ネルトリンゲン
ドイツの都市 ウィキペディアから
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ネルトリンゲン または ネルドリンゲン(ドイツ語: Nördlingen, ドイツ語発音: [ˈnœrdlɪŋən][2], アレマン語: Nearle(ネアーレ))は、ドイツ連邦共和国バイエルン州シュヴァーベン行政管区のドナウ=リース郡に属す大規模郡都市で、かつては帝国自由都市であった。
紋章 | 地図 (郡の位置) |
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基本情報 | |
連邦州: | バイエルン州 |
行政管区: | シュヴァーベン行政管区 |
郡: | ドナウ=リース郡 |
緯度経度: | 北緯48度51分10秒 東経10度29分23秒 |
標高: | 海抜 441 m |
面積: | 68.09 km2 |
人口: |
21,053人(2023年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 309 人/km2 |
郵便番号: | 86720 |
市外局番: | 09081 |
ナンバープレート: | DON, NÖ |
自治体コード: |
09 7 79 194 |
行政庁舎の住所: | Marktplatz 1 86720 Nördlingen |
ウェブサイト: | www.noerdlingen.de |
首長: | ダーフィト・ヴィットナー (David Wittner) |
郡内の位置 | |
地図 | |
ネルトリンゲンは、1500万年前にシュヴァーベンジュラ山脈に落下した隕石のクレーターであるネルトリンガー・リースに位置する。このクレーターは直径23 kmあり、その縁は環状の連丘に見える[3]。リース内をヴェルニッツ川とエーガー川が流れ、この都市の南東約30 kmの地点でドナウ川に注ぐ。
隕石が衝突した際、瞬間的に超高温、超高圧にさらされた地表の岩石がスエバイトに変化した。このスエバイトは建築用途に重宝され、現在も同市内の建物で見ることが出来る。
また、フランケン地方南東部およびシュヴァーベン地方の北部に位置しており、住民の大部分はアレマン語の一方言であるシュヴァーベン語を言語とするアレマン人が多い(アレマン諸語の最北端に属する)。
本市は、公式には17の地区 (Ort) からなる[4]。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。
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ネルトリンゲンを中心とした位置関係は以下の通り。
バルディンゲン | プフェッフリンゲン、 デュレンツィンメルン、 レプジンゲン | |
グロッセルフィンゲン | ||
ネーアーメンミンゲン、 ホルハイム |
クラインエルトリンゲン、 ヘルクハイム |
シュメーインゲン |
以下の市町村が、ネルトリンゲン市と境を接する: ヴァラーシュタイン、マイヒンゲン、エッティンゲン・イン・バイエルン、ムンニンゲン、ヴェヒンゲン、ダイニンゲン、アラーハイム、メッティンゲン、ライムリンゲン、ホーエンアルトハイム、エーダーハイム、ネーレスハイム、ボプフィンゲン、リースビュルク
ネルトリンゲンの中核部は大まかにアルトシュタット、グラーベン、ヴェムディンガー地区、アウクスブルガー地区、タールブライテ、ヘルクハイマー地区、ジュートチロラー地区からなる。バルディンゲン区とクラインエルトリンゲン区は中核部とほぼ完全に融合している。他の市区は隔離した村の性質を残している。
土地利用と面積 (ha) | |
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合計 | 6,810 |
農業用地 | 5,418 |
住宅地および遊休地 | 591 |
交通用地 | 529 |
オフネットヘーレンの発掘は、現在のネルトリンゲンの市域には旧石器時代後期から定住者があったことを示している。ネルトリンゲンの市域には、その後のほぼあらゆる前史時代の発掘地が見られる。特に興味深いのはバルディンゲン区の東端近くで、ここには、線帯文土器文化時代、新石器時代、骨壺埋葬文化、ハルシュタット時代、ラ=テーヌ時代の入植者が定住していた。ここには火葬墓地を有するローマ時代の村 (Villa) もあった。
西暦85年頃に市の南に入植地 (vicus) を有するローマ帝国の城が築かれたが、259年から260年に現在の南ドイツがアレマン人によって征服されたことで零落していった。この入植地の名前は、おそらく Septemiacum であったと推測される。このラテン名は、Tabula Peutingeriana によって確かな形で伝えられているのだが、このローマ人入植地が現在のネルトリンゲンを指すものであるかどうかは完全に確定できない。ローマ時代の荘園 (Villa rustica) がホルハイム区で発掘され、見学できる。ローマ時代のネルトリンゲンは全般的に研究がなされている。
6世紀から7世紀のアラマン人入植地が証明されている。この時代の墓地が3カ所ネルトリンゲン市内で発掘されている。
<Nordilingin>(750/802)が最も古い表記であるが、これは「北」とは関係なく、*Nordiloという人名に由来すると考えられる[5]。"Nerdilinga" は898年にカロリング朝の王領として記録されている。レーゲンスブルク司教の統治下でネルトリンゲンは市場町に成長していった。
1215年にネルトリンゲンは皇帝フリードリヒ2世から都市権を与えられ、帝国自由都市となった。この年に最初の市壁が築かれた。その縄張りは現在も街の地図に見て取れる。1219年、ネルトリンゲンの聖霊降臨祭についての最も古い文献上の記録が遺されている。重要な交易路が交差するこの都市は穀物、家畜、織物、毛皮、金属製品の主要な集散地に発展していった。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (Wolfram von Eschenbach, 1160年/1180年頃 - 1220年頃またはそれ以降)は叙事詩『ヴィレハルム』において、この地で亜麻の生産が盛んだったと推測される記述をしている[6]。13世紀後半以降、2週間にわたる市が開かれ、ネルトリンゲンはフランクフルトと並ぶドイツで最も重要な遠距離交易都市の一つとなったのである[7]。
1238年の火災で都市の大部分は焼失したのだが、ただちに復興された。三世代後には市壁の外にも多くの手工業者、特に革なめし工や織工が住み着いていた。そこで1327年から14世紀末にかけて、郊外地を組み入れる、今も遺る市壁が建設された。これにより市壁内の面積は4倍の50 ha に拡大した。人口は5000-6000人であった[7]。1427年に聖ゲオルク教会の建設も始まった。
1529年のシュパイヤー帝国会議で、この都市はプロテスタントを支持する少数派に属した。市民はプロテスタント信仰の拡大が妨害されないことを要求した。1555年にネルトリンゲンの宗教改革が確定した。
ネルトリンゲンでの魔女狩りの歴史は記録がよく遺されている。1589年から1598年までの間に34人の男女が魔法使いとされ、火あぶりで処刑された[8]。
三十年戦争で歴史の転換点となったのがネルトリンゲン包囲戦とそれに続く1634年に起きたネルトリンゲンの戦いである。この戦いでスウェーデン=プロテスタント軍は初めて皇帝=ハプスブルク軍にはっきりとした敗北を喫したのであった。ネルトリンゲンは勝者に城門を開かねばならなかったが、高額の賠償金を支払うことで略奪行為を免れた。しかし、この都市は包囲戦からその後にかけて飢餓や病気で住民の半分以上を失うという被害を受けていた。さらにその後のスペイン継承戦争でも、近くで起こったヘーヒシュタットの戦いによりこの都市は打撃を被っている。
戦争の後、交易は港湾都市で行われるようになり、ネルトリンゲンは交易中心都市としての機能を喪失した。この時代の沈滞が、中世の風景が現代まで遺された理由である。
1802年にバイエルン選帝侯はこの都市を併合し、これにより帝国都市の地位も失われた。
1849年5月15日、ルートヴィヒ南北鉄道の操業開始によってネルトリンゲンはバイエルン王立国営鉄道の鉄道網に接続した。1861年7月25日、ヴュルテンベルク王立国営鉄道がカンシュタットからアーレンを経由してネルトリンゲンまで完成した。この路線は1863年に全線開通した。
中世からネルトリンゲンにはユダヤ人家族が定住していた。死者はネーアメンミンガー・ヴェクのユダヤ人墓地に葬られ、1885年にはクロイツガッセ 1に新しいシナゴーグが建設された。この神殿は1938年11月の迫害運動で親衛隊員に荒らされた。現在のプロテスタント組織事務所に掲げられた記念プレートがこの事件をしのばせる。また、1979年にユダヤ人市民によって屋根が設けられたユダヤ人墓地の記念プレートは、ホロコーストの犠牲者を追悼して建立されたものである[9]。
1939年になってネルトリンゲンの人口はやっと1618年(すなわち三十年戦争前)の水準に復した。
第二次世界大戦では空爆によって1945年春に33人が命を落とした。駅や多くの住宅が破壊され、聖ゲオルク教会も大きな損傷を被った。しかし歴史的旧市街の遺構はほとんど無傷で遺された。
戦後はアメリカ軍の管理地域に属した。アメリカ軍司令部は Displaced Person(DP、旧ドイツ領の東プロイセンやシレジア、チェコ領であったズデーテン地方などから追放された人々)のための難民収容所を設けた。この収容所はUNRRAにより運営され、約500人のDPに宿を提供した。その多くはラトビアやリトアニアからの人々であった。
戦後ネルトリンゲンには4500人を超える故郷を失った人々が定住した。
バイエルン州の郡域再編に伴い、1972年7月にネルトリンゲンは郡独立市の地位を失い、新たに創設されたネルトリンゲン=ドナウヴェルト郡に編入された。この郡は1973年5月1日に「ドナウ=リース郡」と改名された。
市議会は24人の議員からなる。
名前 | 政党 | 肩書き | 任期 |
パウル・ゼルトナー | 第1市長 | 1945–1946 | |
ヨーゼフ・ファイル | 第1市長 | 1946–1948 | |
ヨハネス・ヴァインベルガー | SPD | 上級市長 | 1948–1964 |
ヘルマン・ケスラー | CSU | 上級市長 | 1964–1982 |
パウル・クリング | CSU | 上級市長 | 1982–2006 |
ヘルマン・ファウル | PWG | 上級市長 | 2006-2020 |
ダーフィト・ヴィットナー | PWG | 上級市長 | 2020年以降 |
ネルトリンゲンはプロテスタントのバイエルン地方教会アウクスブルク教会郡の監督官所在地である。カトリックのネルトリンゲン首席司祭区はアウクスブルク司教区に属す。
ほぼ完全に保存されている1327年に建造された市壁は5つの楼門と11の塔、2つの堡塁を有している。市壁の内側の通路も完全に保存されており、歩いて通ることができる。
一番大きな楼門は南のベルガー門である。ここから時計回りに西のバルディンガー門、市壁博物館としても使われている北のレプジンガー門、北東のダイニンガー門、東のライムリンガー門が連なる。塔は、北西から時計回りにファイル塔、レーヴェン塔、オベーラー・ヴァッサー塔、バックオーフェン塔(5基)、シュピッツ塔、ウンテラー・ヴァッサー塔、ライス塔である。2つのフロアに大砲が設置されていた旧堡塁は完全に保存されている。これに対し、新しい堡塁は1808年から1826年に取り壊された。
ネルトリンゲンを象徴する建造物は、1427年から1505年に建造されたゴシック教会である聖ゲオルク教会の高さ90mのダニエルと呼ばれる教会塔である。見所は他にも旧市街南西の端にあるカトリックの聖ザルヴァトール教会がある。ネオゴシック様式の聖エメラム墓地教会は1874年から1875年に造られたが、その原型はネルトリンゲンに最初に建てられて教会で9世紀にまで遡る。シュピタール教会は13世紀に聖霊病院の一部として建設されたものである。聖ヨーゼフ教区教会は1960年から1962年に建設された。
聖ゲオルク教会の北側にはマルクト広場があり、中世には毎年10日間、ここで見本市が開催された。布地の商人達は、ブロート・タンツハウスに商品を展示していた。この建物は1442年から1444年に建設されたもので、上層階は祝祭ホールとして使われていた。この建物と橋でつながっているのが木組み建築のメツィヒである。普段は肉屋 (Metzger) の売店が占めているのだが、見本市の時期には売り場が拡張して利用された。さらに1304年の文献にはすでに登場するヘーエ・ハウスもある。
向かい側に立つゲストハウス「ツア・ゾンネ」(太陽亭)は1350年に建設され、1405年から領主館として用いられていた。1500年頃には皇帝フリードリヒ3世とマクシミリアン1世、1548年にカール4世、1788年にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがゲストとして宿泊し、1970年にはアポロ月面旅行計画の宇宙飛行士らが宿舎とした。
この建物のすぐ北隣に市庁舎がある。聖ゲオルク教会や市内の多くの建物同様、ネルトリンガー・リースで産出される多孔性のスーバイトを用いて建設されている。1313年にはすでに販売記録にその名が記されており、当時は市場の販売会場として利用されていることが立証された。1382年に市はこの建物を賃借し、それ以後ずっと市庁舎として使われている。1500年頃に上層階に階段破風が設けられ、建物の張り出し部が取り付けられた。1509年に宝物塔、1618年に印象的なルネサンス様式の階段口が増築された。16世紀にシュヴァーベン同盟の代表者が会した大集会ホール内にはハンス・ショイフェリンの大きくて貴重なフレスコの壁絵がある。
ネルトリンゲン旧市街全域には、中世やルネサンスの時代から愛情込めて手入れされた豪華な建物が豊富に遺されている。
マルクト広場の北西に、ノミの市が開かれるアイゼンガッセがある。この通りは周辺に金物商(Eisen = 鉄)が多く住み着いたことから名付けられた。アイゼンガッセ沿いでは1563年に建造されたシュナイトチェ・ハウスが注目に値する。三十年戦争の際、1632年9月にグスタフ2世アドルフが2日間この建物を宿とした。この通りはハーフェンマルクト(かめ市場)につながっている。ハーフェンマルクト沿いには、1278年から1802年までカイスハイム帝国修道院の所有であったカスハイマー・ハウスがある。やはりハーフェンマルクト沿いにあった1425年建造の装飾性の高い旧商家ハーフェンハウスは1955年5月3日の火事で焼失した。
テンデルマルクトでは北西角の大きなクレステルレが目に付く。この建物はかつてフランシスコ会修道院であった。宗教改革の時代に徐々に衰退していった。市は1536年にこの建物を買い取り、1584年から1587年に穀物庫に改築した。内陣は取り壊され、現在の大きな階段破風が設けられた。
その西側には典型的な木組み建築の製革工房が数軒ある。前方に大きく突き出しているのは乾燥スペースであり、上階はギャラリーになっている。作業に必要な大量の水はエーガー運河によりこの地区に供給された。このため、この地区の北端の橋の近くにノイミューレの大きな水車がある。
1233年に創設された聖霊病院はかつて老人や貧民の養護施設として用いられていた。当時の多くの類似施設同様、寄進によって運営・拡張された。13世紀に建設された施療教会は14世紀の貴重な壁絵が保存されている。それぞれ15世紀および16世紀に建設された2つの本館は市立博物館に利用されている。
旧市街南部では1697年建造のヴィンターシェ・ハウス(冬の家)が特筆に値する。大きく、均整のとれた木組み建築は、その背後に趣の良い庭園を隠している。ヴァインマルクト(ワイン市場)沿いには一連の特徴的な市民の家があり、大きく重量感があって一際目立つ1541 - 1543年に建造されたホールがある。この建物は初め、市の塩やワインの倉庫として使われていた。ヴァインマルクトには、かつてのレストラン、ツア・クローネ(冠亭)もある。この女主人マリア・ホルは魔女狩りで有名である。
ポリツァイガッセには一連の注目すべき市民の家がある。この通りはヴァインマルクトとマルクト広場を結んでいる。ここには旧郵便局、メッツェルシェ・ハウス、アインホルン薬局がある。
ゲオルク教会の東、リューベンマルクトには、1870年から71年の普仏戦争を記念して1902年にゲオルク・ヴルバによって建立されたユーゲントシュティール様式の戦争の泉がある。
オクゼンツヴィンガーとベルガー門の間の市堀のフリックヒンガー斜面は彫刻のある公園施設で、エキゾチックな樹木が植えられ、バラ園(ローザリウム)が設けられている。
ガルゲンベルクおよびシュトッフェルスベルクは旧市街南東の森林で覆われた地域であり、マリー・フリーデリケ・フォン・プロイセンにちなんだ名(マリエンヘーエ = マリーの丘陵)で呼ばれている。元々は不毛の丘陵であったが、1834年に植林が始まり、次第に風致公園に整備されていった。ガルゲンベルクのヘクセンフェルゼン(魔女の岩)は、中世の魔女狩りの時代には市立処刑場であった。1817年にマリエンヘーエに初めてビアホールができた。現在3軒のビアホールがあり、ハイキングの目的地となっている。マリエンヘーエの南斜面にはネルトリンゲン屋外プールがある。
中世の堡塁の中にある野外劇場アルテ・バスタイ(旧堡塁)は、アマチュア劇団のフェライン・アルト・ネルトリンゲンが毎年夏に歴史劇や現代劇を上演する会場になっている。自主運営の地元で評判良い演劇プロジェクトはドラマティシェ・アサーベル・ネルトリンゲン(ドラマティック・アンサンブル・ネルトリンゲン)である。冬のシーズンになるとクレステルレ市立ホールで定期的に旅芝居が公演を行う。オクゼンツヴィンゲン文化センターには小芸術劇場がある。
ネルトリンゲンは、1604年に短縮・簡略化版の『ロミオとジュリエット』を上演し、イギリス外で初めてシェークスピア作品を上演したという演劇史上の名声を獲得した[10]。
1924年に設立されたネルトリンゲン子供楽団は南ドイツの有名な子供楽団である。この若い音楽家達は世界中にツアーを行ったり、サッカーの国際試合や使節が訪問した際に演奏を行ったりしている。市立楽団は1990年に設立された。リーザー音楽学校(リース音楽学校)は音楽の早期教育や楽器演奏に関する授業を行っている。多くの合唱団、クラシックのアンサンブルやジャズ・アンサンブルがネルトリンゲンでサークル活動を行っている。リース・ライフアイゼン国民銀行の冬のコンサート・シリーズには著名な室内楽アンサンブルが出演する。ネルトリンゲンの酒場(クナイペ)でロック、ポップス、ジャズのバンドが演奏を行うネルトリンガー・クナイプツアーは、1996年以降、毎年春に開催されている。
リーザー・スポーツパークは公園風のスポーツ施設である。中心には1万人の客席と予備グランドやトレーニンググランドを持つ陸上競技場(ゲルト・ミュラー・シュターディオン)がある。このグランドはTSVネルトリンゲンのホームグラウンドでもある。この他、ヘルマン・ケスラー・ハレ(体育館)がリーザー・スポーツパークのもう一つの中心となるスポーツ施設である。この体育館は5階建てで、2008年のネルトリンゲンで開催されたバスケットボールのホームゲームのために、キャパシティ3,000人に拡張された。テニスには、数面のクレイコートと3面の屋内コートが使用できる。この他にネルトリンゲンには、モーター飛行機およびグライダーのための飛行場がある。ボイムレスグラーベンのスケート場は、市によれば南ドイツ最大の天然スケートリンクである。
ネルトリンゲンにはリース鉄道アーレン - ドナウヴェルト間の列車が停車する。ドムビュールへの路線とグンツェンハウゼンを経由してニュルンベルクに至る路線は定期的な旅客運行を停止しており、ヴェムディングへの支線は廃線になった。このため、ネルトリンゲンの乗換駅としての機能は失われている。古い操車場はバイエルン鉄道博物館として利用されている。
市のすぐ北には、リーザー・フルクシュポルトフェラインe.V.(スポーツ飛行クラブ)が特殊飛行場を運営している。交通用の小さな飛行場はネルトリンゲンから20km離れたアーレンのハイデンハイム区にある。最寄りの一般空港はニュルンベルク、シュトゥットガルト、メミンゲン、ミュンヘンにある。
ネルトリンゲンには、中規模企業を主体として、多くの業種の企業がある。元々盛んだった繊維産業からは、ブランドを興したストラネス (Strenesse) だけが残っている。地域内の商売が中心であり、周辺は都市部への農作物供給地域となっている。
大変に古く、かつては主要都市であったネルトリンゲンには100年を超える伝統のある企業が残っている。
ネルトリンゲンの中世の趣を持つ旧市街は19世紀末から観光の対象であった。ツーリズムと外食はネルトリンゲンの重要な経済基盤となっている。市当局は、2007年には延べ70,267泊の宿泊客があったとしている。宿泊客の1/3が外国からの客であり、その多くはイタリア人、韓国人、アメリカ人、イギリス人である。旧市街の他に地質学上ユニークでゲオパークとして知られるリースクレーターがツアー先として開発されている。ネルトリンゲンは、ロマンティック街道、シュヴェービシェ・アルプ街道、マイン=ドナウ遊歩道およびドイチェ・ザンクト・ヤーコブス協会のヤーコプスヴェク I に面しているシュヴェービシェ・アルプ協会の主要遊歩道1はネルトリンゲン南部のリース周縁部を通っている。リースクレーター惑星の道は、聖ゲオルク教会の丸屋根を太陽に見立て、リース内に惑星の表示を建てたものだが、冥王星はハールブルクのすぐ手前にまで至る。
この地域の日刊紙は リーザー・ナハリヒテン (Rieser Nachrichten) という名であり、アウクスブルガー・アルゲマイネ (Augsburger Allgemeine) の地方版である。この他にネルトリンゲンでは Extra Ran, WochenZeitung – WZ aktuell und Sonntagszeitung という週刊新聞が発刊されている。
ネルトリンゲンで発刊された最初の新聞は Continuation der Augspurger Zeitung という名前でルーカス・シュルテスによって印刷されていた。シュルテスは1627年からエッティンゲンで新聞を発行してきたが、1627年にネルトリンゲンに移住した。
ネルトリンゲンは、ミュンヘン上級地方裁判所管区アウクスブルク地方裁判所管区に属す地区裁判所の所在地である。
ネルトリンゲンの中世さながらの旧市街は何度も映画のロケ地に使われている。例えば『夢のチョコレート工場』(1970年)や『Bibi Blocksberg』(2002年)に見ることができる。日本のアニメシリーズ『プリンセスチュチュ』の舞台である架空の街「金冠町」はネルトリンゲンをモデルにしている。聖ゲオルク教会、旧穀物市場、レプジンガー門、戦争の泉、クレステルレあるいは市庁舎の道化の肖像といったネルトリンゲンの建物がオリジナルに忠実に描かれている。また漫画『進撃の巨人』のシガンシナ区を始めとした「壁の内側の街」のモデルとして言及されることも多い。
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