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ソビエト連邦の作曲家 ウィキペディアから
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(ロシア語: Дмитрий Дмитриевич Шостакович [ˈdmʲitrʲɪj ˈdmʲitrʲɪjɪvʲɪtɕ ʂəstɐˈkovʲɪtɕ] ( 音声ファイル) ラテン文字転写の例: Dmitri Dmitriyevich Shostakovich, 1906年9月25日(ロシア暦9月12日) - 1975年8月9日)は、ソビエト連邦時代の作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲が有名である。
シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。
当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言』[1]が出版されて以後、ショスタコーヴィチには皮肉や反体制、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した悲劇の作曲家」というイメージも加わった。
1906年にショスタコーヴィチはペトログラードで誕生した。父はドミートリイ・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチで母はソフィア・ショスタコーヴィチであった[2]。両親が音楽好きなこともあり、ドミトリイは小さい頃から声楽やピアノなどを聴き、また1915年には母に連れられてリムスキー・コルサコフのオペラ「皇帝サルタンの物語」を観劇するなど、音楽に接する時間に恵まれた幼少期を過ごした[3]。やがて母のすすめでピアノを演奏するようになるとまたたく間に上達し、ハイドンの交響曲の緩徐楽章やショパンなどを演奏するようになった[4]。
その後、ドミトリイは私立のシドロフスカヤ商業学校に通い、ロシア革命の影響で同校が国有化され1919年に廃校になると、ペトログラードのグリャスセル音楽学校に転校し、アレクサンドラ・ローザノヴァにピアノと作曲を師事した[5]。音楽院への入試対策にあたって両親はドミトリイの作曲の実力を指揮者のアレクサンドル・ジロティに酷評されたことがきっかけとなりアレクサンドル・グラズノフにドミトリイを引き合わせた[6]。このときドミトリイの作品を聴いたグラズノフは「モーツァルト的才能」と評価した[6]。
1919年ペテルブルク音楽院(後にペトログラード音楽院、レニングラード音楽院)に入学。専攻は作曲とピアノで、ピアノをレオニード・ニコラーエフに、また作曲をマクシミリアン・シテインベルクに師事した[7][8]。1925年に、同音楽院作曲科の卒業作品として作曲した交響曲第1番において国際的に注目された[9]。
1920年代後半からはオペラ「鼻」や「タヒチ・トロット」などを制作したが第一次五カ年計画の成立とプロレタリア音楽家協会の台頭に伴い、ネップ期に流行した軽音楽やジャズなどの音楽が「ブルジョア的である」として弾圧されていくと、ショスタコーヴィチのこれらの作品も批判にさらされた[10]。またこの頃よりショスタコーヴィチは映画音楽の制作にも携わり「新バビロン」や「女ひとり」、「マクシム」三部作などの音楽を発表した[11]。その後、演劇のための作品「南京虫」や「射撃」、バレエ「黄金時代」、「ボルト」など舞台作品を中心に作品を発表した[12]。
1930年代にはベルクの歌劇「ヴォツェック」から影響を受けた歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」とバレエ「明るい小川」を制作し一躍大成功を収めた[13]。その後、ピアニストとしての復帰を念頭に「24の前奏曲」やピアノ協奏曲第1番などを発表した[14]。
1936年にソヴィエト共産党機関紙『プラウダ』で批判(プラウダ批判)を受け、自己批判を余儀なくされる[15]。この時期のソ連ではスターリンによる大粛清が吹き荒れており、粛清の危機から批判前に作曲し、オーケストラでリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回を強いられた[16]。批判後、発表された交響曲第5番は社会主義リアリズムを踏襲した作品として共産党からのお墨付きを得た[17]。新たに作曲された交響曲第5番以降は、それまでの作風から一転し、政府が自国の音楽に求めた「社会主義リアリズム」の路線に沿う作風の作品を発表し続けることとなる。
1937年にはレニングラード音楽院の作曲科の講師として作曲と管弦楽法などの講座を受け持った[18]。1938年には長男となるマクシムが誕生した。
交響曲第5番での挽回後は室内楽が中心的に制作された。中でも、スターリン賞を受賞したピアノ五重奏曲や、友人の突然の死を悼んだピアノ三重奏曲第2番、弦楽四重奏第1番などがある。
1941年には独ソ戦が、同年9月からはレニングラード包囲戦が始まり、渦中のレニングラードにいる市民を鼓舞するため交響曲第7番「レニングラード」が制作され、大成功を収めた[19]。こうした戦いへの勝利を描いた交響曲第7番とは対照的に交響曲第8番は戦争の惨禍や犠牲者を偲ぶ重く深刻な内容となっており、作品の発表後、すぐに当局からの批判の対象となりレパートリーからは外された[20]。続く交響曲第9番はソ連のナチスへの勝利が決定的となった1944年に書かれた作品で、戦争の勝利を祝う軽快な内容の作品であるが、ベートーヴェンの交響曲第9番のような壮大で賛美的な内容を期待した当局の期待を裏切る結果となり、発表後、やはり第8番同様、激しい批判にさらされた[21]。
1948年、ソビエトの作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党により批判(「ジダーノフ批判」と呼ばれる。)されると、オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、あからさまに当局に迎合した共産党賛美の作品を多数作り、名誉の回復を勝ち得た[22]。一方、ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)や『ユダヤの民族詩から』(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)など、この頃書かれた作品のうち、何曲かは公表が控えられ、多くはスターリンの死後に発表された。
1953年にスターリンが死ぬと、第9番以降、ジダーノフ批判以後は書かれていなかった交響曲(第10番)を約8年ぶりに発表[23]。曲の内容の暗さと「社会主義リアリズム」との関係において、大論争(いわゆる第10論争)を巻き起こし、国外でも大きく報道された。
翌1954年、妻のニーナが癌で他界した[24]。元々、夫婦間の関係は冷え込んでおり、ショスタコーヴィチも教え子であったガリーナ・ウストヴォリスカヤと交際関係を持っていたが、ニーナの死後、ガリーナとの再婚を申し込むも拒否された[25]。またその翌1955年、母のソフィアも他界した[25]。その1年後の1956年には突如、コムソモールの活動家であるマルガリータ・カーイノヴァと結婚した[26]。
この年、ソ連ではニキータ・フルシチョフが新たな総書記として権力の座に就任し、前任のスターリン政権下で行われた大粛清や個人崇拝を批判するスターリン批判が行われた。その後のいわゆる「雪解け」の時期には、演奏が禁止されていた作品の名誉回復(『ムツェンスク郡のマクベス夫人』でさえ、中規模程度の改訂の後、1963年に復活上演された)、交響曲第4番やヴァイオリン協奏曲第1番といった公表が控えられていた作品の発表、「社会主義リアリズム」の概念にとらわれない近代的で斬新な作風の作品(弦楽四重奏曲第7番や『サーシャ・チョールヌィの5つの詩』、映画音楽『ハムレット』など)の発表が相次いだ[27]。
1960年にはフルシチョフによる圧力から共産党への入党を余儀なくされた[28]。1962年にはかつてスキャンダルに発展したオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を改訂し、第二幕の暴力的な描写や一部表現をマイルドにさせた「カテリーナ・イズマイロヴァ」として再発表した[29]。
1960年代頃よりショスターヴィチは健康を害し、特に右手の麻痺が深刻になっていった[30]。またこの頃には作風もかつての前衛的な手法へと回帰し、12音技法やトーン・クラスターなどをショスタコーヴィチなりに解釈した『ブロークの詩による7つの歌曲』や交響曲第14番などを制作した[31]。
ショスタコーヴィチの最晩年を代表する作品には、ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲や、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の運命の動機など他作曲家の作品の引用を大胆に行い(自作の交響曲第4番の引用もある)、自身の音楽的回想とした交響曲第15番(1972年)、すべての楽章をアダージョとし、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』からの引用もみられる弦楽四重奏曲第15番(1974年)、死の1か月前に完成し、ショスタコーヴィチの「白鳥の歌」とも呼ばれる、作曲者自身聴くことの出来なかった遺作ヴィオラソナタ(1975年)などがある。
ショスタコーヴィチの作品には、J.S.バッハのフーガ、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、マーラーの交響曲、ベルクの和声語法や引用法などの影響が見られ、オーケストレーションはあまり楽器の音色を混ぜない原色配置である。原則としてショスタコーヴィチの音楽は調性音楽の範囲内にあるが、無調的な主題を用いることも多く、最晩年には十二音技法を自分なりに消化した独自の音列技法やトーンクラスター等の前衛技法を用いたりしている。戦争や生死などをテーマとした重い作品が多い一方、交響曲第9番やジャズ組曲のような軽妙な作品も多く作曲している。
一般に作風の変化の境界点は、以下の項目に分けられる。
作品1 - 作品46(1919年 - 1936年)少年期から音楽院入学以前の極初期は除き、ショスタコーヴィチの作風は前衛的な音楽から出発したといってよい。例えば、交響曲第1番の冒頭ではグラズノフに和声の変更を指摘されていた。当時のソ連の文化状況は、社会主義リアリズム以前の、ロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる前衛的芸術が盛んな時代であり[33]、ショスタコーヴィチは当時の現代音楽語法を探求し、西洋のモダニズムの作曲家の影響を受けていた。「前衛的」と最もはっきりとわかる初期の作品としては、『弦楽八重奏のための2つの小品』(作品11)、ピアノソナタ第1番(作品12)、『10の格言集』(作品13)、そして交響曲第2番(作品14)がある[33][34]。しかし、『タヒチ・トロット』(作品16)や映画音楽『新バビロン』(作品18)以降は、ジャズやボードビル、キャバレー・ソングなど、軽音楽の影響も受けることとなる。この分野の傑作としてはバレエ『黄金時代』(作品22)、劇音楽『条件付の死者』(作品31)、ピアノ協奏曲第1番(作品35)などがあるが、枚挙に暇がない。交響曲第4番(作品43)の第3楽章の中間部は、明らかに軽音楽の影響が濃厚である。ショスタコーヴィチの、新ウィーン楽派に影響を受けたという意味での「前衛音楽」としての最後の作品は、管弦楽のための『5つの断章』(作品42)である。この作品は、交響曲第4番同様発表が控えられ、初演が行われたのは1965年になってからである。ゴーゴリの短編に取材したオペラ『鼻』(作品15)は、彼自身交流のあったメイエルホリドの斬新な舞台演出の影響を受け、古典形式を基本としながらも、ベルク、クルシェネクら同時期の作品を参考にしたきわめて前衛的な作風で発表当時から賛否両論を巻き起こす問題作となり、次作のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(作品29)とともに彼の初期作品のピークとなる。初期はロシア音楽の伝統を受け継ぎながら最新の音楽を取り上げるなど機智と独創性に富んだ作風であったが、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』がスターリンの怒りを買い、折からの粛清が絶頂期にあることも鑑み、前衛色は失われていった。
作品47 - 作品92(1936年 - 1953年)第4番のような前衛性を控えた交響曲第5番(作品47)は初演後に「社会主義リアリズムのもっとも高尚な理想を示す好例」と評価された[35]。この時期のショスタコーヴィチが音楽を担当した映画は「社会主義リアリズム」に基づいたテーマのものばかりで、ロシア革命を主題としたものが多い。例えば、ノンポリの学生が革命の理念に目覚め、社会主義的に成長する姿を描いた『マクシム三部作』(『マクシムの青春時代』作品41、『マクシムの帰還』作品45、『ヴィヴォルグ地区』作品50)、ロシア革命の英雄チャパーエフの活躍を描いた『ヴォロチャーエフ砦の日々』、暗殺されたキーロフを髣髴とさせる人物が主人公の『偉大な市民』2部作(作品52、55)、ロシア革命におけるレーニンとスターリンの活躍を描いた『銃を取る人』(作品55)、ロシア革命後の赤軍と白軍との内戦を描いた『忘れがたき1919年』(1952年、作品89)である。第二次世界大戦の勃発後はピアノ五重奏曲(作品57)や交響曲第8番(作品65)、ピアノ三重奏曲第2番(作品67)などこの路線から離れた作品もいくつか残している。しかし、1948年に「ジダーノフ批判」が出てからは、オラトリオ『森の歌』(作品81)や映画音楽『ベルリン陥落』(作品82)、『革命詩人の詩による10の詩曲』そしてカンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、再び意識したように「社会主義リアリズム」色濃い作風の作品を残している。この時期の作品としては交響曲第8番などの他に、歌劇『賭博師』や、ヴァイオリン協奏曲第1番なども、社会主義リアリズムの路線からは離れた作風であると評価されることが多い。
ショスタコーヴィチの作曲家としての「ユダヤの音楽」への関心が明らかな最初の作品は ピアノ三重奏曲第2番 (1944年)といわれていた[36][37]。もちろんショスタコーヴィチはユダヤ人ではなかったが、マーラーへの興味をはじめとし、1936年には、プラウダ批判によって、自分の悲運をユダヤ人のそれに沿って象徴するものと考えるようになった[38]。1937年の交響曲第5番第3楽章にはユダヤ音楽の要素が表れ、それは交響曲第3番(1929年)からのユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律の引用でもある[38]。また交響曲第7番(1941年)第1楽章のクライマックスなどにはクレズマー旋律が使われている[39]。音楽院の愛弟子でレニングラード攻防戦で戦死したユダヤ人、ヴェニアミーン・フレーイシュマンの未完のオペラ『ロスチャイルドのヴァイオリン』の補作(1944)を行ったこともある。作品にユダヤ音楽の主題が使われているのは歌曲集『ユダヤの民族詩から』(1948年)、 ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)、24の前奏曲とフーガ(1951年)、プーシキンの詩による4つのモノローグ(1952年)である[40]。 ピアノ協奏曲第2番(1957年)第2楽章や交響曲第9番(1945年)フィナーレの後半には、ユダヤ人には「それ」としてハッキリ分かる形でユダヤ音楽が引用されているという。弦楽四重奏曲第8番(1960年)には、ピアノ三重奏曲第2番最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されている。その他の作品では交響曲第13番 (1962年)、また 交響曲第15番 (1971年)最終楽章での交響曲第7番の引用にユダヤ音楽のテーマを見出せる[41]。 ショスタコーヴィチの周りには、例えば親しい友人に作曲家のミェチスワフ・ヴァインベルク、俳優ソロモン・ミホエルスなどユダヤ人は多かったし、このほかオーケストラの団員にもユダヤ系は多かった。
作品93 - (1953年 - )1953年3月5日、スターリンが死去。独裁者の死は、ソビエトの社会に一時の混乱をもたらした。1956年、フルシチョフによって行われた「スターリン批判」により、スターリンの独裁体制は名実ともに崩れ去った。スターリンの死に合わせたように、ショスタコーヴィチは、第9番を最後に中断していた交響曲を書き始め、すぐに発表する。前衛的な作風ではないものの、終始音楽に悲劇的な重さが付きまとう音楽で、自身のイニシャルをドイツ音名にした「DSCH」の音列も頻出する、自伝的な作品である。この作品以降、ショスタコーヴィチの曲には「DSCH」の音列が頻繁に使われるようになる。1950年代も終わり近くになると、ソヴィエトの社会主義体制も次第に軟化しはじめ、アメリカとも協調姿勢をとるようになってゆく。「雪どけ」といわれるこの時期、ショスタコーヴィチが発表を控えていた交響曲第4番などの作品が数十年ぶりに「初演」された。戦前、ショスタコーヴィチが個人批判される元凶となった歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はそのままの形での上演は絶望的だったものの、ある程度改訂された『カテリーナ・イズマイロヴァ』(作品114)は再上演が許される状態にまでなった。しかし、交響曲第13番の歌詞問題が表面化した頃、キューバへのミサイル配備計画がアメリカに非難されたのをきっかけに「雪どけ」体制は解体され、冷戦の時代に突入する。
ブレジネフ時代になり、国内では締め付けが強まるが、ショスタコーヴィチ自身の生活は安定し数々の栄誉に包まれるなど、音楽活動を続ける環境はスターリン時代と比べ格段に恵まれていた。相変わらず体制に迎合した作品もあるが、作風は芸術性が高まり、七楽章の弦楽四重奏曲第11番(1966年)・マーラーの『大地の歌』の影響を受けた声楽つきの交響曲第14番(1969年)。豊かな響きと緊張感漂う映画音楽『リア王』(1970年)などの意欲作を相次いで発表した。とくに『ブロークの詩による七つの歌曲』(1967年)と弦楽四重奏曲第12番(1968年)においては十二音技法に挑戦するなど、その研究心は衰えなかった。
最晩年になると、作風も哲学風で研ぎ澄まされた独特の透明感が支配的となる。交響曲第15番(1971年)、弦楽四重奏曲第14番(1973年)・弦楽四重奏曲第15番(1974年)では過去の作品からの引用が顕著になるが、そこにはすでに健康の衰えを感じ、死を意識した作曲者の思いが見え隠れする。それは政治に翻弄された波瀾万丈の人生を振り返り、達観したかのような感を受ける。また「ミケランジェロの詩による組曲」(1974年)では、自身の芸術の総括をルネサンスの芸術家に譬えたものとして評価されている。
ショスタコーヴィチの創作の中心は、交響曲と弦楽四重奏曲にあった。これらのなかでも特に有名なのが、交響曲第5番、第7番、第10番と弦楽四重奏曲第8番である。また歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』 は古今のオペラの傑作の一つとされる。
全10作品
編曲でありながら自身の作品として作品番号を与えているものもある。
創作ジャンルは宗教音楽以外のほぼ全てにわたる。労働歌で1917年から1944年の間ソヴィエト連邦国歌でもあった『インターナショナル』の管弦楽編曲もある。
本人の著書と称されているものが、日本では2冊出版されている。ソロモン・ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳 中央公論社、1980年)と、レフ・グリゴーリエフとヤーコフ・プラデークの手による『ショスタコーヴィチ自伝――時代と自身を語る』(ラドガ出版社訳 ラドガ出版社〔発売:ナウカ〕、1983年)である。前者は、はじめは1979年にアメリカ、ドイツで出版されたもので、ショスタコーヴィチの評価をめぐって論議を巻き起こした。発表された当初からソビエト作曲家同盟などのほかローレル・フェイのような西側の音楽学者からも偽書である疑いが投げかけられ真贋については議論があった[1]。詳細は「ショスタコーヴィチの証言」を参照。
後者は1980年にソ連で刊行された。「自伝」とあるが、正確には、ショスタコーヴィチが生前にさまざまな媒体に発表した文章などを年代順にまとめたものである。ヴォルコフやマクシム・ショスタコーヴィチは、「実際には、別人が書いていたのだ」と主張している。すべての記事はソビエト体制下では公式見解として発表されたものである。
ショスタコーヴィチはさまざまな人物と頻繁に手紙をやりとりしており、数冊が出版されている。邦訳書は2006年現在、存在しない。とりわけ有名なのは、音楽学者イサーク・グリークマンと行われた書簡集である。1993年にロシアで出版されたもので、英訳されている (Story of a Friendship, trans. by Anthony Phillips, London: Faver/Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 2001.)。
2006年9月25日、ショスタコーヴィチ生誕100周年を記念し、ショスタコーヴィチと公私共に親友だったイワン・ソレルチンスキーとの往復書簡が出版されている。これは、イワンの息子であり音楽学者のドミトリーが編纂した書籍。ショスタコーヴィチとソレルチンスキーが知り合った1927年から、ソレルチンスキーが急逝した1942年までにやりとりされた、現存するほぼすべての書簡が掲載されている。
なお子息2人(ガリーナとマクシム)による、多くの写真を交えた回想証言『わが父ショスタコーヴィチ』(田中泰子訳、音楽之友社、2003年)が出版されている。
小惑星(2669) Shostakovichはショスタコーヴィチにちなんで命名された[43]。
大のサッカー好きで、地元のサッカークラブのスコアをメモ帳に書き記すなどの熱狂的サッカーファンだった。サッカーの審判の資格も持っていた。
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