は秋田運河を挟んで新屋、北西は寺内、北東は泉と接する。
かつては字イサノ(いさの)、字一里塚(いちりづか)、字戌川原(いぬかわら)、字片田添(かただぞえ)、字下八橋(しもやばせ)、字大道東(だいどうひがし)、字田五郎(たごろう)、字八橋(やばせ)の8つの小字が存在したが、1982年(昭和57年)以降は地域の大半が住居表示実施に伴い独立した町丁となって大字から離脱しており、2010年時点で大字八橋として残存している地区は字イサノと字下八橋の分断された2ヶ所のみである。字イサノは八橋地域北部の草生津川左岸に位置し、北・東は寺内字イサノ、南は八橋イサノ二丁目、西は寺内堂ノ沢三丁目と接する。字下八橋は八橋地域西部の草生津川右岸河口に位置し、草生津川・秋田運河・国道7号に囲まれた範囲で、北西は寺内字蛭根、北は寺内蛭根一丁目、東は八橋本町六丁目、南は川尻町字大川反、西は新屋町字砂奴寄と接する。
江戸時代には久保田城から土崎港方面へ向かう羽州街道の、久保田を出て最初の集落であった。当地に一里塚(八橋一里塚)が存在し、塚は現存しないものの「八橋一里塚」交差点に標柱が立てられている。また多くの寺社も置かれており、日吉八幡神社(山王権現)は久保田町人町(外町)の鎮守、毘沙門社は保戸野足軽町の鎮守として参拝客を集め、沿道には茶屋が軒を並べていた。草生津川の対岸に草生津刑場があり、架けられている橋は罪人が最期に自分の姿を水面に映す場所として「面影橋」と呼ばれるようになった。
草生津川周辺には油田が存在し、1868年(明治2年)から採掘が行われていた。土崎港に大規模な製油所があり、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月14日にはアメリカ軍による空襲を受けている。戦後も油田開発が続けられ、昭和30年代には国内最大の産油量を誇っていた。現在は全盛期の10分の1未満にまで規模を縮小しているものの、採掘は継続されている。
京都伏見稲荷大社の伏見人形の流れを汲む土人形。安永〜天明(1772年〜1789年)頃、伏見から来た人形師が川尻鍋子山付近に窯を開いたのが発祥とされる。雛人形や高砂など様々な種類があるが、八橋本町一丁目に菅原神社があり祭などで求められたことから天神が多い。古いものは伏見人形の影響が強く、明るく華やかなものだったが、明治後期以降は重厚で土臭さを感じさせるものへと変化していった。
明治まではかなりの数の人形店が存在していたが、1942年(昭和17年)時点で道川家、遠藤家、高松家の3軒にまで激減した[3][4]。2014年(平成26年)3月22日に死去した[5]最後の制作者である道川トモが、後継者を育成しようと弟子を募ったり養成講座を開催したりしたが、応募者に対し兼業を認めなかったこともあり定着しなかった[4]。
2015年(平成27年)、かつて道川氏から指導を受けた者達を含む市民有志によって「八橋人形伝承の会」が設立され、伝統を継承していくことになった[6]。
古くは「谷橋」「矢橋」とも表記された。古代秋田城との関係から開村は古いとする説もあるが、「秋田昔物語」に「矢橋村はむかし人家無之候……山王之脇へ新田村御取立可」とあり、久保田藩二代・佐竹義隆の代に拓かれたとされる。1647年(正保4年)の「出羽国一国絵図」には「谷橋新田村」、「元禄七郡絵図」には「上八橋新田村」「古くは谷橋村」との記述がある。1730年(享保15年)の「六郡郡邑記」(享保郡邑記)に「上八橋村・下八橋村、元禄元年の頃田地開発……村名の文字改谷橋村となる故下八橋村の唱を止る」として、上下二村を合わせて谷橋村としたことが記されている(下八橋村は現在の草生津川右岸地域に相当する)。「寛政村附帳」では親郷川尻村の寄郷とされていた。明治に入り、旧称の八橋村に改称した。
以下はすべて住居表示実施に伴う変更。
実施前 | 実施年月日 | 実施後(各町ともその一部) |
---|---|---|
八橋字イサノ | 昭和57年5月1日 | 八橋イサノ一丁目 やばせいさのいっちょうめ |
昭和57年5月1日 | 八橋イサノ二丁目 やばせいさのにちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋大沼町 やばせおおぬまちょう | |
昭和57年5月1日 | 八橋田五郎二丁目 やばせたごろうにちょうめ | |
(残存)八橋字イサノ | ||
八橋字一里塚 | 昭和41年4月1日 | 高陽青柳町 こうようあおやぎちょう |
昭和41年4月1日 | 高陽幸町 こうようさいわいちょう | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町一丁目 やばせほんちょういっちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町三丁目 やばせほんちょうさんちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町四丁目 やばせほんちょうよんちょうめ | |
八橋字戌川原 | 昭和50年5月1日 | 山王中島町 さんのうなかじままち |
昭和51年4月1日 | ||
昭和51年4月1日 | 山王臨海町 さんのうりんかいまち | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町二丁目 やばせほんちょうにちょうめ | |
平成14年9月30日 | 八橋南一丁目 やばせみなみいっちょうめ | |
平成14年9月30日 | 八橋南二丁目 やばせみなみにちょうめ | |
八橋字片田添 | 昭和40年4月1日 | 山王一丁目 さんのういっちょうめ |
昭和41年4月1日 | ||
昭和40年4月1日 | 山王二丁目 さんのうにちょうめ | |
昭和41年4月1日 | ||
昭和57年5月1日 | 八橋運動公園 やばせうんどうこうえん | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町一丁目 やばせほんちょういっちょうめ | |
八橋字下八橋 | 平成14年9月30日 | 寺内蛭根一丁目 てらうちひるねいっちょうめ |
平成14年9月30日 | 八橋本町六丁目 やばせほんちょうろくちょうめ | |
(残存)八橋字下八橋 | ||
八橋字大道東 | 平成14年9月30日 | 八橋大道東 やばせだいどうひがし |
平成14年9月30日 | 八橋本町六丁目 やばせほんちょうろくちょうめ | |
八橋字田五郎 | 昭和57年5月1日 | 八橋イサノ一丁目 やばせいさのいっちょうめ |
昭和57年5月1日 | 八橋大沼町 やばせおおぬまちょう | |
昭和57年5月1日 | 八橋新川向 やばせしんかわむかい | |
昭和57年5月1日 | 八橋田五郎一丁目 やばせたごろういっちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋田五郎二丁目 やばせたごろうにちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町三丁目 やばせほんちょうさんちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町四丁目 やばせほんちょうよんちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町五丁目 やばせほんちょうごちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋三和町 やばせみわちょう | |
八橋字八橋 | 昭和57年5月1日 | 八橋運動公園 やばせうんどうこうえん |
昭和57年5月1日 | 八橋本町一丁目 やばせほんちょういっちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町二丁目 やばせほんちょうにちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町三丁目 やばせほんちょうさんちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町四丁目 やばせほんちょうよんちょうめ | |
昭和57年5月1日 | 八橋本町五丁目 やばせほんちょうごちょうめ | |
平成14年9月30日 | 八橋南一丁目 やばせみなみいっちょうめ |
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