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アメリカのギタリスト、作曲家 (1960-) ウィキペディアから
スティーヴ・ヴァイ(Steve Vai、本名 Steven Siro Vai、1960年6月6日 -)は、アメリカのロックギタリスト、作曲家。
スティーヴ・ヴァイ | |
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Majówka 2023より | |
基本情報 | |
出生名 | Steven Siro Vai |
生誕 | 1960年6月6日(64歳) |
出身地 | アメリカ合衆国ニューヨーク州 |
ジャンル |
ハードロック ヘヴィメタル プログレッシブ・ロック |
担当楽器 | ギター |
活動期間 | 1980年 - 現在 |
レーベル |
Urantia Records Relativity Records/エピック・レコード Favored Nations |
共同作業者 |
フランク・ザッパ アルカトラス デイヴィッド・リー・ロス ホワイトスネイク G3 オジー・オズボーン ビリー・シーン エイドリアン・ブリュー |
公式サイト | http://www.vai.com/ |
グラミー賞を第36回(1993年)、第44回(2002年)、第51回(2009年)の3回受賞した。フランク・ザッパが見出したミュージシャンの中で、最も商業的に成功した1人である。
6歳よりオルガンを習い始め、耳にしたメロディーはすぐに弾けるまでに達した。10歳から13歳の間にはアコーディオンも演奏していた[注釈 1]。
レッド・ツェッペリンと出会い、ロックに目覚める。13歳の頃に赤のTeisco del Reyを友人から5ドルで購入し、初めてギターを手に入れた[1]。帰り道に立ち寄った楽器店で1セットの弦を購入、その足で「当時地元で有名だったギター講師」こと、ジョー・サトリアーニの元へ弟子入り。「そのころは弦の張り方も知らなかった」(本人談)。「スティーヴは5ドルで買ったとかいうとんでもない安物ギターと、3年前に買っておいたという弦を1セット手に持ってやってきた。お互い、まだもの凄く低いレベルにいたんだよ(笑)。でもその後、今考えても彼は素晴らしく上達が早かった。日増しに……というよりも、1時間毎に上達している感じだったな」(サトリアーニ談)[2]。2番目に手に入れたギターはUnivoxのレスポールタイプ[1]。
高校で楽典や音楽理論を習得し、バークリー音楽大学に入学。在学中に養った採譜力をかわれ、フランク・ザッパのバンドの採譜役として雇われる[注釈 2][3]。
1980年10月から12月までのザッパの北アメリカ・ツアーから、正式にザッパのバンドにギタリストとして加入[4]。ヴァイに与えられたセクションネームは「Impossible Guitar Part」「Stunt Guitar」「Strut Abuse」などで、名前の通り主に作曲者ザッパの演奏不可能なパートを受け持つ。ライブのソロ・コーナーでは、聴衆やメンバーが持って来たミュージカルのスコアを初見で演奏する芸を披露[要出典]。ザッパとの活動を続ける傍ら、セッションミュージシャンとして数多のアーティストとも競演する。
次いで、1981年9月から12月までの北アメリカ・ツアーと1982年5月から7月までのヨーロッパ・ツアーに参加。1982年、ザッパの演奏をヴァイが採譜したものを集めて『The Frank Zappa Guitar Book』[5]が出版される。この年カリフォルニアに移住する。
1984年、グラハム・ボネットのバンド、アルカトラスからイングヴェイ・マルムスティーンが脱退したため、後任として加入。
1985年、元ヴァン・ヘイレンのデイヴィッド・リー・ロスから誘いを受けて、バック・バンドに加入。アルバム2枚に参加した後、バンドを脱退。かねてより構想を練っていたソロ・アルバムの作成にとりかかる。
1986年、元セックス・ピストルズのジョン・ライドンのバンド、パブリック・イメージ・リミテッドのアルバム『ALBUM』(CD版タイトルは『COMPACT DISC』)のレコーディングに参加(坂本龍一やジンジャー・ベイカー、ビル・ラズウェルらと競演)。
1986年、映画『クロスロード』(音楽監督は、ライ・クーダー)に悪魔に魂を売り渡したギタリスト「ジャック・バトラー」役で出演。終盤のギター対決では、テレキャスターを持ったギター少年「ユージン」と壮絶なギターバトルを展開する。
1989年、レベッカの12枚目のシングル「SUPER GIRL (SUPER REMIX)」にリード・ギターで参加[注釈 3]。
1989年、元ディープ・パープルのデイヴィッド・カヴァーデイルが結成した、ホワイトスネイクにレコーディング寸前に負傷で演奏が不能になってしまったエイドリアン・ヴァンデンバーグの代役として急遽加入し、アルバム『スリップ・オブ・ザ・タング』を製作[注釈 4]。但し、ヴァイの「派手過ぎる」激しいギターソロ等は賛否両論が巻き起こった。特に「フール・フォー・ラヴィング」の原曲との違いは、ファンの内で議論の的となる。
続くワールドツアーにも参加。翌1990年に発表されたソロ・アルバム『パッション・アンド・ウォーフェア』はインストゥルメンタルアルバムでありながら全米18位[6]・全英8位[7]を記録する大ヒット作となった。
ホワイトスネイクのワールドツアーを終えてソロ活動に復帰したヴァイは新人ボーカリスト、デヴィン・タウンゼンドを発掘し、バンド名義「ヴァイ(Vai)」としてアルバム『セックス・アンド・レリジョン』を発表。1993年、ザッパのトリビュート・アルバム『Zappa's Universe: A Celebration of 25 Years of Frank Zappa's Music』に収録された「Sofa」と「Dirty Love」の2曲に参加し[8]、「Sofa」によって第36回グラミー賞最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞を受賞した[9]。1994年にはオジー・オズボーンとの競作、競演のセッションに参加。このときのセッションからオズボーンのアルバム『オズモシス』に彼が作曲した「マイ・リトル・マン」が収録される[注釈 5]。
続いてソロ・アルバム『エイリアン・ラヴ・シークレッツ』、『ファイヤー・ガーデン』を発表。また、1997年、彼がコンセプトを立案して「クリスマス・タイム・イズ・ヒア」のカヴァーを演奏したクリスマス・アルバム『メリー・アックスマス』が発表された。彼は1998年に発表された続編『メリー・アックスマス2』でもエグゼクティヴ・プロデューサーとして関与したが演奏には不参加[10]。
1999年、ソロ・アルバム『ウルトラ・ゾーン』を発表。『ウルトラ・ゾーン』の「エイジアン・スカイ」ではB'zと共演している。なお、ヴァイは後に松本孝弘のソロ・アルバム『華』収録の「#1090 [千夢一夜]」と「Romeo & Juliet」ではミックスを担当した。
2000年、レーベル「Favored Nations」を設立。2004年にはジャズ部門を増設。
2002年、東京のサントリーホールで、野平一郎が作曲したエレクトリックギターと百人編成のオーケストラのための曲「炎の弦(La corde du feu)」を東京都交響楽団と世界初演。
2004年、マイクロソフトのテレビゲーム『halo 2』のメインテーマをギタリストとして担当。彼がオーケストラのために作曲した曲を、オランダでメトロポール・オーケストラと共に演奏し、一連の演奏シリーズは、The Aching Hungerと名付けられた。
2005年、約5年ぶりのスタジオ・アルバム『リアル・イリュージョンズ』を発表。「困難の連続である人生、その中で真理を探究する男」にまつわるお伽話「Real Illusions」と、そのストーリーに付随する音楽をアルバムにまとめることをコンセプトとした三部作の第1作目という位置付けだった[要出典]。オープニングを飾る「ビルディング・ザ・チャーチ」は、テレビドラマ「医龍-Team Medical Dragon-」の挿入曲として、手術シーンを中心に使われた。
同年、パリでクラシック・ギタリスト、シャロン・イスビンと共演してデュアルギター(エレクトリックとクラシック)曲「The Blossom Suite」のプレミアを行う。
2006年、ツアーでドゥイージル・ザッパと競演。ザッパ・プレイズ・ザッパにも一部参加した。
2011年3月3日、母校バークリー音楽大学と提携し、NYのスタジオから30分間のギター・レッスンをライブ・ストリーミングした。レッスンには4,455人がアクセスしたとギネス・ワールド・レコーズから認定され「Largest Online Guitar Lesson(最大規模のオンライン・ギター・レッスン)」のギネス世界記録を樹立した[11]。
2012年、7年前の2005年に発表した『リアル・イリュージョンズ』の続編で、彼が三部作の第2作目と位置付けた[12]アルバム『ザ・ストーリー・オブ・ライト』を発表[13]。収録曲「ノー・モア・アムステルダム」には、シンガーソングライターのエイミー・マンが作詞とボーカルで参加した[14]。
2024年3月22日、サトリアーニとのジョイントツアー『SATCH-VAI』をフロリダ州オーランドより開始。また3月29日にサトリアーニとのコラボ曲「The Sea Of Emotion, Pt.1」を発表。翌30日には、サトリアーニの息子・Z.Z.が監督を務めた同曲のミュージック・ビデオがYouTubeでプレミア公開された[15]。
同年4月、エイドリアン・ブリューらと共に、ブリュ―が在籍していた1980年代のキング・クリムゾン[注釈 6]の楽曲をカバーするプロジェクト 「BEAT」を結成し[注釈 7]、秋からツアーを開始する[16]。
ザッパ時代及びアルカトラズ初期は改造したストラトキャスターを使用(ヴァイはこれを"whale guitar"と呼んで大事にしていた)。その後ジャクソン、カーヴィン等を経てアイバニーズとエンドース(アイバニーズのシグネイチャーモデル"JEM"を作成)。そのギターは最初の使用から現在に至るまで継続されている(サスティナー搭載モデルや12弦/6弦/6弦フレットレスのトリプルネックギター、各ポジションでのイントネーションを正確にする機構となる湾曲フレット「トゥルー・テンペラメント・フレッツ」のモデルも在り)。
JEMモデルの中でもメインにして使用しているのがEVOとFLOと呼ばれる個体で、それらをヴァイが気に入って使っている理由としては、それらのネックとボディは叩くとユニゾンの音程で共鳴するからとの理由をあげている(個体によってはネックとボディの共鳴が三全音になったり減音程になったりして好ましく無いらしい)。
前後ピックアップにハムバッカーを、センターにシングルコイルを配する配列と、五連スイッチと言うスタイルは、アイバニーズの「RG」と、それを基に開発された彼が愛用しているシグネイチャーモデル「JEM」シリーズが、市販のギターとしては最も初期の例の一つである。元々この仕様のピックアップ配列は、かつて使用していた大掛かりな改造が施された1970年代のフェンダー・ストラトキャスターに端を発している。
現在は使用する機会が減っているが、ホワイトスネイクに参加した頃から、アイバニーズの7弦ギター"ユニヴァース"を使用し、ソロ・アルバム『パッション・アンド・ウォーフェア』ではほぼ全面的に使用している。KORNのマンキィ(ジェームズ・シェイファー)は、『パッション・アンド・ウォーフェア』に衝撃を受けて7弦ギターを弾くようになった[17]。
アンプとキャビネットはカーヴィンのシグネイチャーモデル「Legacy」を使用(かつてはマーシャルやメサ・ブギー(en:Mesa Boogie)等を使用)。
ディストーションペダルはアイバニーズのシグネイチャーモデル"Jemini"を使用しているようである(2016年現在は生産が打ち切られている。かつては永らくボス社のDS-1をKeeley Electronicsがモディファイしたものを愛用していた)。
ワウペダルにモーリー社のバッドホーシー。フェイザーにエドワード・ヴァン・ヘイレンモデルのMXRフェイズ90。ほかハーモナイザーに、イーヴンタイドのウルトラハーモナイザーを使っているが、これは彼自身が開発に参加しており、彼のプログラミングしたチューンがプリセットされている。彼はレコーディングに限らずステージでもこれらをラックに組み込んでいる。
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