パルク・デ・プランス
パリのサッカー場 ウィキペディアから
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パルク・デ・プランス(仏: Parc des Princes フランス語発音: [paʁk de pʁɛ̃s])は、フランス・パリ16区にあるサッカー専用スタジアム。スタッド・ジャン=ブーアンやスタッド・ローラン・ギャロスの付近に位置している。
パルク・デ・プランス Parc des Princes | |
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UEFA | |
施設情報 | |
所在地 |
24 rue du Commandant Guilbaud 75016 Paris |
位置 | 北緯48度50分29.12秒 東経2度15分10.99秒 |
起工 | 1897年 |
開場 | 1897年9月18日 |
修繕 | 1997年-1998年、2014年-2016年 |
拡張 | 1931年-1932年、1967年-1972年 |
所有者 | パリ |
運用者 | SESE |
グラウンド | Dessoグラスマスター |
ピッチサイズ | 105 m x 68 m |
照明 | 1500 lux |
建設費 | 9000万フラン |
設計者 | ロジェ・タイイベール (1972年) |
使用チーム、大会 | |
パリ・サンジェルマンFC (1974年-) サッカーフランス代表 (1974年-1998年) #開催された主な試合を参照 | |
収容人員 | |
47,929人 | |
アクセス | |
en:Porte d'Auteuil (Paris Métro)ポルト・ドートイユ駅より徒歩8分 |
収容人数は47929人で、1974年よりパリ・サンジェルマンFCがホームスタジアムとして使用している。なお、1998年以前は、サッカーフランス代表とラグビーフランス代表もホームスタジアムとして使用していた。全席着席方式のスタジアムで、四方向のスタンドに囲まれている。
設計はフランス人建築家のロジャ・タイリベールとイラン人建築家のシアヴァシュ・テイモウリによって行われ、建設には9000万フランが投じられ、1972年5月25日にオープンした。なお、それ以前にも1897年に初代、1932年に2代目のスタジアムが建設されており、現在のスタジアムは3代目である。
このスタジアムにおけるサッカーの観客動員記録は1983年のUEFAカップウィナーズカップにおける準々決勝第1戦のパリ・サンジェルマン対KワーテルシェイSVトール・ヘンクにおける49575人だが、1989年ファイブネーションズチャンピオンシップのフランス対ウェールズ戦で50370人の観客を記録しており、これが全体での最多動員記録である。
スタジアムのある地域は、フランス革命以前は王室の森林公園であった (スタジアム名にパルクが含まれるのはこのためである) 。従前は研究所であった。
1897年に周長666mの長円形スタジアムとして誕生した。当時はスタッド・ヴェロドローム・デュ・パルク・デ・フランスと呼ばれていた。この初代スタジアムには3000以上の座席と728ヤードのトラックが整備されていた。しかしながら構造が劣悪だったため、同年のこけら落しとなる7月18日には一般の観客は入ることができなかった。このままでは自転車競技場としての機能を果たせないと考えた、ツール・ド・フランスの生みの親である、アンリ・デグランジュの意向により、1903年から1967年まで同レースの最終ゴール地点と定めた。また、1900年UCIトラック世界選手権大会でも使用された。
1903年には初めてサッカーの試合が行われ、イングランド代表対パリの一流選手で構成されたチームの試合が行われた。また、1905年にはフランス代表対スイス代表の試合も行われた。1906年にはラグビーフランス代表がニュージーランド代表と対戦した。
これらが契機となって、1924年のパリオリンピックの会場の候補にも推挙されたが、周長が長い分、カントが低い設定となっていたことが嫌われる形となっていたほか、座席も増設されたものの20000席であったことなどが要因で、同年のパリオリンピックのトラックレースの会場は、1900年のパリオリンピックの開会式会場となった、ヴェロドローム・ド・ヴァンセンヌが選出された。
上述のパリオリンピック会場誘致失敗を契機とし、デグランジュの後を受けてツール・ド・フランスのレース責任者となったジャック・ゴデの意向により、1932年に従前の666mから454mに改修され、また観客席も2万人収容から4万人収容へと大幅に増築された。
1932年4月19日にオープンしたが、快適性の観点から座席はオープン間もなく38000席に減らされた。
一方で当時、4万人という収容人員を誇るスタジアムが、フランス国内にあまりなかった背景から、競技場内のフィールドを利用して、球技場としても利用されることになった。改修以前にもサッカーやラグビーの試合が行われたこともあったが、改修後はその頻度が急増した。とりわけ、1938年のFIFAワールドカップや、1954年の第1回ラグビーリーグ・ワールドカップの決勝戦、及び1960年の第1回UEFA欧州選手権の開催が契機となり、後述する、サッカー用スタジアムへの転身へと繋がっていくことになった。
現在、パルク・デ・プランスが建っている場所は上述の通り元々は自転車競技場であったが、1970年にそれまでプロサッカークラブとは無縁であったパリに、パリSGが発足したのに合わせて1972年にそれまでの自転車競技場に手を加える形で誕生した。
前述の通り、ロジャ・タイリベールとシアヴァシュ・テイモウリによって設計されたこのスタジアムは、フランスの中でも有名なスタジアムの一つとなっている。また、楕円形の屋根に照明を組み込んだ初めてのスタジアムでもある。
リーグ・アンに所属しているパリ・サンジェルマンFCのホームスタジアムであり、サン=ドニのスタッド・ド・フランス(約8万人収容)が完成する以前は、パリにおけるサッカー、ラグビーのフランス代表のホームスタジアムであった。
サッカーの国際大会ではUEFA欧州選手権(1984年大会・2016年大会)や1998 FIFAワールドカップ、2019 FIFA女子ワールドカップで使用されており、欧州選手権では1984年大会の決勝開催地となった。ラグビーワールドカップでは1991年大会と2007年大会で使用された。2024年パリオリンピックではサッカー会場として使用される。
2012年~2016年にかけて、アメリカ人建築家トム・シーハンのもと、幾度かの改修も行われた。改修には座席の位置の調整、新しいベンチと更衣室の整備などが含まれている。この改修により、スタジアムの収入は4倍増加した。
約5万人収容という程よい大きさと交通の便のよさのためか、パリSGは現在もスタッド・ド・フランスに本拠地を移転せずパルク・デ・プランスを使用し続けている。
日付 | ホームチーム | 結果 | アウェーチーム | ラウンド |
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1956年6月13日 | レアル・マドリード | 4-3 | スタッド・ランス | UEFAチャンピオンズカップ1955-56決勝 |
1978年5月3日 | RSCアンデルレヒト | 4-0 | FKアウストリア・ウィーン | UEFAカップウィナーズカップ1977-78決勝 |
1995年5月10日 | アーセナルFC | 1-2 | レアル・サラゴサ | UEFAカップウィナーズカップ1994-95決勝 |
1998年5月6日 | SSラツィオ | 0-3 | インテル・ミラノ | UEFAカップ1997-98決勝 |
先代 - |
UEFA欧州選手権 決勝戦会場 -1964 |
次代 サンティアゴ・ベルナベウ (マドリード) |
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