ファンケル
神奈川県横浜市中区に本社を置く化粧品・健康食品のメーカー ウィキペディアから
神奈川県横浜市中区に本社を置く化粧品・健康食品のメーカー ウィキペディアから
株式会社ファンケル(英: FANCL CORPORATION)は、化粧品・健康食品(サプリメント等)の製造・販売を行う日本の企業[2]。神奈川県横浜市中区に本社を置く[2]。創業以来長らく、本社を横浜市栄区[注釈 1]に置いていた(上郷町で創業後、飯島町へ移転)[4]。コーポレートスローガンは『正直品質。』[5]。
ファンケル本社が入居するファンケルビル | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
機関設計 | 監査役会設置会社[1] |
市場情報 | |
略称 | FANCL |
本社所在地 |
日本 〒231-8528 神奈川県横浜市中区山下町89番地1[2] 北緯35度26分42.8秒 東経139度38分36.5秒 |
設立 |
1981年(昭和56年)8月18日[2] (ジャパンファインケミカル販売株式会社[3]) |
業種 | 化学 |
法人番号 | 3020001000366 |
事業内容 | 無添加化粧品、健康食品の研究開発、製造および販売[2] |
代表者 |
島田和幸(代表取締役社長執行役員CEO) 山口友近(代表取締役専務執行役員) |
資本金 | 107億95百万円 |
発行済株式総数 | 1億3035万3千株 |
売上高 |
連結:1108億81百万円 単独:923億84百万円 (2024年3月期) |
経常利益 |
連結:129億40百万円 単独:111億36百万円 (2024年3月期) |
純利益 |
連結:88億33百万円 単独:69億9百万円 (2024年3月期) |
純資産 |
連結:805億33百万円 単独:618億0百万円 (2024年3月31日現在) |
総資産 |
連結:1,107億28百万円 単独:871億82百万円 (2024年3月31日現在) |
従業員数 |
連結:1,276名、単独:877名 (2024年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 |
キリンホールディングス 75.24% (2024年9月19日現在) |
主要子会社 | #グループ会社を参照 |
関係する人物 |
池森賢二(創業者) 藤原謙次(元社長) |
外部リンク | https://www.fancl.co.jp/index.html |
特記事項:創業は1980年4月[3]。現法人は株式会社神奈川中央精米センター(1982年5月設立)を1991年12月に商号変更したもの[4]。詳細は#沿革節を参照。 |
2019年にキリンホールディングスと資本業務提携を締結し、同社の持分法適用関連会社となり[6]、2024年に同社の子会社となった。
社名「ファンケル」の由来は「ファイン・ケミカル」(fine chemical、日本語で「混じりけのない化学製品」)の略語からで、前社名の「ジャパンファインケミカル販売株式会社」もこれに由来する[7]。また「不安を蹴る=ファンケル」という説[8] もある。
1980年の創業(会社設立は翌年)以来、無添加化粧品を長年製造販売している。鮮度を表す製造年月日の表示や、5ml入りの使い切りミニボトル(通称「バイアル瓶」)を開発するなど、化粧品業界では初となる試みも、創業者の池森賢二のアイデアによるものである。
後述のとおり(#歴史節を参照)全くの異業種からの参入で、老舗企業の多い化粧品業界では後発である。そのため創業以来、既存の大企業に対抗するべく研究開発に注力しており、海外特許約150件、国内特許約460件(2021年6月時点)[9] を取得している。
関連会社として、同じく化粧品・健康商品などを扱うアテニアなどがある。
池森は1937年(昭和12年)6月1日に三重県(現在の伊勢市[7])で生まれる[7][10]。産能短期大学を中退後[7]、結婚を機に1959年(昭和34年)4月に神奈川県小田原市の都市ガス会社である小田原瓦斯株式会社[11] に入社[7]。小田原・箱根地区でプロパンガスボンベの配達やガス工事業務に従事し、高圧ガスの作業主任資格を取得する[10]。
1973年(昭和48年)に37歳で同社を退職し、出資者を募ってアイデア商品の雑貨販売を営む会社を起業したものの、2年ほどで廃業[10]。事業失敗による当時の金額で約6,000万円という多額の借金を返済するため、兄が東京都で経営していたクリーニング店の営業を手伝い[10]、2年余で借金を完済した[7][10]。この経験が自信につながったという[10]。
借金完済の直後に、ファンケル創業の契機となる出来事が起きる。池森の妻が化粧品による肌荒れに悩んでおり、肌を美しくするための化粧品が肌トラブルの原因となっていることに池森は疑問を抱くことになる[10]。高度成長期の日本では、さまざまな公害が社会問題となり、1970年代後半には食品添加物などによる食品公害と並び、化粧品公害が問題となっていた[注釈 2]。
池森が知人の皮膚科医に聞いたところ、化粧品による肌荒れの大半は接触皮膚炎であり、その原因のひとつが防腐剤や殺菌剤、香料などの添加物であると知る[9][10]。そこで池森は知人の技術者に依頼して無添加化粧水のサンプルを作成させたが、防腐剤不使用では日持ちしないため、池森は5mlの小分け容器に詰めて使い切りサイズで販売することを発案した[10]。また当時は化粧品を使えば使うほど良いという宣伝広告がされていたため、化粧品の過剰使用が肌トラブルを引き起こしていたことから、無添加に加えてシンプルな使用をコンセプトとして掲げた[9]。これがファンケルの無添加化粧品の出発点となった[9][10]。
こうして1980年(昭和55年)4月、池森は42歳で[9] 無添加化粧品の製造を個人創業して販売を開始[3]。1981年(昭和56年)8月18日には法人化し、ファンケルの前身となるジャパンファインケミカル販売株式会社を設立[3]。本社を横浜市戸塚区(現:栄区)上郷町1740番地85に置いた[4]。翌1982年(昭和57年)7月には株式会社ファンケルへ商号変更した[4]。
ファンケルの無添加化粧品は敏感肌やアトピー性皮膚炎などの皮膚障害に悩む人々に支持され[9]、1998年には株式を店頭公開、翌1999年には東証1部上場を果たした[3]。
1990年代には健康食品事業に進出し、1994年(平成7年)2月にサプリメント28品目の通信販売を開始した[3]。当時の健康食品は高価な上に怪しげな商法が多くイメージが悪かったため、健康食品に代えて「サプリメント」という名称を用いるとともに、当時の相場の1/5程度の低価格で販売しイメージアップを図った[7][9]。これにより日本でもサプリメントの使用が習慣として定着し、サプリメントブームが起こるに至った[9]。また1999年(平成11年)には発芽米事業を開始して発芽玄米を発売した。
池森は社長時代から「経営者は老害にならないように65歳ぐらいで引退した方がいい」として、65歳になったら引退すると表明して自ら定年制を設け、65歳となった2003年に社長を退任した[13]。この判断にはダイエー創業者の中内功が引退時期を見誤ったことも教訓となったと池森は述べている[14]。池森は同年に会長、2005年に名誉会長に就任し[3]、いったんは経営の第一線から退いた[10]。
池森は1992年1月の社内報『はぁもにぃ』に「残り10年で後継者を育て心置きなくバトンタッチしたい」と書いたものの、「しかし10年後には、期待する後継者像を満たす人材が社内にいなかった。後継者の育成に失敗した」と語り、社外から後継者を招聘することとした[14]。しかし後継者選びは難航し、その後は経営陣がたびたび交代した[13]。2003年6月にはダイエー出身で元ローソン社長の藤原謙次[13] が、ダイエー取締役からローソンの社長となって店舗数を増やした実績を買われ[14]、2代目社長に就任した[3]。
2007年3月には宮島和美が3代目社長に就任した[3]。宮島は池森の義弟にあたり、ダイエー出身で中内功の秘書を長く務めた[13]。しかし翌2008年6月には蛇の目ミシン工業出身の成松義文[13] が4代目社長に就任し[3]、宮島は会長に就任[13]。池森退任後のわずか5年間に4人の社長が入れ替わるという迷走ぶりとなった。
ファンケルは典型的な製造小売業 (SPA) として、製造から販売までを自社で一貫して行ってきた。しかし池森退任後の2000年代にはこの経営理念が薄れ、創業以来の独自色が失われたことで業績は悪化していた[13]。池森は業績立て直しのため2013年1月に執行役員、同年4月から会長に就任して経営に復帰[3]。組織再編や不採算事業の廃止、社員教育のための社内大学「ファンケル大学」設立などの改革を進めた[10]。他社依存からの脱却を掲げ、池森は「3年で経営を立て直す」と宣言[13]。ドラッグストアへ販路を拡大したことが功を奏し、折からのインバウンド需要も手伝って業績は回復した[13]。2017年4月にはダイエー出身の島田和幸が社長に就任し[3]、宮島は副会長となった[13]。
宮島はダイエー時代からファンケル社長室長を務め、ファンケルに移ってからもブレーンとして創業者の池森を支えてきた。後継者選びの過程で、創業者の義弟として同族経営をすることも考えられたが、しかし社長としては長く続かなかった[13]。なお、池森の長男は画家となっており後継者とはなりえなかった[13]。
2019年6月1日に82歳となった池森は、同年8月に東京都内で行われた記者会見でキリンホールディングスへの株式譲渡を発表。池森(持株比率9.53%)とその親族、資産管理会社などが保有するファンケル株を市場外の相対取引によりキリンHDへ譲渡した[15]。「私が引退していた10年間、業績が衰退し社員に大きな不安を与えてしまった。ファンケルの将来を託せる信頼できる会社に譲った方がよいとの結論になった」[16]、「私が死んだら社員は困る。自分で判断できるうちに社員にとって最良の道筋をつけるのが責任だと思うようになった」と語った[15]。またキリンHDについて「品位のある企業として好印象を持っていた。交渉相手は最初から1社に絞り、私が勝手に選んで勝手に申し込んだ」と述べた[15]。
これによりキリンHDは、ファンケルの発行済み株式の30.3%(議決権ベースでは33%)を1,293億円で取得してファンケルを持分法適用関連会社とした[15]。
2024年6月14日、キリンHDは株式公開買付け(TOB)を行うことを発表した。完全子会社化を目的としているため、TOB成立後は本企業の株式は上場廃止となる予定[17][18]。
一部の店舗を除き、電子マネーQUICPayが利用できる。また、出店先によっては交通系ICカードも使える店舗がある。
2021年4月1日現在[27]。
横浜スタジアムのバックネット裏に看板を掲示している。
健康食品事業のコマーシャルには、読売ジャイアンツに在籍していた原辰徳を起用している。原はファンケルの「パートナー」として、同社がスポンサーとなっている野球教室「ファンケルキッズベースボールチャレンジ」にも携わっている。
2003年、関連会社への転籍を拒否した従業員2人に対し、仕事を与えない、他の社員と隔てられたデスクに着かせる等の「いじめ」を行った。
元従業員2人は、その精神的苦痛による体の不調を訴え、後にうつ病と診断された。
これを受け8月29日、横浜西労働基準監督署は2人のうつ病に対し業務起因性を認め、労働災害として認定した。
この「社内隔離」による労災認定は日本初の事例となっている[31]。
2009年にDHCが販売開始したメイク落とし「DHCマイルドタッチクレンジングオイル」が、ファンケルの主要製品の一つである「マイルドクレンジングオイル」[19] の特許を侵害しているとして、2010年にファンケルがDHCを相手取り、特許侵害による損害賠償7億1,000万円の支払いと販売差し止めを求めて提訴した。
一審では、2012年5月23日の東京地裁判決(大須賀滋裁判長)は特許権侵害を認め、DHCに約1億6000万円の賠償を命じた。販売差し止めについては、すでに製造販売を終えているとして退けた。この判決に対して両社は控訴した。
控訴審は、2013年7月9日、知財高裁(塩月秀平裁判長)で和解が成立した[32]。
ファンケルは1997年12月に「マイルドクレンジングオイル」を発売[19]。入浴中など手や顔がぬれた状態でも使えることを特徴とした製品である。判決などによると、ファンケルは2008年9月に特許を出願し、2009年8月に登録した。DHCは2009年から「DHCマイルドタッチクレンジングオイル」を同様のコンセプトで製造・販売していた。
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