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この項目では、スーパーマーケットについて説明しています。その他の用法については「マイア (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
株式会社マイヤは、岩手県大船渡市に本社を置き、岩手県沿岸南部を地盤とする、食料品主体のスーパーマーケットチェーンを運営する企業である。
2014年(平成26年)10月4日にマエダ、マイヤ、おーばん、フレスコキクチの4社が経営統合を実施し、株式交換によりマークスホールディングスの完全子会社となった[3]。
東北CGCの設立に参加している[4]。
1961年に米谷淳(まいやきよし)が創業。その長男である米谷春夫が1991年に2代目社長に就任。2018年から元いなげや取締役の井原良幸が3代目社長を務めている。また、米谷春夫は当社会長および親会社マークスホールディングスの相談役を兼務している。
1960年(昭和35年)5月22日に発生したチリ地震の津波で被災した際の助成金を元手として[5]、
精麦業や「株式会社中央映画劇場」の経営に携わっていた米谷淳(まいやきよし)が1961年(昭和36年)6月3日に大船渡市大船渡町字茶屋前101-3で「米谷商事株式会社」を設立したのが始まりである[2]。
同年7月に社名を「株式会社主婦の店大船渡店」に変更した後、同年9月に店舗が完成してスーパーマーケットを開業した[2]。
1980年(昭和55年)11月[6]20日に及新が不渡手形を出して経営破綻し[7]、「オイシンマート」はマイヤに事業継承されて同月23日に営業を再開した[7]。
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災では、津波警報が出る前から従業員が顧客の避難誘導を行い、出勤していた従業員と来店していた顧客の犠牲者を出さなかった[8]。
また、大きな被災を免れた「大船渡インター店」や[8]被害のなかった店舗では震災当日夕方から駐車場で営業を再開して地域のライフラインとしての日常必需品の販売を行った[9]。
しかし、本部も被災して流失し[10]、当時の売上高の約40%を占めていた[10]大船渡市3店舗(本店、中央店、綾里店)・陸前高田市全2店舗(高田店、リプル店)・大槌町1店舗(マスト店)の合計6店舗がそれぞれ全壊あるいは半壊で営業停止となった[11]。
その為、主力店舗の喪失による売上減少に対応するため、翌月の4月にはパート・アルバイト約1,200名のうち約300名を一時解雇して正社員約220名のうち50名を一時帰休せざるを得なくなってしまった[10]。
その一方で、店舗が壊滅した同月15日に陸前高田市の小学校で食料品の出張販売を開始し[12]、同月29日からはテントによる仮設販売所を開設して営業し[11]、同年8月4日には陸前高田市竹駒町滝の里1番に大和リースとの共同事業による仮設商業施設・滝の里店を開店させた[13]。
こうしたライフラインを守るための営業継続が売上に繋がり、同年7月末には一時帰休した従業員の希望者全員を職場復帰させることとなった[14]。
また、同年12月22日には大槌町のマスト店が営業再開し、同月27日には大船渡市に赤崎店を開店と被災地での店舗網の立て直しを進めた[15]。
なお、震災からの復興と並行して、多層階の総合スーパーから食品スーパーに特化する形へ業態転換を進めた[16]。
2014年(平成26年)10月4日にマエダ、マイヤ、おーばん、フレスコキクチの4社が経営統合を実施し、株式交換によりマークスホールディングスの完全子会社となった[3]。
震災被害により閉店した店舗
- 敷地面積約3,960m2[33]、鉄骨鉄筋コンクリート造地上5階[33]、延べ床面積約7,106m2[25] → 約9,031m2[33]、店舗面積約4,579m2[25] → 約4,621m2[33](当社店舗面積約3,903m2[33])、駐車台数約200台[33]。
- 5階建てで、東日本大震災では3階まで浸水したが、屋上に避難した従業員や近隣住民など59名が生き残った[34][35]。
- 震災後に店舗は解体された[10]。
- GMS業態で、衣類売り場を併設。[要出典]
- 3階建てで、東日本大震災では波に飲まれた市役所職員が3階の天井の骨組みに捕まって生き残ったほか、屋上に避難した従業員や近隣住民など13名が生き残った[34]。
- 2017年(平成29年)4月27日 - 陸前高田市の中心市街地に立地する「アバッセたかた」内に(2代目)高田店を開店[32]。
閉店した店舗
陸前高田市
- 延べ床面積650m2[25]、売り場面積522m2[25]。
- 敷地面積約2400坪[13]、建築面積約450坪[13]、駐車台数約150台[13]。
- 大和リースとの共同事業による仮設商業施設[13]。現在は薬王堂が営業。[独自研究?]
- 平屋建て[32]、売り場面積1,480m2[32]。
- 仮設店舗であった滝の里店の隣接地に本節店舗として出店したが、同月27日に高田店をアバッセたかた内に出店するのに先だって閉店[32]。現在はパチンコ店「カネマン」となっている。[独自研究?]
釜石市
浜町店、釜石松原店(釜石市):元々は「及新」の店舗であり、マイヤへの経営譲渡後もマイヤで運営。釜石松原店は1991年8月に閉店、鵜住居店、浜町店、只越店は1993年にマスト店オープンに伴い閉店した。[要出典]
- 鉄筋コンクリート造2階建て[41]、売場面積450m2[42]
- 釜石松原店(釜石市松原町3-6-15[39])
- 浜町店(釜石市浜町1-4-16[39])
- 売場面積198m2[36]
- 鵜住居駅前[36]
- 延べ床面積5,387m2[25]、売り場面積2,124m2[25]。
- 「合名会社釜石ビル」の建物に出店していた旧「オイシンマート中妻店」。マイヤへの経営譲渡後もマイヤで運営。釜石マイヤ吸収前は釜石マイヤの本部となっていた。1996年2月に閉店。閉店後、タケダスポーツが同建物に入居後、更地となり、現在はかっぱ寿司となっている。[要出典]
- 延べ床面積686m2[43]、売場面積515m2[43]
- 元々は「及新」の店舗であり、マイヤへの経営譲渡後もマイヤで運営。2008年に釜石店オープンに伴い閉店。閉店後、みずかみ(遠野市)が取得し、「スーパーみずかみ大町店」として営業していたが、東日本大震災で建物流失。[要出典]
- 経営悪化した釜石共栄から2009年に店舗を譲受、サンパルク1階に入居。なお、建物は現在も釜石共栄の所有であり塔屋の釜石共栄のマークもそのまま。2015年8月末閉店。現在はマルイチが入居。[要出典]
上閉伊郡
- 延べ床面積795m2[43]、売り場面積722m2[43]。
- 元々は「及新」の店舗であり、マイヤへの経営譲渡後もマイヤで運営。2008年に釜石店オープンに伴い閉店。閉店後、みずかみが取得し、「スーパーみずかみ大槌店」として営業していたが、東日本大震災で建物流失。[要出典]
気仙沼市
- 2018年(平成30年)3月に(2代目)高田店を開店[広報 2]。
- 現在はケーズデンキ気仙沼店が営業。なお、現在の気仙沼バイパス店の場所で営業していたツルハドラッグ気仙沼バイパス店は現在は田中トンネル近くでケーズデンキ気仙沼店が営業していた建物に移転して気仙沼上田中店として営業している。[独自研究?]
- 「片浜屋病院前店」として開業して2018年(平成30年)4月に店名を「片浜屋田中前店」に変更し、2019年(令和元年)6月にマイヤグループ入りしてマイヤ田中前店となった[広報 6]。
- アルテマルカン(花巻市):2010年業務提携。
- びはん(山田町):CGCグループ加盟店。東日本大震災で店舗が被災。復旧にあたってマイヤが支援しており、現在は仕入ルートを共通化している。また、びはんが製造する醤油製品が、一部のマイヤ店舗で販売されている。
注
綾里は初代社長、米谷淳の出身地である。淳は婿養子であり、旧姓は中島。淳の義父は元岩手県議会議員の米谷貫二。米谷家は陸前高田市気仙町に住居を構えていたが、2011年の東日本大震災で被災し同市竹駒町に転居している。[要出典]
初代の高田店の建物は閉鎖後も2002年までそのまま残ったままになっていて、その後は取り壊しを経て2代目の高田店の駐車場となった。また、初代社長の米谷淳が1991年に会長となってからは自宅が近い同店舗内に会長室を設置して、2003年に死去するまで同店舗に常駐していた。[要出典]
1950年(昭和25年)12月に設立された「株式会社あぶらや商店」(陸前高田市高田町大町10)は[26]、かつては本社と同所の「あぶらやスーパー大町店」(売場面積275m2)[27]と「デパート油屋駅前店」(陸前高田市高田町字並杉2-4[27]、1968年(昭和43年)11月開店[23]、延べ床面積1,860m2[23]、売場面積1,422m2[23])を展開していた。
グループ入り当初に宮城県名取市にあった片浜屋ゆりがおか店は閉鎖。現在、片浜屋から施設を継承した店舗は本吉はまなす店のみである。[要出典]
出典
“震災復興の現場から 岩手編 マイヤ—米谷 春夫 取締役社長「スーパーマーケットは地域最大のライフライン」”. 経済同友 2013年10月号 (経済同友会) (2013年10月).pp4
『全国繊維企業要覧 昭和45年版』 信用交換所大阪本社、1970年。pp1819-1820
“トピックス・ニュース・ジャーナル”. 商業界 1980年6月号 (商業界) (1980年6月).pp99-107
“55年の企業倒産、史上第2位の水準に”. 酒類食品統計月報 1981年2月号 (日刊経済通信社) (1981年2月).pp64-67
“激戦期八○年代/ローカルスーパーは生き残れるか ビッグチェーンの進出に播れる地元スーパー 岩手県”. 総合食品 1981年9月号 (総合食品研究所) (1981年9月).pp82
“震災復興の現場から 岩手編 マイヤ—米谷 春夫 取締役社長「スーパーマーケットは地域最大のライフライン」”. 経済同友 2013年10月号 (経済同友会) (2013年10月).pp3
“冬季東北流通特集 地域再生へ応えるSM 被災地に新店オープン 再編の動き活発な東北”. 日本食糧新聞(日本食糧新聞社). (2011年12月9日). pp6
“各界リーダーに聞く 東日本大震災10年 復興と課題1 大船渡商工会議所 米谷春夫会頭”. 東海新報 (東海新報社)(2021年1月16日). pp1
『大船渡市史 第6巻 通史編』 大船渡市、2002年4月30日。pp763
“激戦期八○年代/ローカルスーパーは生き残れるか ビッグチェーンの進出に播れる地元スーパー 岩手県”. 総合食品 1981年9月号 (総合食品研究所) (1981年9月).pp87
“激戦期八○年代/ローカルスーパーは生き残れるか ビッグチェーンの進出に播れる地元スーパー 岩手県”. 総合食品 1981年9月号 (総合食品研究所) (1981年9月).pp88
“激戦期八○年代/ローカルスーパーは生き残れるか ビッグチェーンの進出に播れる地元スーパー 岩手県”. 総合食品 1981年9月号 (総合食品研究所) (1981年9月).pp85
『日本会社録 第2版』 交詢社出版局、1962年1月20日。pp会社あ12
『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp147
“東日本大震災から10年 東北は負けない特集 マイヤ・米谷春夫会長に聞く”. 日本食糧新聞 (日本食糧新聞社)(2021年3月10日). pp13
“石鳥谷店の新設を計画 (株)マイヤ 10月の開店を予定”. 東海新報 (東海新報社)(2011年3月1日). pp3
“冬季東北流通特集 マークス、新たな協業体目指し組織拡充 東北のSMビジネスモデルを形成”. 日本食糧新聞(日本食糧新聞社). (2011年12月9日). pp9
“マイヤ、大船渡に新店舗 陸前高田にも仮設店”. 岩手日報 (岩手日報社)(2011年5月26日).
“スーパー・マイヤ竹駒店が18日閉店へ、27日に高田店オープン”. 東海新報 (東海新報社)(2017年4月16日)
“マイヤ5階建てビルが命を救った 59人が奇跡の生還”. 東海新報 (東海新報社)(2011年4月13日). pp4
『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp146
『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp485
『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp486
『第3回 全国商業通覧 1985年版 東日本 1』 通商産業調査会、1985年3月1日。pp369
『繊維小売年鑑 1965年版』 繊維小売年鑑刊行会、1964年11月1日。pp661
『日本セルフ・サービス年鑑 1966年版』 日本セルフ・サービス協会、1965年11月10日。pp441
“激戦期八○年代/ローカルスーパーは生き残れるか ビッグチェーンの進出に播れる地元スーパー 岩手県”. 総合食品 1981年9月号 (総合食品研究所) (1981年9月).pp89
『日本セルフ・サービス年鑑 1968年版』 日本セルフ・サービス協会、1968年3月20日。pp160
広報資料・プレスリリースなど一次資料
“企業情報”. 株式会社マイヤ. 2024年1月28日閲覧。