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住宅営団(じゅうたくえいだん)は、1941年(昭和16年)に設立され、全国規模で戦時下の住宅供給事業を行った営団。ポツダム宣言の受諾後の連合国軍最高司令官総司令部指令により閉鎖された。
関東大震災(1923年)の義捐金で設立された同潤会の事業を引き継ぐ形で、1941年に設立された(同潤会は住宅営団発足とともに解散)。同潤会が東京・横浜を対象としていたのに対し、大阪、名古屋、仙台、広島等に支所を置き、全国規模で事業を行った。
初年度は労務者向けの住宅として3万戸の住宅建設を目標に事業が展開され、多くの借家が建設されたほか、同年10月11日には三鷹町上連雀で住宅営団初の分譲が行われた[1]。
第二次世界大戦開戦直前の時期であり、大工などの技能者の確保が難しい状況となっていたため、新たな住宅建設と運営には様々な困難が伴った。このため住宅の広さを9坪、12坪、15坪までの3種に規格化、天井、床、壁をベニヤ板で枠型に作り上げて柱とボルトで組み合わせる工法(プレハブ工法、木製パネル式組立住宅の原型)が編み出された[2]ほか、 住宅の管理者には傷痍軍人(准尉上の将校)を採用し、差配型とならぬよう管理者学校で住宅管理や衛生などの諸法規や知識を2か月間(260時間)講習させた。[3] また、西山卯三を中心に住宅問題の調査、研究が進められ、住み方調査や食寝分離の提案などが行われた。これらハード・ソフト両面の画期的な試みがなされたが、物資不足は如何ともし難く、ほとんど成果を上げることができないまま終戦を迎えた。終戦後は応急簡易住宅の建設を行った。
戦時中は軍需関係の住宅建設が主体だったため、1946年(昭和21年)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令により解散を命じられた。
全国に散在する建設中の住宅、完成住宅の取扱いが問題となったが、建設中の住宅は戦災復興院が責任をもって完成させること、完成住宅は各府県に委譲する方針が決められた。さらに1947年3月末で工事を打ち切るよう指令があり、地方公共団体や日本復興建設株式会社などに工事を引き継ぎ、入居済み住宅は居住者への払下げを進めた[4]。
残余資産を一括競売に掛け、落札資金により建財株式会社を設立。旧営団職員の一部は新会社に引き継がれた。建財株式会社は東京に本社、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡に支店を置き、一般の建設事業、不動産事業を行うほか、住宅営団の債権回収、不動産の整理等を行った[5](横浜の同潤会アパートの管理等も行った)。
東京の同潤会アパートの多くは東京都が管理し、入居者への払下げが進められた。
同潤会と住宅営団は、1955年に設立される日本住宅公団の先駆的な役割を果たしたと言えるが、組織的に直接のつながりはない。
住宅営団が戦中・終戦直後の時期に建設した住宅地では、東京都区内では同潤会から引き継ぐ千住緑町、新宿区百人町住宅(後の通称越冬住宅)、東京都多摩地域では旧北多摩郡武蔵野町(現武蔵野市)の千川堀附住宅(現八幡町住宅地)吉祥寺野田町南・吉祥寺駅北方住宅(現緑町)、武蔵境上水北小金井公園東側住宅、旧大和村南街住宅など、飛行機工場の従業員用の住宅を多く供給した。
仙台市の川内追廻、埼玉県では蕨市稲穂作住宅、茨木住宅地、神奈川県内では古市場、上平間、新城駅前、新作高免、上大岡、六浦三艘、平塚浜岳、相模原、愛知県では明徳南部および北部住宅、中根住宅、本星、堤起、稲葉地、野立、三重県では四日市市常磐城東町、大阪府では堺市初芝住宅(東初芝住宅)、兵庫県では姫路市の野里、苫編、安田、町坪、飾磨恵美酒、中地、福岡県の富野住宅地などがある。
日本統治下の朝鮮においても、1941年6月には朝鮮総督府により朝鮮住宅営団が設立され、1945年まで京城府など朝鮮全土の主要都市で住宅建設を進めた[6]。戦後は大韓住宅公社を経て、現在の韓国土地住宅公社となっている。
(所在地名は戦後のもの)
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