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フランツ・モーリツ・ヴィルヘルム・マルク(Franz Moritz Wilhelm Marc, 1880年2月8日 – 1916年3月4日[1])はドイツの画家・版画家であり、ドイツ表現主義美術の主要人物の一人である。芸術サークル「青騎士」の創設メンバーであり、後に「青騎士」は同サークルの同人と協働する雑誌の名前にも採用された。成熟期の作品はほとんどが動物であり、鮮やかな色使いで知られている。第1次世界大戦が勃発するとドイツ帝国陸軍に徴兵され、それから2年後にヴェルダンの戦いで戦死した。
1930年代になるとナチスから、近代芸術抑圧の一環として、「頽廃的な芸術家」として名指しされた[2]。それでもマルク作品の大半が第2次世界大戦を生き延びて、作者の名声を世に遺した。マルク作品は現在、多くの著名な画廊や美術館に展示されている。主要な作品は高額になっており、例えば『狐』は2022年に42,654,500ポンドという価格を記録している[3]。
1880年に、当時バイエルン王国の首都であったミュンヘンに生まれる。父ヴィルヘルムはプロの風景画家であり、母ゾフィーは敬虔だが社会的にはリベラルなカルヴァン派の主婦であった。17歳で兄パウルのように神学を学ぶことを志望したが[4]、2年後にはミュンヘン大学の美術課程に進学した。まず1年間従軍した後、1900年にミュンヘン美術アカデミーで学習し始め、ガブリエル・フォン・ハックルやヴィルヘルム・フォン・ディーツらの教員に師事した[5]。1903年と1907年にフランスに過ごし、特にパリで美術館を訪れては多くの絵画を筆写しているが、これは画家にとって技術の習得と上達のための伝統的な方法であった。パリでマルクは芸術サロンに足を運び、女優サラ・ベルナールらの著名な芸術家と出会っている。また、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作品に強い共感を見出している[5]。
20代のマルクは数々の堂々たる浮名を流しており、その一つに、9つ年長の既婚の骨董品商アネッテ・フォン・エックハルトとの長年にわたる関係があった。結婚は2度しており、最初にマリー・シュニュールと、次いでマリア・フランクと結婚した。
1906年に、ビザンティン学の専門家である兄パウルとともに、テッサロニキやアトス山など、ギリシャ各地を歴訪した。それから数年後の1910年、マルクは画家のアウグスト・マッケと重要な友情を培った。同じく1910年に、『猫のいる裸像』や『放牧馬』を制作し、ミュンヘン・タンハウザー画廊における新芸術家協会第2回展覧会に出品している(マルクは同協会に一時期在籍したことがあった)[6]。
マルクは、ミュンヘン新芸術家協会の運動と袂を分かつことを決心したマッケやワシリー・カンディンスキーらとともに、芸術サークル「青騎士」を発足させ、1911年にその中心となる同人誌『青騎士』を創刊した。
さしあたって1911年12月から1912年1月までミュンヘン・タンハウザー画廊における「青騎士展覧会」に数作を出展していたが、「青騎士」がドイツ表現主義運動の機軸となるにつれて、展示はベルリンやケルン、ハーゲン、フランクフルトでも行われた。
1912年にはロベール・ドローネーと知り合い、その色彩の用法や未来派的な方法論がマルク作品に多大な影響を及ぼした。マルクは未来派や立体派に魅せられて、自然界の抽象的なかたちを描き出して色彩に精神的な価値を見出すという、いよいよ本質的に峻烈な芸術を生み出したのである[7]。1912年に『虎』や『赤い鹿』、1913年には『青い馬の塔』『狐』『動物の運命』を描いた[6]。
1914年に第1次世界大戦が勃発すると、マルクはドイツ帝国陸軍に騎兵として徴募された。1916年2月まで、妻宛の手紙に書き送っているように、マルクは迷彩塗装に借り出されていた。空からの監視に対して武器を目隠しするためマルクは画力を利用され、大ざっぱな点描様式で布の覆いを塗装させられた。2キロメートル以上も上空を飛ぶ航空隊に向けて、果たして最上の効果をあげられるのか疑問を覚えながらも、「マネからカンディンスキーにいたる手法で」そのような9つのタープの塗装をすることに悦びを覚えていた[8]。
1916年までに、マルクは中尉に昇進し、鉄十字勲章を授与されている[9]。
ドイツ政府は陸軍の動員後、著名な芸術家の身元を確かめ戦地から引き揚げさせて身の安全を図ろうとした。マルクの名も認識されていたが、配置転換の指令が届かぬうちに、1916年のヴェルダンの戦いにおいてマルクは頭を撃ち抜かれて即死したのであった[10]。
マルクは木版やリトグラフによって、60点ほどの版画を制作した。成熟期の作品のほとんどが、常に自然を舞台にして動物の姿を描き出している[11]。マルクの作品は、鮮やかで原始的な色使いと、動物のほとんどキュビスム的な形態、それから感情についての著しい単純化と深い感覚が特徴的である。生前においても、マルクの作品は有力なサークルの注目を集めていた。マルクは作品に使った色に対して、感情的な意味や意図を添えていた。青は男性性や精神性の、黄色は女性性や歓喜の表れであり、赤は暴力的な調子を秘めている、といった具合であった。
マルクの最も名高い作品の一つは、バーゼル市立美術館に展示されている『動物の運命(Tierschicksale)』である。さる美術史家が指摘したように、「差し迫った大変動の緊張が社会に浸透した」1913年にマルクは同作を描き上げていた[12]。マルクはカンバスの後方に「生きとし生けるもの業火と苦しむ (Und Alles Sein ist flammend Leid)[12][13]」と書き込んでいる。第1次世界大戦に出征後にマルクは妻に宛ててこの作品について書き送っている。「この戦争についての予感のようなものだ -- 悲惨で最悪だ。自分がそれを描いたのだとは到底考えることなどできない[14]。」
ナチスは権力を掌握すると、近代芸術を抑圧した。1936年と1937年に、亡きマルクを「退廃した芸術家」と中傷し、約130点の作品をドイツの美術館の展示から外すように指示した。「青い馬」は1939年6月29日にルツェルンの悪名高いテオドール・フィッシャー画廊の「退廃芸術即売会」で売り出され、リエージュ市立美術館によって競り落とされた[15]。『風景の中の馬』は100点以上の絵画とともに、2012年になってミュンヘンのコルネリウス・グルリットのアパルトマンから発見された。グルリットの父ヒルデブラントは、ナチスが資金集めのために近代美術を「退廃芸術」と称して取引した、4人の公認画商のうちの一人であった[16][17]。
2017年にクルト・グラーヴィの遺族が、マルクの絵画『狐』(1913年)の返還をデュッセルドルフのクンストパラスト美術館に申し入れた。グラーヴィはユダヤ系ドイツ人の銀行家で、ナチスが政権に就くまで『狐』の所有者であったのだが[18]、水晶の夜で逮捕され1938年にザクセンハウゼン強制収容所に監禁された後、1939年にチリに亡命した。『狐』は、Das Deutsche Zentrum Kulturgutverluste によると、ニーレンドルフ画廊経由でウィリアム・ディターレとその妻シャーロットの手に渡ったという[19]。2021年にドイツ諮問委員会がデュッセルドルフ市に絵画をグラーヴィの遺族へ引き渡すように勧告すると[20][21]、返還が実行された。『狐』は2022年にクリスティーズにおいてグラーヴィの遺族によって売却された[22][23]。
マルクの実家は、歴史的な銘板をつけてミュンヘンに建っている。1986年に開所したフランツ・マルク美術館はコッヘル・アム・ゼーに位置しており、マルクの生涯と作品に向けられている。マルク作品の多くを所蔵するだけでなく、マルクと同時代のその他の画家の作品も所蔵している[24]。
1998年に、『赤い鹿Ⅰ (Rote Rehe I )』を含むマルクの絵画数点が、ロンドンのクリスティーズのオークション・ハウスにおいて高値を記録し、『赤い鹿Ⅰ』は330万ドルで売却された。1999年10月に『滝 ( Der Wasserfall )』はロンドンのサザビーズにより506万ドルで売却された。この価格は、マルク作品にとっても近代ドイツ絵画にとっても記録となった。2008年に記録がまたもや更新され、『放牧馬Ⅲ (Weidende Pferde III) 』が1234ポンド(約2440万ドル)でサザビースにて売却された[25][26][27]。この記録も2022年に『狐』の売価4260ポンドに破られている[28]。
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