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帝国自由都市(ていこくじゆうとし、独: Freie Reichsstadt、英: Free Imperial City)は、中世よりドイツ(神聖ローマ帝国)で見られた都市の一形態。地方領主や司教の統制下でなく、皇帝直属の地位におかれ、一定範囲における自治を行使した都市を指す。自由帝国都市とも表記される。
当初は、歴代ローマ王、皇帝の指示により建設されたり、宮廷が設けられた都市が帝国都市(Reichsstadt)と称された。その後、中世都市の勃興・発展が進むと、地方領主の統制下におかれることを望まない都市が皇帝に接近し、貢納などと引き替えに特許状を獲得して事実上領主から独立していった。これらの都市も帝国都市と称される。
司教都市の中で、大司教・司教の統制下から脱して皇帝直属の地位を得た都市は、帝国都市(貢納や軍役などの義務を負う)と異なって貢納や軍役などの義務から解放されていたことから、自由都市(Freie Stadt)と称されていた。
上記の点で、本来は自由都市と帝国都市は別個の概念であった。しかし、中世後期になって帝国都市が発展していくと、帝国都市に課されていた義務は形骸化し、両者はほぼ同じものになった。このため、両者をあわせて帝国自由都市(Freie Reichsstadt)と称するようになった。帝国自由都市は領邦と同等の地位にあり、帝国議会へ代表を派遣することができた。
この帝国自由都市の存在は、所領の農奴が逃亡して労働力が失われるなど、各地の領邦君主にとって望ましくない存在であった。また、領邦君主が自らの権力強化を図るのであれば、都市に蓄積されている富を狙わない手はなかった。16世紀より、宗教改革の波に乗じて、領邦君主はアウクスブルクの宗教和議を通じて領邦教会制(Landeskirchentum)を確立させた。これにより所領内の教会を統制下におき集権化を進め、さらに各都市への統制強化を図った。多くの都市はこうして領邦君主の統制下におかれ、自治権の多くを剥奪された。1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)で領邦主権が確認されたことも、この動きを加速させた。
さらに、ナポレオン戦争においてドイツが占領されると、ナポレオン政権下での行政区再編にともなって、ブレーメン、ハンブルク、フランクフルト・アム・マイン、リューベックの4都市以外は帝国自由都市としての地位を失った。ナポレオンの失脚後にドイツ連邦が発足するが、この連邦は35の邦国(発足当初は34)と上記の4帝国自由都市によって構成されていた。この4都市のうち、ブレーメンとハンブルクは、現在のドイツ連邦共和国において独立した連邦州として扱われ、今でもそれぞれ「自由ハンザ都市ブレーメン」「自由ハンザ都市ハンブルク」を正式名称としている。
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