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クライド・ライト
アメリカの野球選手 (1943-) ウィキペディアから
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クライド・ライト(Clyde Wright, 1943年2月20日[1][2][注釈 1] - )は、アメリカ合衆国テネシー州出身の元プロ野球選手(投手)。左投右打。
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来歴・人物
要約
視点
カーソン・ニューマン大学で活躍し、ミネソタ・ツインズからドラフト指名され、入団。カリフォルニア・エンゼルス移籍後の1966年6月15日にメジャー初登板。この試合では4安打完投勝利を収め、フルシーズン3年目の1968年には10勝6敗の好成績を残す。
1969年には不調で1勝8敗に終わるが、チームメイトのジム・フレゴシの勧めで現在でいうウインター・リーグに参戦。そこでスクリューボールとチェンジアップを習得し、1970年には22勝12敗、防御率2.83の自己最高の好成績を記録し、ア・リーグカムバック賞を受賞。7月3日のオークランド・アスレチックス戦ではノーヒット・ノーランを達成したが、これはエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム開場初のノーヒッターとなった。また、2009年終了時点でエンゼルスの球団史上唯一の左腕の20勝投手である。
その後も1972年に16勝17敗、1973年に18勝11敗、1974年に11勝19敗と2桁勝利をあげるが、1974年にミルウォーキー・ブルワーズに移籍、さらに1975年はテキサス・レンジャースに移籍し、メジャーでの球歴はここまでで、通算100勝をあげた。
1976年4月28日、読売ジャイアンツにMLB出身の外国人投手として球団初の入団が決定し、5月6日に来日して、3シーズンにわたってプレーした。普段は好人物なのだが、気性の激しさから「クレージー・ライト」と呼ばれ、審判や相手打者とケンカするだけでなく、自分のユニフォームを引きちぎってしまった事や、カメラマンのカメラを取り上げて叩き潰してしまった事もあった。1978年7月15日に事実上の退団が決定、翌16日に現役引退が正式に決まった。また、1977年には規定投球回に到達したが、この年以降巨人の外国人左腕投手が規定投球回に到達したのは2001年のダレル・メイ、自前の外国人左腕投手に限れば2015年のアーロン・ポレダが記録するまでに長い期間が経っていた。
引退後は実業家に転身し、CLYDE WRIGHT'S TENNESSEE BAR-B-QUE を経営。ジャック・ダニエルズを隠し味にしたポーク・サンドイッチをエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムで販売しており、長蛇の列ができている[3]。
2018年4月29日に放送されたサンデーLIVE!!ではエンゼルスの球団職員と紹介されていた。
息子も元メジャーリーガーのジャレット・ライト(父とは違い、右投げ投手)。1970年にノーヒットノーランを達成した際には、最後の打者フェリペ・アルーを二塁ゴロに打ち取り、エンゼルスの二塁手サンディー・アロマー・シニアがダブルプレイに仕留めた。それから27年後、1997年のワールドシリーズには、ライトの息子ジャレット(投手)と、アロマーの息子サンディー・アロマー・ジュニア(捕手)が所属するクリーブランド・インディアンスと、アルーの息子モイセス・アルーが所属するフロリダ・マーリンズが対戦。マーリンズが勝利した。
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詳細情報
年度別投手成績
表彰
- MLB
- カムバック賞 (1970年)
記録
- MLB
- ノーヒットノーラン:1回 (1970年7月3日、対オークランド・アスレチックス戦)
- MLBオールスターゲーム選出:1回 (1970年)
- NPB
背番号
- 38 (1966年 - 1973年)
- 52 (1967年)
- 38 (1974年)
- 25 (1975年)
- 38 (1975年)
- 30 (1976年 - 1978年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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