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中国の法制史 ウィキペディアから
律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。
律令の基本思想は、儒家と法家の思想である。儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義である。古代中国には、国家や社会秩序を維持する規範として、礼、楽、刑(法)、兵(軍事)があった。儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじた。刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範であったが次第に令の重要性が増して、律から独立し行政法的なものになった。
律令は魏晋南北朝時代に発達し、7世紀〜8世紀の隋唐期には最盛期を迎え、当時の日本や朝鮮諸国(特に新羅)へも影響を与えた。この時期の中国を中心とする東アジア諸国では共通して、律令に基づく国家統治体制が構築されていたといわれることもあるが、唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである[1]。このような統治体制を日本では律令制(または律令体制)というが、中国にはこのような呼称は存在しない[2]。なお、律令制のあり方は各国により異なる部分もあった。各国の律令制は、およそ8世紀中期〜9世紀ごろに相次いで崩壊または弛緩していった。
律令制という制度は、律令や格式などの法令群により規定づけられていた。これらの法令群の概念を総称して律令法という。つまり、律令法の作用を受けて、律令制という制度が構築されていたのであり、両者は密接な関係にあったと言えるが、両者は別個の概念であり混同しないよう注意しなければならない。東アジア各国で制度としての律令制が崩壊・消滅してしまった後も、法典としての律令法は多かれ少なかれ変質しながらも存続していき、法令としての効力をある程度保っていた。
中国最古の辞書である『爾雅』は、律を常・法、令を告とする。律は恒常的な法律で、令は君主がその都度下す命令である。律は法律と同義で、法律を二分野にまとめる思想はなかった[3]。中国では刑法にあたる部分が先に発展し、春秋戦国時代には各国で盛んに刑律が作られた[4]。律は戦国時代に法家によって整備され、商鞅のもとで秦の国制の根幹をなした。この律は刑罰を重視してはいるが、民政に関するものも含んだ。それに対し、令は単行法として雑多にわたるもので、後代の律令制度でいうと格にあたるものだった。
律と令の関係が変化し、刑法と民政関係諸法という分野の違いに変わる転機は、漢代にあった。漢は初め秦の律を継受し改正を重ねたが[5]、漢の武帝が儒教を国教にすると、刑罰でなく教化を主眼とする法体系が構想されるようになった。それが新たな意味を盛られた令である。律を刑罰、令を教化の二本柱にする考えは、『塩鉄論』に言及があり、以後漢代を通じて様々な機会に表明された。しかしこの思想によってただちに法体系が変更されたわけではなく、律令二元化は改正の機会に織り込まれる形で徐々に進んでいった[6]。たとえば、秦漢では駅伝に関する法を厩律にまとめていたが、魏の代になって郵駅令に改めた。秦代に盛んに用いられていた馬車が衰えて車に関する条文が不要になったことを受け、騎乗のみの条文に改正したとき、令に改称したのである[7]。
あるいはまた、秦・漢においては、令=詔(『史記』秦始皇本紀)であり、“令”は皇帝の命令(詔)を指し、“律”は個々の詔(令)の文中に盛り込まれた規範的部分のみを指したとする説もある[8]。
歴史上最初の律令は、中国の西晋が268年(泰始4年)に制定した泰始律令である。内容は大部分失われているが、編纂にあたった杜預は、律は罪名、令は事制という区分を打ち出し、逸文もまたこの区分を裏切らない[9]。ここにおいて、社会規範を規定する律と統治体制を規定する令が明確に区別され、体系的な統一法典としての律令が登場することとなった。西晋が滅亡した後も南北朝時代の諸王朝によって律令が制定・公布された。
中国を再統一した隋の文帝は、581年に開皇律令を公布したが、これは高度に体系化・整備された内容を持ち、律令の一つの完成形とされている。文帝の次の煬帝や隋に代わって中国を統一した唐の皇帝たちも律令を制定・公布したが、これらは開皇律令を概ね踏襲している。中国史上、律令制が全盛を迎えたのは、隋から唐中期にかけての時期とされている。
律令を運用していく中で、律令に規定していない状況が生まれたり、律令の法理と現実の状況が乖離することがある。そのため、律令の規定を補足・改正する格(きゃく)や律令や格を実際に施行する上での細則である式(しき)が制定されるようになった。これを格式(きゃくしき)というが、唐2代皇帝の太宗が制定した貞観格式が最初の格式である。なおこの頃、唐の強い影響のもとで、日本や新羅において律令制定の動きが見られた。(後述#中国周辺諸国の律令を参照。)
国家体制としての律令制は、唐後期までに崩壊していたが、それでも律令格式という法体系は基本法典として存続し、宋でも編纂された。だが、モンゴル系の元では律令は編纂されず、明では律令格式は編纂されたものの、清では令に相当する法令は制定されず、皇帝の勅や会典などが令の役割を果たすようになった。
唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである[1]。律令を制定できるのは中国皇帝だけであり、中国から冊封を受けた国には許されないことだったが、日本は冊封を受けておらず独自に律令を制定した[2]。
日本では、唐の脅威にさらされた7世紀後期、国力の充実強化を目的として、律令の概念が積極的に受容され、まず先駆的な律令として飛鳥浄御原令が制定された。ついで、701年の大宝律令により律令の完成を見た。しかし、757年に施行された養老律令以降、新たな律令は制定されなかった(追加法として刪定律令・刪定令格が制定された事があるが程なく廃止されている)。その後も律令法は明治に至るまで、国家公法として機能していた。律令法を基本法としながら、特別法として律令を補完・修正する格式法を立法し社会に対応させていった[10]。格式は、本来唐では律令と同時に制定されたが、日本では大宝律令が制定されてから例・式といったかたちで随時公布されていた。9世紀から10世紀にかけて格式の法制整備が進み、弘仁格式・貞観格式・延喜格式(三代格式)が編纂された。その後、律令格式に基づく統治体制が限界を迎え、地方の国司や有力者への大幅な権限委譲による統治体制へと転換したため、格式が編纂されることもなくなった。明治維新後の明治政府は、1868年(明治元年)に「仮刑律」、1870年に「新律綱領」、1873年に「改定律例」を制定施行するなど、律令制の手入れを始めるも、その後欧米式の法律体系移行へ方針変更した。
統一新羅などの朝鮮半島の国が、唐や日本と同様の「律令」を編纂・施行したことはない[1]。新羅は自前の律令は制定せず、唐律令を採用していたが、独自色の強い格を多数制定することにより、新羅独特の国家体制を築いたとする見解[11]が日本の東洋史学界では通説化している[12]。一方で、包括的な「律令体制」と部分的受容とは分けて考えるべきであり、部分的という意味では新羅律令は存在していたとする見解が韓国学界では通説となっている[13]。10世紀に朝鮮を統一した高麗は独自に律令を制定し、これも唐と宋の律令を引き写した内容であったとされるが、現物が存在せずに異説もある。
ベトナムは長らく中国王朝の支配を受けており、形式上は中国王朝の律令が適用されていた。李朝期(11世紀)に北宋から事実上の独立を果たし、独自の律令格式を制定するようになった。次の陳朝でも律令法典が制定された。その後、明に服属する時期もあったが、黎朝が再度、中国王朝から独立した15世紀には、律令格式が積極的に編纂された。次の阮朝も19世紀前期に律令を制定している。
その他、8世紀頃に唐周辺に見られた諸国(渤海や吐蕃)は、自前の律令は制定しなかったが、唐律令制を積極的に受容・改変し、独自の律令制を立てていた。また、10世紀に現れた遼(契丹)や12世紀に現れた金も律令制を採用し、独自の律令を制定していた。
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