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ナチスドイツのホロコーストについての定説を否認すること ウィキペディアから
ホロコースト否認(ホロコーストひにん、ドイツ語: Holocaustleugnung、英語: Holocaust denial)とは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人の組織的虐殺であるホロコーストの全体もしくは一部について、歴史学上の定説を否定する方向での修正を主張することである。またはそれらの主張そのものを指す。
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なお、ドイツ語のleugnungや英語のdenialは通常「否定」と訳すことが多いため、ホロコースト否定と呼ぶことも多い。従って、これらの主張者はホロコースト否定論者あるいはホロコースト否定派と呼ぶことが多いが、英語圏ではdenierと呼ぶことと同じくらいrevisionistと呼ぶ場合があり、日本語では歴史修正主義者(あるいは単に修正主義者)となる。また、日本の一部では見直し論・見直し論者とも呼ぶこともある。ただし、歴史修正主義はホロコースト否認だけを指すわけではなく、より広い意味を持つ用語でもある。
ホロコースト否認の主張を行うことは、ヨーロッパの大半の国やイスラエルとカナダの法律で明示的に禁止されているほか、反ユダヤ主義的行為とされ、人種差別を禁じた法律によって訴追される国もある。また2007年には国際連合総会決議61/255において、「ホロコーストが歴史的事実であるという認識の一部もしくはすべてを否定するいかなる行為も認めないように、全加盟国に求める」ことが採択されている[1]。
ホロコースト否認論は、600万人に近い数のユダヤ人が第二次世界大戦中、ナチスによって虐殺された、という歴史的事実を否定することを核心に置いた現象である。この場合、否定はホロコーストの事実をはっきり見直すことのほか、該当の事件・事実を相対化することも含んでいる[2]。
修正主義者たちによれば、ユダヤ人絶滅は実際には起こらなかった[2]。ドイツ側当局はヨーロッパ・ユダヤ人の殺害をけっして計画しなかったし、ユダヤ人が虐殺されたという絶滅収容所なども建設したことも一度もなかった[2]。修正主義者たちの見るところ、1939年-45年のユダヤ人死亡者数が、まず30万人以上ということはありえず、死因も戦時の欠乏、困難、病気に帰せられるものであった[2]。
ホロコーストにより数百万人規模の計画的な殺戮が行われたこと、ホロコーストが中央で計画されたこと、およびホロコーストの実行におけるナチス指導部の役割のあったことは、膨大な物証、証言および文献によって、既に裏付けられているという認識が、近現代ヨーロッパ史の研究者で確立している[3][4]。この状況を2003年6月24日の欧州人権裁判所が下したいわゆる「ガロディ判決」では、「これらの事実は歴史家の問で論争の対象となっておらず、反対に明確に立証されている。」として、「ホロコーストのような明確に立証されている歴史的事実の事実性に異論を唱えることが、真理の探究に類似する歴史研究の分野にまったく属するものでない」としている[5]。
ホロコースト否認論は学術的な見解に反するのみならず、「ドイツ・ナショナリズム、ネオナチズム、反シオニズム、反ユダヤ主義」が否認論の背景にあり[6]、ネオナチ等のナチズム再興を標榜する極右派の主要なイデオロギーとなっている。一方で左派や共産主義者、ユダヤ人にも否認論者は存在する[7]。「ホロコースト否認論の父」といわれるポール・ラッシニエもフランス共産党を経てフランス社会党に入った左翼であると紹介されている[8]。また、否認論者は左派であることが反ユダヤ主義者や人種主義者ではない証明であるとして、その「左派」さえ「否認論」を支持しているのだというかたちで「否認論」の正当性を主張しているが、反ユダヤ主義を「右翼」のみに帰するのは余りに単純な図式化であり、ラッシニエが所属していた社会党内におけるポール・フォールの派閥はユダヤ人であったレオン・ブルムと対立しており、反ユダヤ主義が猖獗していた[9][注釈 1]。
否認論は、主要なヨーロッパ諸国や、欧州連合の機関においては、公共空間におけるホロコースト否認論は、単なる歴史研究ではなく、政治的な意図を持った「扇動」として扱われる(ただし、虐殺の原因、経緯、および犠牲者数には研究者の間で議論があり、それらの学術研究は法的に禁止されていない)[3]。これは、否認論者がしばしば口にする「真理の探究」という口実の裏に、「ユダヤ人による歴史の偽造に対する非難」と「ナチ体制の名誉回復」という真の目的および結果がある[3]。
一方で、ドイツと交戦した国でも、イギリスやアメリカにおいては比較的寛容に扱われている。また戦後の中東問題で、イスラエルによる行為を非難する立場から、しばしば否認論が肯定的に取り扱われている。ロジェ・ガロディがフランスにおいてホロコースト否認による人種差別教唆罪に問われた際にも、欧州人権裁判所に対して「シオニズムとイスラエル政府を批判しただけ」と主張したが[5]「彼の主張はこの範囲にとどまらず」「実際には明白な人種主義的な目的を持っている」として却下された事例[10]もあるように、否認論側がイスラエルとシオニズム批判を否認論と結びつけることもある。
加藤一郎は、文教大学の教育学部教授であったが、日本では大学教授で明確なホロコースト歴史修正主義者は加藤以外確認されない。加藤は2009年頃に亡くなっている(石川裕之 2009)。加藤は以下のように述べている。
ヴィダル=ナケは、否認論者の言論を次のようにまとめている[6]。
ホロコーストに関して、生存者、目撃者、歴史家によって提出された証拠は圧倒的な量ではあるが、否認論者はそれに対して、その「矛盾」を指摘することにより、ホロコーストに関する「通説」の立証は十分ではないとして、その否認をするべきだという立場をとる。彼らは主流であるホロコースト研究者を「大虐殺信奉派」「通説派」「定説派」などと形容している[4]。
しかし否認論者の主張は学界では認められていないと光信一宏は主張している[4][3]。
エルンスト・ツンデルなどの否認論者は、フレッド・ロイヒターがアウシュヴィッツのガス室跡地を調査したが、シアン化物の痕跡は見つからなかったとするロイヒター・レポートを、「強制収容所にガス室は無かった」と主張する上で重視している。ロイヒターは電気椅子などの死刑執行関連の器具販売会社を経営していた。しかしツンデル裁判においては証拠としての価値を認められなかった。一方で1994年にポーランドの公的機関であるクラクフ法医学研究所のヤン・マルキェヴィチらのチームが行った調査では、ガス室の跡地からシアン化物が発見されたという報告がある[17]。否認論者で化学者のゲルマー・ルドルフによるクラクフ報告への詳細な反論があり、シアン化物は誤差の範囲内だと主張している[18]。しかし、クラクフ報告では分析方法として微量拡散分析法を用いており、この方法ではロイヒターらの行った分析法の約300倍の感度があり、分析値のオーダーもロイヒターらの報告に示されるmg/kgではなく、μg/kgで示されている上に、クラクフ報告で採取された収容所内住居棟の7つのサンプルでは検出値は全て検出限界未満であった。ゲルマー・ルドルフの説に対しては、米国の反修正主義者であり化学者のリチャード・グリーンから詳細な反論もある[19]。
否認論者は、論争を行うことによって世間の耳目を集める戦略にも出ている[4]。アメリカの懐疑論者マイケル・シャーマーは、フランスの否認論者ロベール・フォリソンが「餌をまいて『大虐殺信奉者』と彼が呼ぶ相手を引き寄せることを好む」と論評している[4]。リップシュタットは「否認論者とは議論しない」という原則を揚げているが、これは否認論者が議論においてホロコーストがあったか無かったかという二項対立に持ち込むことで、否認論があたかも重要な価値を持つかのように誤認させる目的があるためだとしている[4]。
ホロコースト否認論者、または「ホロコースト否認論者(修正主義者)」の多くは、「否認論」または「否認主義」という用語[20]を強く拒否し、「修正主義者(revisionist)」を用いている。その理由は、彼らによれば、彼ら(revisionist)は、ガス室やユダヤ人絶滅政策を否定しているのではなく、証拠の欠如を指摘しているだけなのだという。また、他の論者たちも、ガス室やユダヤ人絶滅政策が無かったと結論づけているのではなく、現時点では、証言以外に何も証拠(物証)が無いことを指摘しているだけで、証拠の提示を待っているのだと主張している。更に、「ホロコースト」の定義に幅があることから、ドイツによるユダヤ人迫害全般を否定している訳ではない事を強調する意味もあって、彼ら(revisionist)は、「否定論者(denier)」と呼ばれることを強く拒否する傾向がある。これに対して、ホロコースト否認、または「ホロコースト否認論」を批判する研究者は、「ホロコースト否認論者」が使う「修正主義(revisionism)」という用語に対して、故意にミスリードするものであると論評する[21]。
「ホロコースト修正」の立場を主張する論者は、適切な修正主義的原則をホロコースト史に適用すべく努めているとし、この視点において「ホロコースト修正主義」という用語が適切であると主張している。「ホロコースト否認論」の用語は「戦後のホロコースト観が描写するようなホロコーストは起こっていないとする論説」に用いるのに対して、「ホロコースト修正主義」という用語は、一次史料などからホロコーストの諸側面を考察するのに用いられる通常の史学的態度に使用されるとしている。一方で、この言説は、主流であるホロコースト研究においても大虐殺の詳しい原因(意図説・機能説論争)、ホロコーストの経緯、犠牲者の正確な数などなお研究者の問で意見・解釈の分かれる論点が多く存在している[22]ことを無視している[要出典]。
彼らが主張する「ホロコースト否認論」と「ホロコースト修正主義」の区別は一般的に受け入れられていない。2006年2月に独学の歴史家・作家[23]デイヴィッド・アーヴィングがホロコースト否定を理由にオーストリアで有罪判決を受けた時、イギリスのニュースメディアはアーヴィングに対して「修正主義者」という用語を頻繁に使用している[24]
見直し論者によってしばしば主張される言論詳細を以下に記す。ただし全ての論者が同一の主張をしている訳ではない[25]。(詳しくは脚注先の論文などを参照していただきたい。)
ホロコースト見直し論 | ホロコースト見直し論を批判する立場 | |
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計画性 |
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特別行動部隊(アインザッツグルッペン) |
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ガス室 |
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焼却炉 |
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死亡者数 | 600万人説に関する疑義
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公文書の解釈 |
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証言 |
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「矛盾」 |
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「イスラエルのプロパガンダ」 |
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「言論の自由」 |
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1945年11月から翌1946年8月にかけて行われたニュルンベルク裁判は連合国による戦後秩序の形成で画期的であったが、歴史修正主義の「生みの親」ともなった。歴史学者の武井彩佳は、「ドイツが名誉を回復したいのであればニュルンベルク裁判を否定すれば良いと考えたドイツ人がいても不思議ではない」として、その論拠を以下のとおり列挙した。[76]
ドイツでは敗戦直後、歴史の修正がテーマとなる以前の状態であり、むしろ戦前はそれほど悪くなかったという認識が優勢であった。例えば1948年の世論調査では、ナチズムは良い理念だが実行の仕方が悪かったという意見に約6割が賛同し、指導者としてのヒトラーを肯定的に評価する意見は3割を超えていた[78]。
むしろ戦後すぐにホロコーストの否認論が発信されたのはフランスであった。フランスではドイツの傀儡政権であるヴィシー政権が国家的に対独協力を進めていたからである[79]。
例えば1948年にフランスのジャーナリストで文芸評論家のモーリス・バルデシュは『ニュルンベルク、または約束の地』 (Nuremberg ou la Terre promise)を著したが、彼はその中でニュルンベルク裁判を否定しユダヤ人にこそ第二次世界大戦の原因があり、彼らが連合軍と共謀して強制収容所を捏造したのだと主張した。また対独協力を正当化するために、第二次世界大戦中にユダヤ人は600万人も死亡しておらず、80〜90万人が病死したに過ぎないとも主張した。バルデシュはフランスのファシズムの潮流に位置付けられる人物で、アクション・フランセーズの雑誌『ジュ・スィ・パルトゥ』の編集者を務め、ソルボンヌ大学で教えたこともあった。義兄に対独協力者として処刑された作家のロベール・ブラジヤックがおり、敬愛していた彼が処刑されたことでバルデシュはホロコーストの否認論に向かったとされている[80]。
またフランスのジャーナリストポール・ラッシニエも「ホロコースト生存者」の証言に疑義を呈した。彼は1949年の『戦線を越えて』(Passage de la ligne)や1950年の『オデュッセウスの嘘』(Le Mensonge d'Ulysse)といった著書で強制収容所の実態を極端に歪曲する主張を展開したため、フランスのホロコースト否定論の始祖と位置付けられている。彼によれば強制収容所では囚人の中から選ばれる監視役の「カポ」が最も残忍であり、むしろドイツ人の親衛隊員は人道的ですらあったという。また門の前で夜通し見張りに立っていた親衛隊員でさえ強制収容所の中で起こっていたことにはほとんど何も気が付かなかったため、ドイツ人がこうした実態を知らないのは当然だとしてドイツ無罪論を説いた。The Holocaust Story and the Lies of Ulysses
1964年には『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ』でガス室を始めとする戦後の通説に疑義を投じた。The Holocaust Story and the Lies of Ulyssesラッシニエは社会主義者、非暴力主義者で、ドイツ占領下のフランスでレジスタンスに身を投じ、ユダヤ人をスイスに脱出させる活動などを行なっていた。そのために自らがゲシュタポに捕えられてブーヘンヴァルト強制収容所 とミッテルバウ=ドーラ強制収容所に収容された。戦後、レジスタンス活動によりフランス政府から最高位の勲章を受けている。
否認論者達はラッシニエを「ホロコースト修正主義の父」と呼び、現在も彼の著作をホロコーストに関する通説に異議を申し立てた学術的な研究として引用している[4]。また、シオニストがホロコーストの捏造を行ったという見解は後世にも引き継がれている[81]。
またラッシニエと同時期に、ルーマニア系ユダヤ人であるブルグ(Burg)も、戦後語られ出した「ガス室」などによるユダヤ人大量殺戮の主張に疑問を抱き、収容所を自ら調査するなどしている。
1950年代の冷戦体制の中、東西対立の最前線に押し出された西ドイツでは戦勝国の安全保障体制に組み込まれるべく、非ナチ化し過去を反省して犠牲者に謝罪すべきだというヒトラー時代の「公的」な解釈が形成された。一方で一般市民の間ではナチ時代は全面的に悪しきものとは見做されていなかったため、ヒトラー時代の政治的な解釈と国民の実態にはギャップが生まれた。こうした中で戦争責任と戦争犯罪の否認論が書籍、雑誌、政治団体の機関紙、東欧を追われたドイツ人道鏡団体のニューズレターなど、さまざまなメディアで見られるようになった。例えばヨアヒム・フォン・リッベントロップの未亡人アンネリーゼは亡夫の意向を編纂した『ロンドンとモスクワの間で』(Zwischen London und Moskau)を出版し、さらに自らドイツの戦争責任を見直す著作を数々発表した[82]。
また1950年代のドイツ社会は戦前からの明白な連続性の上にあった。連合国の非ナチ化政策によって古参のナチは処罰されるか、再教育によって転向させられたことになっていたため、ナチ体制なき後もナチズムを支持するものは「ネオナチ」と呼ばれたが、現実には連続的なナチズム支持者であった。こうした集団は1950年代ごろから政治的に組織化され、1949年に結成された社会主義帝国党は1951年の地方選挙で躍進し、1950年にはドイツ帝国党 (DRP)が生まれた。 そうした中で特にホロコーストの否定を続けたのは戦後のネオナチズムを代表する人物、オットー・エルンスト・レーマーであった。彼は自ら発行する雑誌『正義と真実』などでホロコースト否認論や歴史修正主義的な発信を続けた。彼は国防軍の指揮官でヒトラー暗殺未遂事件を鎮圧したことで知られるが、戦後は社会主義帝国党の副代表やイスラエルと敵対するエジプトの軍事顧問などを務め、ナチズムを貫いた。試訳:オットー・レーマー少将は語る 歴史的修正主義研究会試訳
コロンビア大学の歴史家ハリー・エルマー・バーンズは晩年ホロコースト否認論の姿勢をとるようになった。バーンズは立場的には主流派に属する歴史家であり、歴史修正主義運動の初期の指導者の一人である。戦間期には反戦的な著述家で、第二次世界大戦後、ドイツと日本への批判は米国の参戦を正当化するための戦時プロパガンダに過ぎず、その正体が暴かれる必要があると考えた。バーンズは晩年の著作でホロコーストを戦時プロパガンダに含まれるとした。同様に反戦的歴史修正主義の立場をとってきた著述家ジェームス・J・マーティンはバーンズに倣ってホロコース否認論の姿勢を示した[83]。
アメリカ人の歴史家デイヴィッド・ホッガンは1961年に発表した第二次世界大戦の原因を論じた『強制された戦争』 (Der Erzwungene Krieg)、1969年には、ホロコーストを見直す最初の本の一つである『600万人の神話』を執筆した[84]。ホッガンは一流大学教授の経歴もあり、ホロコースト否認論運動初期の中心的人物の1人となった。
1970年代にはヨーロッパと北米でほぼ同時にホロコースト否認論が登場し、ホロコースト否認論の本やパンフレットの出版が始まった。また国際的な背景としては相次ぐ中東戦争におけるイスラエルの勝利の影響を強く受けた。ユダヤ陰謀論の支持者は、イスラエルが1967年の第三次中東戦争と1973年の第四次中東戦争で勝利したことを、シオニストによる世界支配と受け取った[85]。
ただしホロコースト否認論は登場した時期が同じでも地域的な特質があった。北米のアメリカやカナダは移民国家であったゆえに明白に人種主義的な性格が見られ、加えてアングロサクソン系の国家では「表現の自由」を重視し、悪しき意見にも発言の自由を認めるという法的伝統が存在するため、ホロコースト否認論を支持するかどうかは個人の自由に帰した。一方で大陸ヨーロッパ諸国、つまりドイツやフランスでは特定集団に関する歴史の否定は人種主義的な表現とされ、刑事罰の対象となるため、あくまで歴史の記述の問題であるとされた[86]。
1973年、ドイツ系アメリカ人で中世英文学を研究する大学教授、オースティン・アップが『600万人の詐欺』(The Six Million Swindle)と題されたパンフレットを出版した。彼はここでホロコーストで600万人が殺害されたというのはイスラエルが西ドイツから補償金を詐取するための「嘘」であると主張し、1952年に結ばれた総額約30億マルクを支払うという補償協定の根拠となる事実は存在しないとした。
1974年、アウシュヴィッツ周辺のモノヴィッツで天然ゴムに代わる素材の開発に従事していた元親衛隊員のティース・クリストファーゼンが回想録『アウシュヴィッツの嘘』(Die Auschwitz-Lüge)を出版し、ドイツのユダヤ人政策は批判されるべきであるが、戦後のアウシュヴィッツ像はあまりにも誇張されたもので、クリストファーゼンがアウシュヴィッツ周辺で勤務していた当時、ユダヤ人ら被収容者は虐待されていなかったと証言した。戦争末期は別として、大戦中前半はユダヤ人への待遇は戦後語られるような劣悪なものではなかったという。また、被収容者のための売春宿があったことや、当時アウシュヴィッツに勤務していた同僚のドイツ人の中には、ユダヤ人と友情を結んで戦後も文通を続けた者などもいた事実を挙げて、戦後のアウシュヴィッツ像は虚偽であると主張した。更には、クリストファーセン自身が、ビルケナウ収容所における衛生状態の劣化に懸念を抱いて、ユダヤ人の処遇を改善するよう上司に提案したことがあったことや、ユダヤ人の中にはドイツよりもソ連を恐れる者がいて、ソ連に対するドイツの勝利を期待していたユダヤ人がいたことなどをも述べている。
1976年にアーサー・バッツが『20世紀の大ペテン』(The Hoax of the Twentieth Century: The Case Against the Presumed Extermination of European Jewry)、 1977年にデイヴィッド・アーヴィングが『ヒトラーの戦争』を発表、ベストセラーとなったことから、ホロコースト否認論の代表的な論客と見なされている。これらの著述はホロコーストに対する疑義として現在も否定論者の間で重要視されている[87]。
1978年3月18日には、リチャード・ヴェラルの著書『600万人は本当に死んだのか?』(Did Six Million Really Die?)のフランス語訳を刊行した国民戦線のフランソワ・デュプラ(Francois Duprat)がユダヤ人組織に殺害され、妻も腕と足を失った[73][88]。同1978年、ソルボンヌ大学で文書鑑定を専門としていたロベール・フォリソンが『ル・モンド』紙に「ガス室」の存在に疑問を投じる記事を発表しフォリソン事件が起きた。フォリソンは「ガス室」を欺瞞 (fraud) と呼び、「この欺瞞の犠牲者は、(ドイツの)支配者たちを除くドイツ人と、全てのパレスチナ人だ」と述べ、この問題がパレスチナ問題と密接に関係することを指摘し、アウシュヴィッツ収容所の観光客に公開されている「ガス室」が戦後に改造されて作られたものだったことを暴露した。その後、1989年9月16日、ユダヤ系団体のSons of Jewish Memory(ユダヤの記憶の子供)から襲撃され、顎と顔を砕かれ重傷を負った[73]。Sons of Jewish Memoryの犯行声明文には「ホロコースト否定派をぶるぶる震えさせろ」とあった[73]。
1979年、大戦中ドイツ空軍部隊将校として自らアウシュヴィッツを短期間訪れた経験を持つ西ドイツ(当時)の判事ヴィルヘルム・シュテークリッヒは、裁判官の視点からニュルンベルク裁判をはじめとする戦後の「戦犯」裁判と、ホロコーストを徹底的に検証したとする『アウシュヴィッツの神話』(The Auschwitz Myth - Legend or Reality)を刊行したが、1980年にはシュトゥットガルト裁判所の命令によりドイツ国内で頒布禁止とされ、発売日に書店から回収された。
1978年、米国でウィリス・カートによって歴史見直し研究所 (IHR) が創設された。これは「ホロコーストの俗説」に異議を唱える組織であり、英語圏における否認論の広がりにおいて中心的な役割を果たしている。IHRは科学的な歴史修正主義を標榜し、ネオナチの背景を持たないジェームス・J・マーティンやサミュエル・エドワード・コンキン三世のような支持者を歓迎し、またラッシニエやバーンズの著作の英訳を販売している。ホロコースト肯定者はIHRの支持者はネオナチや反ユダヤ主義者であり、出版配布されている資料の多くはホロコーストに疑問を呈することを専らとしている団体であると攻撃している[89]。IHRは「我々の組織はホロコーストを否認しない」と表明している。 「数多くのユダヤ人が強制収容所やゲットーに追放された事実、あるいは多くのユダヤ人が第二次世界大戦で殺害された事実については論争は存在しない。修正主義の学者達は証拠を提出している。この証拠はヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するというドイツの計画は存在しなかったこと、600万のユダヤ人が戦時中に死んだとする推定が当てにならない誇張であることが示されている。この証拠に対して「絶滅派の連中」(exterminationists) は反駁することができずにいる。ホロコースト、すなわち約600万というユダヤ人が皆殺しにされた (そのほとんどがガスによる) と伝えられていることは悪い冗談であり、これはキリスト教徒や、教養があり誠実で正直な人ならどこの人にも悪い冗談と見なされるべきことである。」[90]。
IHRは「殺人を目的としたガス室がアウシュヴィッツに存在したという(検証可能な)証拠」に対して50,000米ドルの賞金を提示したのでアウシュヴィッツの生存者メル・メーメルシュタインは証拠を提出した。しかしIHRは賞金を支払わないので個人的苦痛に対する損害賠償訴訟を起こし、勝訴、40,000米ドルを受け取った。裁判所はホロコーストの史実については法的に争う事柄ではないと宣告した。そもそもIHRは出された証拠を「それは証拠ではない」という目的のため言ってみれば挑発のためだけにこのような賞金を設定したのであって裁判に訴えられるのは予想外の事態であった。
IHRはユダヤ主義者から暴力による襲撃を繰り返し受けており、1981年6月26日、1982年4月25日には放火、1982年9月5日には事務所へ発砲をうけ[73]、1984年7月4日にはシオニストグループによって放火され多くの資料が焼失した[73]。 否認論者側はこれを焚書行為と糾弾し、ゲルマール・ルドルフは「異なる意見を抱いているだけで、非人間、悪魔、害虫、下等人種とみなしていいのだろうか? ナチスはそれをやったから非難されているのではないか? 扇動的な表現をすることは、ファシスト的、ナチス的、人種差別主義的ではないか」とユダヤの過激派を批判した[73]。
1984年、カナダの高校教師ジェームズ・キーグストラは授業で資料の一部としてホロコーストに関する戦後の通説に疑問を呈する教材を使用し反ユダヤ主義的主張をしたとして告発され、有罪宣告を受け、解雇された。1988年7月18日にはキーグストラの自宅が放火された[73]。
プリンストン大学教授で、左翼と見なされていた歴史家アーノ・マイヤーは、は、1988年に『天はなぜ曇らなかったのか?』 [91] において、(1)ドイツははじめからユダヤ人を絶滅する計画ではなかったと考えられる、(2)アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人の多くは故意の殺害ではなく、病死や飢餓の犠牲者であった等の考察を述べている。メイヤーの問題提起はニューズウィークでも取り上げられ、日本の西岡昌紀にも影響を与え、マルコポーロ事件が発生した。
1987年、ブラッドリー・スミスが「ホロコーストに関する公開討論委員会」 (CODOH) を創立。CODOHは、ホロコーストの通説を問題とする新聞広告をアメリカ合衆国内の大学学生新聞に打つ試みを繰り返している。掲載の諾否は新聞によって異なるが、編集長がどちらの判断を下しても、ほとんどの新聞は表現の自由を理由として、あるいは反ユダヤ主義的な言論は慎むべきであるという理由で、自らの判断を擁護する論説を掲載している。この広告キャンペーンによって、1990年代初期に多くの学生新聞にCODOHの広告が掲載され、全国的な議論を巻き起こし、ニューヨーク・タイムズも取り上げた。
元カナダ居住者のエルンスト・ツンデルはサミスダット・パブリッシング (Samisdat Publishing) という出版社を運営し、リチャード・ヴァーラルの著書『600万人は本当に死んだか』などの書物を出版した。 1985年、ツンデルは「ホロコーストを否定する書物を配布、出版した」として「虚偽の報道」罪で裁判にかけられ、オンタリオ州地方裁判所によって有罪宣告、15箇月の禁固刑を言い渡された。この事件は大きく注目され、多くの活動家が表現の自由を訴えて、ツンデルの表現の権利を擁護しようと介入し、1992年にカナダ最高裁判所が「虚偽の報道」法は憲法違反だと宣言し、彼の有罪判決は覆された『カナダの歴史検証主義:ツンデル裁判』~ロベール・フォリソン
この裁判では、最初の質問が発せられただけでたちまち、ホロコーストの歴史に関する世界最高権威であるはずのラウル・ヒルバーグ (検察側証人)が、アウシュヴィッツはおろか、ナチスの強制収容所を一箇所たりとも調査した経験のない事実が判明した。そして〈ユダヤ人絶滅政策〉と研究書の中で彼が呼んでいるものについて、計画書も、執行組織も、中枢機関も、予算も、検査機関も存在したためしのないことを認めざるを得なかったのである。弁護側が、ドイツ人が計画書もないままにいかにして数百万人のユダヤ人の虐殺という壮大なプランを実行できたのか説明を求めると、ヒルバーグは、ナチスの様々な機関の中での「官僚同士の心中の合意による信じ難い以心伝心による」と答えた。 ホロコースト裁判 ―ツンデル裁判記録より――
検察側証人でありアウシュヴィッツでガス殺を目撃したとされるアーノルド・フリードマンは問い詰められ、答えに窮した末に、自分は確かにアウシュヴィッツ・ビルケナウにいたが(しかもそこでは強制労働は一度限り、ジャガイモの荷卸をさせられただけだった)、ガス殺に関しては、話に聞いたことを繰り返しただけだと述べた。『カナダの歴史検証主義:ツンデル裁判』~ロベール・フォリソン
検察側証人でアウシュヴィッツ・ビルケナウでガス殺を目撃したとされるルドルフ・ヴルバの著書は、ヒムラーが1943年1月にビルケナウ収容所の新たな〈ガス室〉付き火葬炉の落成式に訪れるシーンから始まる。ところが実際にはヒムラーが最後にビルケナウを訪問したのは1942年7月であり、1943年1月には新たに建設中だった火葬炉群の最初の一基さえ、完成からは程遠い状態にあった。 彼はツンデルの弁護士クリスティーに四方八方から攻められ、法廷で、自著が〈詩法上の破格語法〉つまり詩人に許されるフィクションの範疇で解釈すべきものだと告白した。『カナダの歴史検証主義:ツンデル裁判』~ロベール・フォリソン
この裁判で1988年にツンデルが弁護側証拠として米国のフレッド・ロイヒターに依頼して作成した「ロイヒター・レポート」は、一般にガス室とされている建造物では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であると結論づけている。
1995年5月20日にはツンデル自宅へ爆弾が届く[73]。 その後、ツンデルはウェブサイトを立ち上げて主張を宣伝した。このウェブサイトに対する告訴に対して、2002年1月、カナダ人権裁判所はカナダ人権法に違反しているとの判決を下した。2003年2月、アメリカ合衆国移民帰化局はテネシー州において移民法違反の容疑でツンデルを別件逮捕し、数日後カナダに身柄を送還した。そこでツンデルは難民認定を受けようとしたが、2005年1月まで拘留され、11月にドイツで起訴された[62]。
1993年には、当時マックス・プランク研究所の臨時職員であったゲルマー・ルドルフの「ルドルフ・レポート」がロイヒター・レポートと同様の結論を提示した。批判としてはインターネット上で発表された Richard J. Green のものがある。「ルドルフ・レポート」は極右運動家のオットー・エルンスト・レーマーの裁判において被告側の弁護資料として用いられた。試訳:アウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」に関する技術的・化学的考察
1998年、アメリカの歴史家デボラ・E・リップシュタットは著書『ホロコーストの否認[92]』 において、アーヴィングが意図的に事実をゆがめて書いていると非難した。これに対してアーヴィングが彼女と出版社のペンギン・ブックスを提訴したが、訴えは棄却され、裁判所ではリップシュタットの考察が正しいと認定された[93](アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件)。[94]
1998年10月、ユダヤ系の The Scribe誌は「神の存在を否認する者は罰せられるべきである」「ホロコーストへの正しい態度とは、神の敵であるわれわれの敵に罰を与えることである」として、否認論者こそが「われわれの敵」であり、この人々は「ホロコーストに関与し、参加したとみなされるべきである」し、否認論者の頭には「死刑宣告」とある、と述べた[95]。
フランスではホロコーストの否認は1990年代に否認主義 (négationnisme) として顕著になってきたが、この動きは遅くとも1960年代にはピエール・ギヨームなどのフランス左翼政治家の中に存在していた[96]。1990年代には、フランス共産党の理論的指導者であったフランスの左翼系哲学者ロジェ・ガロディが、「ガス室」をはじめとする従来の「ホロコースト」言説に疑義を提出し、イスラエルが政治的にこの言説を利用してきたと論じた。 『偽イスラエル政治神話』近年、フランスでは左派右派を問わず、否認論が広く展開している。その主張はホロコーストを越えて広がり、戦後それを最大限に利用してきたイスラエル批判にも繋がっている。この中には「ユダヤ人資本家」への批判、聖書にあるカナン人虐殺への指摘、シオニズムに対する批判などが含まれる[97]。
1990年代半ば以降、インターネットが大衆化するにつれてホロコースト否認論者やその他のグループを含む多くの組織が新たに国際的な登場をしてきた。他方、1970年代後半から頻発した否認論者への暴行や関係出版社への放火なども多発し続けた[73]。1996年9月にはイギリスの歴史評論社印刷所に爆弾放火が行われ、1999年1月16日にはバルセロナの書店Libreria Europaが放火された[73]。
オーストリアでは、公共の場におけるホロコースト否認は犯罪であり、アーヴィングが1989年に行った演説を理由に逮捕状が出されていた。2006年、アーヴィングはホロコースト否定の罪によって、オーストリアにおいて起訴され、その場において、「私は1989年にホロコーストを否定したが、1991年にアイヒマン論文を読んでからは認識を改めた」「ナチスは数百万人のユダヤ人を殺した」「具体的な数字は知らない。私はホロコーストの専門家ではない」と、自らの否定説を撤回したが、3年の懲役刑を受けた[98]。オーストリア内務省の決定で、アーヴィングは国外退去処分とされた。アーヴィングは、実際には転向しておらず、 2006年12月21日、帰国したアーヴィングは、「ホロコースト否定の主張をこれからも繰り返す。」と話し、「アウシュヴィッツなどの収容所で死亡した人の殆どは殺されたのでは無く、病気で亡くなった。」、「ドイツやオーストリアがホロコースト否定を禁止する法律を廃止するまで、彼らの商品をボイコットするべきだ。」と主張した [99]。
2019年1月のイギリスの調査では、調査対象となった英国人の5パーセント(推定260万人)がホロコーストが実際に起こっておらず、信じていない。と答えた[100]。
ユダヤ人指導者がホロコーストを利用して金銭的または政治的な利益を得ており、「ホロコースト産業」 (Holocaust industry) や「ショアー・ビジネス」 (Shoah business) という用語もある。たとえば、1996年、スイスの主要銀行に対し、ホロコースト犠牲者のものとされる休眠口座に眠る預金の返還を求めるユダヤ人の集団訴訟が起こされた。1997年、ドラミュラ大統領兼経済相は「あたかもスイスにもかつて強制収容所があり、ホロコーストの主犯であったかのような非難だ。賠償金の要求はまるで脅迫のようなもの」として、これを「ゆすり・たかり」と非難したが[101]、イスラエルやアメリカの圧力を受け謝罪を余儀なくされる。1998年、休眠口座の調査は続行中だったが、銀行側が今後支払い要求に応じないことを条件に12億5千万ドルを支払うことで政治決着した。2001年10月13日、英紙タイムズはスイスの独立請求審判所による調査の結果を報じ、それによれば休眠口座の総額は6千万ドル程度に過ぎず、ほとんどは少額で、処理した10,000 件近い請求のうち確認できた口座は200件だった。
ユダヤ人政治学者ノーマン・フィンケルスタインは、2002年、このようなユダヤ人団体の行動をホロコーストを利用して利益を得るものとして批判する『ホロコースト産業』を著した。このユダヤ人団体などからホロコースト否定論者とされ非難を浴びた。しかし、フィンケルスタインは『ホロコースト産業』において「ホロコーストを利用して利益を得るユダヤ人団体」を批判したのであって、ホロコースト否定論を唱えている訳ではない。著名なホロコースト研究家であるラウル・ヒルバーグや、ユダヤ系であるノーム・チョムスキーはこのような見解を支持している[102]。一方で「産業論」はホロコースト否定論者に好意的に用いられることもしばしばある。
また、ホロコーストはユダヤ人にとって道徳的優位の道具として用いられているという言説はしばしばある。1987年、ベルリン自由大学教授エルンスト・ノルテが「過ぎ去ろうとしない過去」で、ホロコーストは歴史上の多の虐殺と大して変わらないものであるのに、かつて迫害されたユダヤ人はいまでは「永く特別に取扱われ、特権化されている」などと述べ、論争となった(歴史家論争)[103]。1988年2月10日にはノルテ教授の車が放火される[73]。また1998年には作家のマルティン・ヴァルザーがフランクフルト書籍見本市の平和賞受賞講演で、ホロコーストがドイツ人に対して「道徳的棍棒」として使われていると述べて元ドイツ・ユダヤ人中央評議会議長イグナツ・ブービスとの間に「ヴァルザー論争」が起こった[104]。彼らもホロコーストの存在自体を否定したわけではないが、否定論者には彼らの言説が、ホロコーストがユダヤ人に利益にもたらしている証明として、しばしば利用されることもある。
2001年2月にドイツのシュピーゲル誌が発表した世論調査結果によると「ユダヤ人団体は、自身が利益を得るために、独に対し過度の補償要求をしていると思うか」との設問に対し、ドイツ人の15%がそうだと答え、50%が部分的にせよそうだ、と回答している。また2003年12月に行われたイギリスのガーディアン誌の世論調査では「ユダヤ人は自分たちの利益のためにナチス時代の過去を利用し、ドイツから金を取ろうとしているか」という質問に全体の1/4が「そう思う」と返答し、1/3が「部分的だが真実」との認識を示すなど「ホロコースト産業」論も現在のドイツにおいて広く受け入れられている。
2008年11月、聖ピオ十世会の司教リチャード・ウィリアムソンは「ユダヤ人600万がガス室で殺害されたことは史実ではない」と語り[105]、ユダヤ人の死亡者総数は約20万から30万人だと主張した(これは歴史修正主義者の説とほぼ一致する数である)。ウイリアムソンら聖ピオ十世会の聖職者は1988年に叙任問題で自動破門されていたが、教皇ベネディクト16世は聖ピオ十世会との宥和を目指すため、2009年1月に彼らの破門を解除した。バチカンは破門解除にあたってウィリアムソンの発言を知らなかったと釈明している。ベネディクト16世はホロコースト否認をくりかえし非難しており、ウィリアムソンは後に聖ピオ十世会からも追放された。
イスラム教国家においては、ホロコーストに対するユダヤ人への同情論が、結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へと繋がったとする反発から、ホロコースト否認論が近年台頭してきている。中東では、パレスチナの政治グループだけでなくシリアやイランの政府の人間がホロコースト否認を表明しており[106]、2005年にはイランのアフマディーネジャード大統領が「ホロコーストは無かった」などとホロコーストを否定する発言を行って非難を受けた。
ホロコースト否認論はイスラム世界では比較的新しい動きである。名誉毀損防止同盟 (ADL) の副理事ケネス・ジェイコブソン (Kenneth Jacobson) はハアレツ (Haaretz) 紙のインタヴューに応えて次のように述べている。
西側の学者によるホロコースト否認論を適用することはイスラム世界において比較的新しい現象である。彼らの姿勢は、ホロコーストが起こったことは真実だが、パレスチナ人がその代償を負担するべきではないという極めて当然のものである。
ファタハの協同設立者の1人でパレスチナ解放機構の指導者の一人であるマフムード・アッバースはモスクワ東洋大学で1982年に歴史学の博士号を取得したが、学位論文は『ナチスとシオニスト運動の指導者との秘密の関係』と題するものであった[107][108]。なお、ソ連は1960年代からナチスとシオニスト指導部との秘密の結び付き (en:Zionology) を主張し、それを押し進めてきていた。彼がその博士論文を基に1983年に書いた『もう一つの顔: ナチスとシオニスト運動との秘密の関係』 では次のように述べられている。
シオニスト運動の関心事は (ホロコーストの死者) を誇張し、それによって利益を拡大することにあるようだ。これは彼らが国際的世論とシオニズムとの連帯を勝ち得るために (600万という) この数字を強調させる動機になっている。多くの学者がこれまでに600万という数字について議論し、ユダヤ人の犠牲者数を数十万人に修正するという驚くべき結論に達した。[109]
アッバースはまた、2006年3月にハーレツ紙のインタヴューでこう述べている。
私はホロコーストについて詳細に書いており、数字について議論するつもりはないと言っている。私は歴史家の議論を引用したのであって、そこではさまざまな数の犠牲者が言及されていた。ある者は1200万人と書き、ある者は80万人と書いていた。私にはその数字について論争しようとは思っていない。ホロコーストはユダヤ民族にとって恐ろしくかつ許すことのできない犯罪であり、人間には受け入れることの出来ない類の人道に対する罪である。ホロコーストは恐ろしいことであって、私がそれを否認したなどとは誰にも言わせない。[110]
ホロコーストの修正は、現在、様々なアラブ人指導者によって恒常的に宣伝され、それが中東全域の各種メディアを通じて広まっている[111]。2002年8月にはアラブ連盟のシンクタンクで、アラブ首長国連邦副首相のスルターン・ビン・ザーイド・アル・ナヒヤーン (Sultan Bin Zayed Al Nahayan) が議長を務めるザーイド協同追求センター (Zayed Center for Coordination and Follow-up) がアブダビでホロコースト修正シンポジウムを開催した[112]。ハマースの指導者たちもまたホロコースト修正を宣伝している。
2005年12月の演説で、イランの大統領マフムード・アフマディーネジャードはホロコーストがイスラエルを守るために広められた「おとぎ話」だと述べ、国際的非難の新しい波を誘った。「彼らはユダヤ人の虐殺の名の下に伝説を捏造し、神よりも、宗教よりも、預言者たちよりも高い位置にそれを捧げ持っている」と述べ、またユダヤ人を迫害したのはドイツやオーストリアとして、迫害の責任を負うのはイスラエルの国家のために土地を手放しているパレスチナ人ではなくドイツやオーストリアであり、イスラエルはこれらの国々に移転するべきだと主張した。さらにイスラエルのユダヤ人をアメリカ合衆国に移住させることを提案している[113]。
2006年3月6日、イラン国営日刊紙Jomhouri-e Eslami(Jomhouri Islami/ジョムホーリ・イスラーミ)の準公式的記事は、元ドイツ連邦共和国首相ヘルムート・コールがドイツにおけるイラン人ビジネスマンたちとの夕食会の席で、イラン大統領マフムード・アフマディーネジャードの発言「ホロコーストは作り話」という件に関し「心底賛成する」と述べ、また、「アフマディネジャド大統領が言ったことは、我々が胸に深く秘めていたことだ。我々はこのことを長い間言いたかったが、言う勇気がなかった」とも述べたと伝えた[114]。しかし後にコール自身が公式にこの発言を否定し、その根拠も存在するため、これは誤報であったことが判明した[115]。
2006年4月24日には、「究極の真実を明らかにするために」ホロコーストの真の規模を独立の立場から再び査定することを求めた[116]。米国ではイスラム教徒公共問題協議会en:Muslim Public Affairs Councilがアフマディーネジャードの発言を非難した[117]。同年12月にはテヘランで、ホロコーストの存在に否定的・懐疑的な立場を取る著名人・識者を集めたホロコースト・グローバルヴィジョン検討国際会議が開かれた。一方、ハマースの政治指導者であるハーリド・マシャアル (Khaled Mashal) はアフマディーネジャードの発言を「勇敢だ」と評価し、「イスラム教徒はイランを支持するだろう。それはイランが彼らの想い、特にパレスチナの人々の想いを言葉にしてくれるからだ」と述べた[118]。
2007年1月26日の国連総会本会議は、ホロコーストの「全面的、部分的否定」を非難し、すべての加盟国に対してホロコーストの否定とそのための活動を禁止する措置を執ることを勧告する決議案が103カ国の共同提案によって提出された。この決議は投票なしで採択されたが、イランは不参加で「偽善的」と批判した[119][120]。
2013年、新たにイラン大統領に就任したハサン・ロウハーニーは、CNNのインタビューで、「ナチスがユダヤ人だけでなく非ユダヤ人に対して行った犯罪を含め、歴史上起きた人類に対するあらゆる犯罪が批判されるものであると言えます。彼らがユダヤ人に対して犯した犯罪が何であれ、我々は断固非難する。」と語った[121]。これに対し、イランのメディアはCNNがロウハーニー大統領のコメントを捏造したと非難した[122]。
同年、イランの最高指導者アリー・ハーメネイーは、ノウルーズの演説で、ホロコーストの真実性に疑問を呈し、「ホロコーストはその実態が不確かな出来事であり、それが実際に起こったことだとしても、どのようにして起こったのか不明だ。」と発言した[123][124]。
2023年12月20日、シリアのバッシャール・アル=アサド大統領は、ホロコーストはイスラエル建国を正当化する為に捏造された嘘だと主張した。(サウジ通信社、AP経由)アサド大統領は、ホロコーストで600万人のユダヤ人が殺害されたという証拠は無いとし、「確かに、強制収容所はあったが、これが人道問題でも現実に起こった問題でもない。政治化された問題である。(ユダヤ人)600万人の事を話すより、何故独ソ戦で殺された2600万人のソ連人については話さないのか。」「あの戦争で誰が何人殺されたのか?(ユダヤ人の)600万の方が大事なのか?」と語った[125]。
日本においては、フォリソンなど欧米の否認論者の言説を紹介する形で否認論が展開された。ユダヤ陰謀論論説で知られる宇野正美もしばしばホロコースト否認論説を著書に残している。
1994年にはジャーナリストの木村愛二が雑誌『噂の真相』に「シンドラーのリストが訴えたホロコースト神話への大疑惑」と題した記事を寄稿した[126]。1995年には著書『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版)を発表、言論規制の動きに警鐘を鳴らした。木村の問題提起に触発された本多勝一は、一時的にではあるがホロコースト否認論に関心を抱き、当時、本多が編集長を務めていた『週刊金曜日』に木村による連載を企画した。
江川紹子はマルコポーロ事件の直後、マルコポーロの西岡記事を支持しないと明言した上で、サイモン・ウィーゼンタール・センターが文藝春秋に対して行なった広告ボイコットの手法を「民主主義の枠を超えている」と批判[127]、月刊誌『噂の真相』やジャーナリストの長岡義幸などもこの問題を巡る言論弾圧の空気を批判し、「ガス室」についての判断は留保しつつも、西岡を擁護している。木村愛二は『マルコポーロ』の記事がイスラエル建国とホロコーストの関係に全く言及していない点を批判している[128]。
西岡自身はその後、パソコン通信上の発言と1997年の著書[129]において、細部の記述には誤りがあったと自ら認めつつ、ホロコースト否認の立場を維持、ホロコースト否認論者に対する言論規制の動きを「ファシズムと呼ぶべきもの」と呼んで批判した。
ジャーナリストの田中宇は、ホロコーストをめぐる言論状況について「常識と異なる結論に達したら「犯罪者」にされるというのは、分析が禁じられているのと同じ」であるし、またヨーロッパではホロコーストの事実性を検証の対象にすることさえ禁じられようとしていると指摘している[62]。また、シオニストの中でも過激派と、国際協調主義を信奉する労働党系の中道派(左派)とでは意見が対立していると指摘している[62]。
1997年には自らの否定説を梶村太一郎と金子マーティンによって批判された木村愛二が、掲載誌の『週刊金曜日』と著者の二人を名誉毀損で告訴しているが、1999年2月に全面敗訴している。この際裁判所は「ホロコーストは世界にあまねく認められた歴史的事実」という認定を行っている[130]。
2014年産経新聞が11月26日付の同紙東海・北陸版(約5000部)にホロコーストを否定する書籍の全面広告を掲載し、ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」より抗議を受け、謝罪を行った[131]。
いくつかの国においては、ホロコーストなどのナチスの犯罪行為を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰を適用する法律が制定されている。
ヨーロッパ州では特に多く、ドイツの刑法130条、フランスのゲソ法などが代表的であり、オーストリア[132][133]、スイス[134]、ベルギー[120][135]、ルーマニア[136]、チェコ[137]、リトアニア[138]、ポーランド[139]、ルクセンブルク[120]、ロシア[140]、ウクライナ[141]にも同様の法律がある。
アメリカやイギリス、オーストラリア、ブラジルなど、ホロコースト否認論そのものを禁止する法律は無いが、名誉毀損や民族間の憎しみの助長やヘイトスピーチを禁止する法律があり、それらの国では「ホロコースト否定」をユダヤ人差別として裁く事例もある。フランスにおいて人種的憎悪教唆罪で有罪判決を受けたホロコースト否認論者ロジェ・ガロディは、これらの法律が欧州人権条約に違反しており、ホロコーストを否定する権利を侵害されたとして欧州人権裁判所に訴えたが、同裁判所は全員一致でガロディの訴えを棄却している。更に裁判所は判決文の中で、「ホロコーストは明確に立証された歴史的事実であり、それに対して虚偽であるとして異論を唱えることは人種主義とナチズムの復興をはかり、反ユダヤ主義を激化させる目的があると認定し、否認論の表現を認めることは却って人権の基礎となる正義と平和を侵害するものである」と述べた[3]。
2003年のヨーロッパ委員会による「サイバー犯罪条約への追加議定書」[144]では、人種差別的で排外主義的な行為の犯罪化に関する協約で、第6条に「大量虐殺や人道に対する罪の否認、矮小化、是認、正当化」が上げられているが、まだ法律化されていない段階にある。
また、これらの国の中にはナチズムに関するナチの象徴を公に使用することを禁止している場合もある。加えて、ホロコースト否認を禁止している国々では、同時に他人種・他民族に対するヘイトスピーチを禁じるなど、公的な場での発言を制限する法体系が存在していることが指摘されている。『ホロコースト否定と法律』を執筆したロバート・カーンによると、「米国やイギリス、元イギリス植民地のようなコモンロー諸国と、ヨーロッパ大陸の大陸法諸国とで違いがある。大陸法の国々では一般的により規範的である。同時にそれらの国々では、裁判官は審問官として証拠を集めて提示し解釈するが、英米の当事者主義と違い、大陸法の国での裁判は公正さが第一であり、裁判官が審判として機能し真実に到達することを目的としている。」と評している[145]。
2007年1月26日の国連総会本会議には、ホロコーストの「全面的、部分的否定」を非難し、すべての加盟国に対してホロコーストの否定とそのための活動を禁止する措置を執ることを勧告する決議案が103カ国の共同提案によって提案され、可決された[120]。
ホロコースト否定を法で規制することについては、上述したガロディなどのホロコースト否定派を中心に批判されている。一方で、ホロコースト否定派ではない人物からも言論の自由の観点から批判の声がある[146]。
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